第210話 赤面する二人と、ひそかに揺れる騎士
外見だけを見れば、説明の余地はいくらでもある。
緊急放送を受けて、慌てて着替えた。
廊下を走る途中で衣服が乱れた。
たまたまクラウと合流し、一緒に正面玄関まで来ただけ。
それだけの話かもしれない。
しかし、二人とも不自然なほど顔が赤い。
クラウは女性の方を見ようとせず、それでいて気にしていないふりもできず、何度も視線を向けかけては慌てて正面へ戻している。
女性の方も、普段なら感情をほとんど表へ出さない人物であるかのような佇まいなのに、今だけは明らかに動揺を隠しきれていなかった。
そして、乱れた衣服。
同じ場所から、ほぼ同時に現れた男女。
賢者として極限まで冴え渡っている紫乃の頭脳が、頼んでもいないのに、複数の可能性を瞬時に組み上げ始める。
(いえ、落ち着きなさい、九条紫乃。警戒放送が鳴ってから、まだ一分も経ってないわ。この短時間に、何かが起きるはずなど……ですが、すでにその前から二人が一緒だったとすれば? あの衣服の乱れは? クラウ様があれほど赤くなっている理由は?)
紫乃は激しく動揺しながらも、見知らぬ女性の正体を分析する。
現在、ミラーパレスに滞在している外部勢力。
世界迷宮庁から派遣された、十理会直属のS級冒険者が二名。
一人は食堂にいた金髪の女性、レネ・ファントム。
もう一人は、表へ姿を見せることが少なく、灰色の長髪を持つ隠密と情報解析の専門家。
リゼット・ヴェイル。
(彼女が、《ファントム・ヴェール》のリゼット……)
外見的特徴、年齢、装備の形式、レネとの位置関係。
限られた情報を照合した紫乃の賢者脳は、数秒とかからず、その女性をS級冒険者リゼットであると特定していた。
世界最高峰の潜入技術を持つとされる人物。
感情を表へ出さず、任務では一切の無駄を見せないとも評されている。
そのリゼットが、衣服を乱し、頬を赤く染め、クラウと一緒に駆けつけてきた。
(何が……いったい何がありましたの!?)
紫乃の頭脳は、普段なら国家間の交渉すら有利へ導くほど優秀である。
しかし、恋愛に関する推理だけは、眠気を消し去る霊薬によってどれほど冴え渡っていても、まるで正しい方向へ導いてくれなかった。
(まさか廊下で偶然ぶつかり、倒れそうになったところをクラウ様が抱き留め、その際に衣服が乱れてしまっただけ……などという、昔の恋愛物語のような出来事ではありませんわよね?)
あまりにも正解に近い推測が一瞬だけ浮かんだものの、紫乃はすぐに否定する。
(そんな都合のよい偶然、現実に起きるはずがありませんわ! そもそもS級冒険者、それも隠密の者が……)
賢者脳は、恋愛に関わった瞬間だけ、正解を自分から投げ捨てていた。
その時、紫乃は横から奇妙な気配が漂っていることに気づいた。
冷たい。
というより、寒い。
しかも単なる冷気ではない。
肌の上を静かな刃で撫でられているような、寒さと怖さの入り混じった圧力だった。
紫乃は、おそるおそる隣へ視線を向ける。
そこには、冴月が立っていた。
彼女もまた、クラウとリゼットを見つめている。
表情そのものは穏やかだった。
口元には、ごく薄い微笑みさえ浮かんでいる。
だが、剣の柄へ添えられた指だけが、ぎり、と音を立てそうなほど強く握り込まれていた。
「……紫乃」
「な、何ですの?」
「あの女性は、誰だ?」
冴月の声は静かだった。
あまりにも静かであるがゆえに、かえって背後に渦巻く感情が際立っている。
「おそらく、世界迷宮庁所属のS級冒険者……リゼット・ヴェイルですわ」
「そうか。あれが、リゼット・ヴェイル」
冴月は、その名前を記憶へ深く刻み込むように繰り返した。
彼女の視線が、リゼットの乱れた襟元へ向かう。
次に、いまだ顔を赤くしたままのクラウへ移り、さらに二人がほとんど同じ場所から現れたことを確かめるように正面扉へ向けられた。
黒の回廊のボス部屋で、何がどうなって、そうなったのか……気がつけばクラウの腕にお姫様抱っこされていた冴月。
その温かさと、近くで聞いた鼓動を、彼女はまだ忘れていない。
だからこそ、別の女性とクラウの間に何があったのか、それを考えずにはいられなかった。
「二人は……どこから来た?」
「同じ正面扉から、ほぼ同時に出てきましたわね」
「その前は」
「……分かりませんわ」
「そうか」
冴月は短く答えた。
それきり口を閉ざしたものの、彼女の周囲に漂う冷たい気配は、むしろ一段と濃くなっていく。
紫乃はその横顔を見つめながら、背中へ新たな冷や汗が伝うのを感じていた。
上空から接近する所属不明の飛翔体。
それが九重すみれである可能性。
衣服を乱し、顔を赤くして現れたリゼット。
そして、その隣にいるクラウ。
さらには、二人を見つめながら何やら危険な思考へ沈み始めている冴月。
(どうして緊急事態が、一度にいくつも重なりますの……!?)
