第215話 その腕は、お姉様ではありません
『お姉さまああああああっ!! お待たせいたしました!! 遅くなり、誠に申し訳ありません!!!』
すみれの歓喜に満ちた声が、外部拡声機を通じてミラーパレス全域へ轟き渡る。
前庭へ集まった者たちは、誰一人として動かなかった。
いや、動けなかった。
鏡宮が誇る絶対防壁を、接触の痕跡すら残さず通過した所属不明の高速飛翔体。
空中で巨大な人型へ変形した、その機体。
紫乃とすみれの象徴色である深い紫と淡いすみれ色に彩られた装甲。胸部中央には、紫乃が愛用する扇子と同じ意匠を中心に、《百花繚乱》の紋様が誇らしげに刻まれている。
さらに、その下で白銀に輝く一文。
『Shino-sama’s smile is my fuel. 紫乃お姉様の笑顔が、私の燃料』
所有者の愛情……あるいは執念を一切隠そうとしない巨大人型機動兵器、《魔導天使ラブレイザー・オルタ》
それは背部へ展開した光の翼をゆっくりと閉じながら、ミラーパレスの前庭へ降下してきた。
巨大な両脚が地上へ近づき、足裏に組み込まれた複数の魔法陣が淡い光を放つ。
凄まじい速度で飛来した機体とは思えないほど、その着地は静かだった。
機体が地面へ触れる直前、紫色の光が足元へ薄く広がり、重量と落下の衝撃を吸収していく。巨体を支える両脚がわずかに沈み込んだものの、地面には亀裂ひとつ入らない。
最後に背中の推進器から花びらのような光の粒子が舞い、駆動音が静かに収まった。
ただし、胸部に刻まれた愛の宣言だけは、いまだ無駄に眩しい光を放っている。
「…………」
レインは、着地した機体を無言で見上げていた。
先ほどまで絶対防壁の優位性を熱く語っていた面影はない。なぜ接触記録すら残らなかったのかを必死に解析しているのか、彼女の周囲には膨大な数の魔術画面が展開されていたが、そのすべてに『該当情報なし』『接触履歴なし』『防壁正常』という無情な表示が並んでいる。
ルーセントや四戒仙も、警戒態勢を解いてはいない。
しかし、目の前の存在を敵と判断すべきなのか、それとも紫乃を慕う少女が乗ってきた少し……いや、かなり特殊な乗り物として扱うべきなのか決めかねていた。
コード・ミラーとコード・ラインの兵士たちも、武器を構えたまま沈黙している。
武器を構え、機体へ向けられているものの、胸に大きく刻まれた『紫乃お姉様の笑顔が、私の燃料』という文言を前にすると、攻撃命令が下される気配はまるでなかった。
やがて、人型機体の頭部に近い上部装甲から、空気の抜ける小さな音が響いた。
複数の装甲板が左右へ分かれ、その内側に隠されていた単座式の操縦席が露わになる。
透明な操縦席のウインドが、ゆっくりと上へ開いた。
内部から、一人の少女が立ち上がる。
長時間の高速飛行と、無理のある急制動の影響だろうか。すみれは操縦席の縁へ両手をつきながら、少しだけふらついていた。
それでも、その瞳は疲労など感じさせないほど輝いている。
地上へ降り立つための昇降装置を探すより先に、彼女の視線は前庭に立つただ一人の人物を見つけ出していた。
「お姉様……!」
すみれの表情が、感動で大きく震える。
自分を待っていてくれた。
紫乃お姉様が、仕事を顧みず、自らの足で迎えに来てくれた。
実際には、所属不明の高速飛翔体が本当にすみれのものなのか確かめ、そのまま絶対防壁を素通りした巨大兵器が何をしでかすのか見届けるため、慌てて飛び出してきただけである。
しかし、すみれの中ではすでに、すべてが都合よく変換されていた。
紫乃が正面扉の近くに立っているのは、自分を一秒でも早く迎えるためであり、少しよろめきながら近づいてくるのは、自分との再会に心を震わせているためであり、片手で頭を押さえているのは、喜びが大きすぎて感情を抑えきれないから。
