第212話 絶対防壁、その先から愛が来る
クラウとリゼットの間に何があったのか。
紫乃は賢者としての推理を巡らせ、冴月は静かな冷気を漂わせ、斗花と花恋は疑問を飲み込み、レネは相棒へ問いただしたい衝動と必死に戦っている。
ただ一人、萌黄だけが周囲の急激な雰囲気の変化を理解できず、頭の中に疑問符を増やしていた。
しかし、そんな女性たちの戸惑いも、疑念も、焦りも、次の瞬間、北北西の空から響いてきた異様な轟音によって、強制的に中断させられた。
「——来るぞ!」
ルーセントの鋭い声が、ミラーパレスの前庭へ響き渡る。
全員の視線が、一斉に空へ向けられた。
最初に見えたのは、遠くの雲に穿たれた小さな穴だった。
その穴は、瞬く間に大きく広がっていく。
白い雲が中心から渦を巻くように引き裂かれ、その奥から、ひとつの黒い影が姿を現した。
速い。
あまりにも速すぎる。
音を置き去りにするほどの速度で飛翔するそれは、空を進んでいるというより、空間そのものを削りながら突き進んでいるように見えた。
機体の周囲には、空気との摩擦によって生じた淡い光がまとわりついている。後方へ尾を引く魔力の残滓は、翼にも、炎にも、巨大な光輪にも見え、そのたびに観測装置が異なる形状を表示していた。
『対象、目視可能圏内へ侵入。ミラーパレス外周結界との接触まで、推定十七秒』
エコー自らの放送が、そこに集う全戦闘要員に届けられる。
直後、地上に設置された複数の大型観測装置が、接近する飛翔体へ照準を合わせた。
空中へ巨大な映像が投影される。
しかし、そこに映し出された機体は、既存の航空技術では到底説明できないものだった。
回転翼を思わせる構造を持ちながら、通常の飛行機械に必要な推進器が見当たらない。機体の周囲を複数の魔法陣が絶えず回転し、外装を覆う装甲は、魔力の流れに合わせて生き物の鱗のように形を変えている。
左右から伸びた構造体は翼にも武装にも見え、その先端では、何のために存在するのか分からない紫色の光が明滅していた。
紫乃は、その映像を見た瞬間に表情を引きつらせた。
(あれは……まさか、本当に……?)
紫乃の賢者脳にインプットされた機体情報のどのデータベースにも存在しない。
とはいえ、機体の表面に走る魔導回路、必要性を無視してまで過剰に搭載された情報処理装置、性能だけを追求した結果として安全性や一般常識を置き去りにしている設計思想。
それらには、紫乃がよく知る少女の性格が、嫌になるほど明確に表れていた。
(すみれ……あなた、いったい何を造ってきましたの!?)
今すぐ警戒を解くよう叫ぶべきか。とはいえ、断定できるだけの情報はまだ揃っていない。
もし九条とまるで関係のない機体であれば、迎撃態勢を崩すことになる。逆に、本当にすみれだった場合でも、警告信号へ応答せず、所属識別すら送信しないまま直進してくる理由が分からなかった。
「紫乃、あの機体に心当たりがあるのか?」
隣に立つ冴月が、紫乃の動揺を見逃さずに問いかける。
「……まだ、確証はありませんわ」
「ならば、可能性はあるのだな」
「否定は……できません」
紫乃が苦い表情で答えた、その時。
飛翔体が、さらに加速した。
空気が激しく震え、遅れて届いた衝撃波がミラーパレスの周囲に広がる森林を大きく揺らす。
木々の梢が一斉に傾き、前庭に立つ者たちの髪や衣服が激しくはためいた。
リュカたち《無冠の灯》も、飛翔体の異常な速度を目にして表情を引き締める。
「ストレイ、あれを止められるか?」
「無理だな。少なくとも、今の距離と速度では術式を固定できない。対象の周囲に展開されている魔法陣も、こちらの術式体系とはまるで違う」
「敵意は感じないが……あのままでは、この地へ激突するでござる」
カゲトラが、刀の柄へ手を添えたまま低く呟く。
バルドも数珠を握り、正面に立つ者たちを守れる位置へ静かに移動していた。
リュカは周囲の音へ意識を集中させていたが、飛翔体から響く駆動音を聞くうちに、眉をひそめる。
「なんだ、あの音……機械のはずなのに、誰かの声みたいなものが混じってる」
