第213話 絶対防壁は、彼女を敵と認識しない
何万もの鏡面体が空を覆い、その一つひとつに、接近する謎の飛翔体が映り込んでいた。
それはまるで、鏡宮へ刃を向ける存在を決して逃がさぬ、巨大な獣の瞳。
いな、鏡で形作られた、無数の牙だった。
「この結界は、ただの防壁じゃない」
レインは力強く言い切る。
「攻撃を拒絶し、侵入を否定し、触れた存在そのものを解析して無力化する……鏡界の牙だ!」
彼女の声が前庭へ響き、鏡宮の兵士たちの間から、揺るぎない信頼を帯びた気配が広がっていく。
ルーセントも四戒仙も、レインの言葉をまるで疑わない。
この絶対防壁に守られてきた彼女たちは、《鏡界障壁》が過去にどれほどの攻撃を退けてきたのか、誰よりもよく知っていた。
ただ一人。
紫乃だけは、胸の奥で膨れ上がっていく嫌な予感を抑えられずにいた。
(レイン、そこまで豪語するのは、おやめになった方が……)
理由は分からない。
しかし、なぜか今は、レインのその自信に満ちた様子が、間もなく覆される予感がしてならなかった。
そんな紫乃の不安など知る由もなく、レインはなおも加速しながら接近してくる飛翔体を見据え、絶対の確信をもって片腕を広げた。
「あの機体がなんであろうと、《鏡界障壁》は絶対に破れん!」
幾万もの鏡面結界が、空を埋め尽くす。
光が幾重にも反射し、ミラーパレス全域が巨大な鏡の城塞へ変貌していく。
その中心で、鏡宮の頭脳は声高らかに豪語した。
「このまま突っ込んでくるというのなら、好きにさせればいい。結界へ触れた瞬間に構造も術式もすべて暴かれ、その力は奪われる。ぶつかれば、砕け散るのはあの機体だ」
レインは不敵に笑い、迫り来る機影へ最後の言葉を突きつけた。
「解析結果すら残らんぞ!」
鏡宮の頭脳たるレインの豪語が、ミラーパレスの前庭へ高らかに響き渡る。
その言葉を証明するように、上空では《鏡界障壁〈ミラーフォートレス〉》が最大出力へ到達していた。
無数の鏡面結界が空間を埋め尽くし、一枚一枚が異なる角度と周期で回転している。外部からの衝撃を反射し、魔力を屈折させ、受け止めきれないほどのエネルギーさえ吸収する、鏡宮が誇る絶対防壁。
謎の飛翔体は減速しない。
警告にも応じず、回避行動さえ取らないまま、鏡の城塞へ一直線に突き進んでくる。
『対象、《鏡界障壁》との接触まで……三、二、一』
エコーの放送による秒読みが終わる。
飛翔体の先端と、最外層の鏡面が重なった。その瞬間、誰もが凄まじい衝突を予想した。
空を震わせる轟音。
鏡面から放たれる反射光。
防壁へ叩き返され、粉々に砕け散る所属不明機。
あるいは、衝突のエネルギーを受けた結界が激しく明滅し、機体の構造を解析する光景。
鏡宮の兵士たちは衝撃へ備えて重心を落とし、《無冠の灯》やインクラインの面々も、それぞれ武器や術式を構えた。
しかし……何も起きなかった。
「…………?」
謎の飛翔体は、止まらない。
弾かれない。
速度を落とすこともなければ、結界へ衝突したことを感じさせる音さえ発しなかった。
ただ、進んだ。
雲を抜けるのと何ひとつ変わらない滑らかさで、最外層の鏡面を通過する。
続く第二層も。
第三層も。
物理反射層も、魔力屈折層も、高エネルギー吸収層も。
存在情報を解析するための深層鏡界さえ、そこに何もなかったかのように、あっさりと通り抜けていく。
「……は?」
レインの口から、鏡宮の頭脳とは思えない声がこぼれた。
謎の機体が通過した後も、《鏡界障壁》にはひびひとつ入っていない。
突破されたのではない。
破壊されたのでもない。
無効化された様子さえなかった。
結界は正常に稼働し、無数の鏡面は今も空を覆い続けている。
それなのに、謎の飛翔体だけが、最初から結界など存在しなかったかのように内側へ侵入していた。
「待て……まって……待て、な、何が起きた?」
レインの瞳から、先ほどまでの絶対的な自信が消え去っていく。
彼女は空中へ複数の解析画面を展開し、信じられない速度で表示を切り替え始めた。
「最外層は正常稼働している。反射層にも異常はない。屈折、吸収、空間固定、存在解析……すべて正常だ。ならば、なぜあれが内側にいる!?」
『《鏡界障壁》全層、損傷なし。出力低下も確認されません』
エコーの報告が、かえって異常性を際立たせる。
「侵入記録は!」
『存在しません』
「解析情報は!」
『取得できていません。対象が障壁へ接触した痕跡そのものが……ありません』
「そ、そんな馬鹿な!」
レインが初めて、明確に声を荒らげた。
「《鏡界障壁》を通過して、接触記録すら残らないだと!? 空間転移なら座標の歪曲が、認識阻害なら魔力波形の欠落が、物理的な突破なら衝撃値が残る! 何らかの方法で無効化したとしても、無効化されたという事実だけは記録されるはずだ!」
しかし、どれほど解析結果を確認しても、答えは変わらない。
絶対防壁は、破られていない。ただ、その内側へ入られている。
先ほどまでレインの熱弁に絶対の信頼を寄せていた鏡宮の戦士たちも、言葉を失って空を見上げていた。
ルーセントの周囲を走っていた白雷が、困惑するように揺れる。
京華は大きく目を見開き、久遠の影も動きを止めた。義那の狐耳はぴんと立ち、和久はぽかんと口を開けたまま、飛翔体の軌道を目で追っている。
「……今、通ったよな?」
京華が、誰にともなく問いかける。
「通った」
久遠が淡々と答える。
「結界、あったよな?」
「あった」
「じゃあ、なんで通ってんだ?」
「……分からない」
「久遠が分からない言うた……」
和久の呟きに、義那も返す言葉を持たなかった。
《無冠の灯》の男たちも、異世界の技術で構築された鏡界障壁と、さらに理解不能な方法でそれを通過した飛翔体を前に、ただ警戒を強めるしかない。
クラウは剣の柄へ手を掛け、ストレイは空間魔法による突破の可能性を探る。フェルマは結界と機体の魔力反応を見比べ、リュカは聞こえなかったはずの接触音を探して耳を澄ませた。
「音が……何もなかった」
リュカが信じられないように呟く。
「結界に触れた音も、魔力が干渉した音もない。本当に、何もないところを通ったみたいだ」
「無効化したのではありません。あの機体は、結界から侵入者として認識されていない可能性があります」
ストレイの言葉に、レインが勢いよく振り返る。
「あり得ん! 登録されていない存在は、すべて外敵として認識される。鏡宮の認証情報がなければ——」
そこでレインの言葉が止まった。
鏡宮の認証情報。
それを外部の人間が入手し、さらに《鏡界障壁》の判定機構へ侵入者ではないと誤認させた可能性。
理論上、完全に不可能とは言い切れない。
とはいえ、それを実現するには、鏡宮の防衛機構を設計したレイン自身と同等か、それ以上の情報処理能力が必要となる。
「…………誰だ」
レインは、結界の内側へ侵入した機体を睨みつけた。
「いったい誰が、私の《鏡界障壁》を欺いた……?」