その瞳に浮かぶ困惑も疲労も、すみれの中ではすべて、愛する妹分との再会を待ち望んでいた証へと置き換えられていた。
「……すみれ」
紫乃は、よろよろと歩き出した。
頭では今すぐその場に座り込みたいと思っている。それでも、巨大人型兵器の操縦席から身を乗り出している少女を放置するわけにはいかなかった。
「あなた、いったい何を……どうして、このようなものを……」
問いかける紫乃の声は、機体上部にいるすみれまでは届かない。
すみれの目には、ただ自分へ向かって歩み寄ってくる、愛するお姉様の姿だけが映っていた。
紫乃の後ろからは、冴月と斗花もついていく。
冴月は、巨大人型兵器そのものへの警戒を完全には解いていない。すみれが紫乃を慕っていることは知っているものの、《鏡界障壁》を無断で通過した行為まで安全だと判断するには、まだ情報が足りなかった。
一方の斗花は、すでに嫌な予感を覚えていた。
操縦席の位置は、地上から十メートル近くもある。
すみれは見るからに運動が得意な少女ではない。それなのに彼女は昇降装置を起動する様子もなく、操縦席の縁へ片足を掛けていた。
「おい、まさか……」
斗花が眉をひそめる。
すみれは、地上にいる紫乃へ両腕を大きく広げた。
「お姉様あああっ!」
「すみれ!? 何をするつもりですの!?」
紫乃が顔を上げた、その瞬間。
すみれは操縦席から、迷うことなく飛び降りた。
「お姉様、ただいま戻りましたああああっ!」
「な——っ!?」
紫乃の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。
すみれの身体が、すみれ色の長い髪と上着を風にはためかせながら、地上へ向かって落下してくる。
その姿はまるで、高い城の塔から愛する騎士を信じ、その胸へ飛び込む姫のようだった。
すみれ本人の脳内では、紫乃が両腕を広げて自分を抱き留め、二人が感動の再会を果たす完璧な光景が出来上がっていた。
とはいえ、現実の紫乃は賢者である。
身体能力は一般人より高いとはいえ、十メートル近い高さから落下してくる少女を真正面から受け止められるような前衛職ではない。
「待ちなさい、すみれ! その高さは……!」
「お姉様あああああっ!」
「話を聞きなさい!……って遅すぎました……」
紫乃は反射的に両腕を伸ばしたものの、自分の力では受け止めきれないことを瞬時に理解してしまった。
このままでは、すみれだけでなく自分まで下敷きになる。
どうにか魔術で落下速度を弱めるべきか。それとも、風の障壁を足元へ形成するべきか。
徹夜明けとは思えない速度で賢者脳が複数の術式を組み上げたが、あまりに突然の出来事だったため、発動が間に合わない。
しかし、紫乃の隣には、そんな計算を必要としない者がいた。
「ったく、何やってやがる!」
斗花が地面を強く蹴る。
一歩で紫乃の前へ飛び出すと、落下してきたすみれの身体を両腕でがっしりと受け止めた。
「よっと!」
衝撃が斗花の足元へ伝わり、地面が小さく沈む。しかし、炎の拳闘士たる斗花は体勢を崩さない。
すみれの背中と膝裏へ腕を回し、完璧なお姫様抱っこの形で抱き留めていた。
「間に合ったか」
斗花が安堵の息を吐く。
すみれもまた、目を閉じたまま、抱き留められた温かさと力強さを感じていた。
(ああ……お姉様……お姉さま)
落下する自分を迷うことなく受け止めてくれた、この逞しく、頼りになる腕。
そして包み込むような安定感……紫乃お姉様の愛情が、言葉ではなく全身を通して伝わってくるのをすみれは身をもって感じていた。