フェルマも目を細め、空へ投影された機体情報へ視線を走らせた。
「空を飛ぶ魔道具……いや、これを道具と呼ぶには精巧すぎるかな。魔力の編み方が美しいほど複雑で……思わず見惚れてしまうね」
飛翔体は減速しない。進路も変えない。
警告信号に応答することもなく、ミラーパレスへ向かって一直線に突き進んでくる。
『対象、第一警告境界を通過。外周防壁への接触まで、十二秒』
エコーの報告に、コード・ミラーとコード・ラインが一斉に武器を構えた。
京華の周囲では雷が荒れ狂い、久遠の影が地面を覆う。義那の狐火が空中へ配置され、和久の霧も防御陣形を隠すように広がり始めた。
「レイン、結界の状態は」
ルーセントの問いに、レインは空を見上げたまま答える。
「全層、正常稼働。出力も安定している」
「迎撃は可能か?」
「必要ない」
その声には、一切の迷いがなかった。
レインは、接近する飛翔体を前にしても特に構えようとはしない。
漆黒の軍装の裾を風に揺らしながら、両手を背後で組み、まるで自らが設計した城塞の力を見届ける王のように堂々と立っていた。
彼女の頭上では、ミラーパレス全域を覆う巨大な結界が、飛翔体の接近に反応して目覚め始めている。
空に、最初の鏡面が現れた。
透明だった空間が淡く輝き、六角形の魔力障壁がひとつ、またひとつと浮かび上がる。それらは瞬く間に数を増し、互いの隙間を埋めるように重なり合いながら、ミラーパレスを包む巨大な半球を形成していった。
しかし、それは結界の最外層にすぎない。
一枚目の内側に二枚目。
二枚目のさらに内側に三枚目。
見る角度によって異なる色彩を放つ無数の鏡面が、空間そのものを折り畳むように幾重にも連なり、地上からでは最深部を見通すことさえできない。
鏡宮全域を守護する多層反射式防御結界。
その名は——《鏡界障壁〈ミラーフォートレス〉》
レインの瞳へ、強い光が宿る。
「《鏡界障壁》は、ただ外からの攻撃を受け止めるだけの壁ではない」
語り始めた彼女の声には、普段の冷静さとは異なる、抑えきれない熱が込められていた。
それは、自らの知略と鏡宮の技術を結集して築き上げた絶対防壁に対する、揺るぎない自負だった。
「最外層から最深層まで、独立した無数の鏡面結界が折り重なっている。一枚を破壊したところで意味はない。砕かれた層は、その衝撃を記録すると同時に再構築を開始し、次の層は得られた情報を基に防御特性を変化させる」
レインが片手を掲げる。
その動きに呼応し、空を覆う鏡面障壁が次々と回転し始めた。
「物理的な衝撃は、鏡面反射によって侵入者へ返す。魔術攻撃は、内部の多層空間で屈折させ、本来の軌道から逸らして拡散する。そして、反射も屈折も困難なほど巨大なエネルギーは、結界そのものが吸収し、地下の魔力炉へ流して無力化する」
物理攻撃には反射、魔術攻撃には屈折、高エネルギー攻撃には吸収。
単一の防御方式へ依存しない、三段構造。
どれかひとつへ対抗する手段を持っていたとしても、その先には異なる性質を持つ防壁が待ち受けている。
しかし、《鏡界障壁》の真価は、それだけではなかった。
「しかも、結界へ接触したものは、すべて鏡写しとなる」
レインの口元へ、不敵な笑みが浮かぶ。
「機体の構造。装甲材質。推進方式。魔力波形。術式の周期。操縦者の反応速度に至るまで、接触した瞬間に解析し、情報として分解する。そして得られた情報を全層で共有し、その侵入者だけに最適化された対処法を、即座に生成する」
初撃を防ぐだけではない。
一度触れれば、侵入者のすべてを暴き出す。
二度目の攻撃が届く頃には、結界そのものが敵の性質を学習し、その力を封じるためだけの防壁へ進化している。
攻撃を重ねるほど、突破へ近づくのではない。
挑めば挑むほど、結界は侵入者を理解し、より強固になっていく。
「かつて、複数の国家級戦略魔法を同時に受けた時でさえ、突破を許さなかった。地中からの侵入も、空間転移による跳躍も、精神干渉も、魔力を持たない純粋な物理兵器も、すべてこの障壁の前で無力化された」
レインの言葉に呼応するように、上空の鏡面が一斉に輝きを増した。