紫乃の賢者脳は、飛翔体の迎撃より先に、目の前で発生しかけている別種の危機へ警報を鳴らしていた。
そんな紫乃の内心など知るはずもなく、冴月はクラウとリゼットを見つめたまま、静かに、そして何とも言えない声音で呟いた。
「……あとで、詳しく聞く必要がありそうだな」
それが誰に向けられた言葉なのか。
紫乃は、あえて尋ねなかった。
クラウとリゼットのただならぬ様子に気づいたのは、紫乃と冴月だけではなかった。
少し離れた場所で迎撃態勢を整えていた、先ほどまでの女子会組……斗花、花恋、萌黄、そしてレネの四人もまた、ほぼ同時に正面扉から飛び出してきた二人へ目を向けていた。
もっとも、今は所属不明の高速飛翔体が、明確な進路をもってミラーパレスへ接近している最中である。
上空では迎撃結界が次々と展開され、コード・ミラーとコード・ラインの部隊が防衛陣形を組み、ルーセントをはじめとする鏡宮の戦士たちは、いつ戦闘が始まっても対応できるよう魔力を高めている。
一流の冒険者である彼女たちも、驚いたからといって声を上げ、持ち場を離れるような真似はしなかった。
誰もが表面上は北北西の空を警戒している。
しかし、その意識の半分近くは、どうしても遅れて現れた男女へ向けられていた。
無冠の灯を率いるクラウ。
そして、世界迷宮庁所属のS級冒険者リゼット・ヴェイル。
リゼットは走りながら、乱れていた上着の襟元を片手で整えている。クラウもまた、その隣で妙に顔を赤く染め、彼女の方を見ないよう意識しすぎているせいか、かえって不自然なほど視線が泳いでいた。
何もなかったと言うには、二人とも動揺しすぎている。
だからといって、何があったのかを推測するには、状況があまりにも不可解だった。
(……なんだ、ありゃ?)
斗花は上空へ拳を構えた姿勢を崩さないまま、視線だけを二人へ向けた。
乱れた衣服。
赤くなった顔。
互いを意識しながらも、まともに目を合わせようとしない距離感。
恋愛方面の機微に特別鋭いわけではない斗花でさえ、そこに何かがあったことくらいは理解できる。
(警報が鳴ってから、まだ一分も経ってねぇぞ? クラウとリゼット、いつの間に知り合ったんだ? いや、それ以前に……なんであいつ、服を直しながら出てきてんだよ!?)
思わず問いただしたくなるが、今は正体不明の飛翔体へ備える方が先だった。
斗花は持ち場を離れず、拳の周囲へ炎を集めながら、奥歯を噛み締めるようにして疑問を飲み込んだ。
とはいえ、彼女の好奇心は完全に戦闘へ切り替わってはいない。
(くそっ、よりにもよってこんな時に……! あとで絶対、何があったか聞いてやるからな)




