第209話 賢者の嫌な予感は、だいたい当たる
ミラーパレス全域へ響き渡った緊急警戒放送は、徹夜明けの紫乃が休んでいた自室にも、容赦なく届いていた。
『……緊急警戒態勢へ移行。所属不明の高速飛翔体が、ミラーパレス管理空域へ接近中。全戦闘員は所定の配置へ移動してください』
ベッドへ腰を下ろしながら、山積みとなった案件資料へ目を通していた紫乃の指が止まる。
本来であれば、午後から翌朝まで続いた激論会議を終えたばかりの身体である。フェルマが特別に調合した霊薬を服用していなければ、部屋へ戻った瞬間に意識を失うように眠り込んでいたはずだった。
しかし、その効能は素晴らしいというべきか、余計なお世話というべきか。
肉体には徹夜相応の重さが残っているにもかかわらず、眠気だけがきれいに消え去り、意識は不自然なほど冴え渡っている。そのため、休息を取ろうと横になっても一向に眠れず、結局は残された二百件以上の案件へ手を伸ばしていたところだった。
警戒放送が繰り返される中、紫乃の賢者としての思考は、即座に状況の分析を始める。
所属不明、そして超高速にて明確にミラーパレスへ向かっている飛翔体。
通常であれば、敵対組織による襲撃、観測装置、あるいは転移技術と航空技術を組み合わせた特殊兵器を最初に疑うべき状況ではある。
しかし、紫乃の胸へ真っ先に浮かんだのは、そのどれでもない。
理由を説明することはできない。ただ、背筋を冷たいものが駆け抜けるような、とんでもなく嫌な予感がした。
「……まさか」
紫乃は、ゆっくりと壁に映るデジタル時計へ視線を向ける。
すみれとの通話を終えてから、どれほど経ったのか。時計の針が示しているのは、あれから間もなく五十分。
紫乃の顔から、さっと血の気が引いた。
『一時間で行きます!!』
通話の最後に響いた、すみれの力強すぎる宣言が脳内で蘇る。
あの時は、さすがのすみれでも一時間以内にミラーパレスへ到着するなど物理的に不可能だと思った。
確かに思ったはずなのだ。
しかし同時に、すみれなら本当に来るかもしれないという予感も、心のどこかにあった。
そして、あの少女は情報処理能力と科学と魔術を融合させたハイブリッド工学において、世界迷宮庁からも絶対的な脅威と認識されるほど優秀である。
紫乃が関わらなければ、という条件はつくが。
紫乃が関わらなければ、彼女は冷静沈着で、合理的で、慎重な判断のできる少女なのだ。
だというのに、今回は自分から直接連絡し、ミラーパレスへ来てほしいと頼んでしまった。
「……ま、まさか、まさか……ね!?」
紫乃は立ち上がった。
勢いが強すぎたために、膝の上へ載せていた資料が床へ散らばる。
普段の彼女ならば、たとえ襲撃を受けても資料を乱雑に扱うことなどない。それを拾うことさえ忘れ、端末を掴んで自室の扉へ駆け寄った。
「いくらすみれでも、まさか所属不明の飛翔体でミラーパレスへ突っ込んでくるなんて……そのような、非常識なことは……」
言葉にすればするほど、否定する根拠が失われていく。
なにしろ、すみれは寝落ちしても紫乃からの連絡だけは絶対に見逃さないよう、腕へ電流を流す魔道具を至って真顔で開発した少女である。
その魔道具へ《お姉様からの連絡を見逃し魔テン》という名称をつけ、商品化まで検討していた少女である。
そのような人物が、紫乃から「ミラーパレスへ来て手助けをして欲しい」と頼まれた時、果たして普通の交通手段を選ぶだろうか。
「……選びませんわね」
自分で出した結論に、紫乃は片手で額を押さえた。
とはいえ、今は頭を抱えている場合ではない。
彼女は部屋を飛び出し、正面玄関へ向かって廊下を駆け出そうとした。
そのタイミングで隣接する客室の扉も開き、同じく眠れずにいたらしい冴月が姿を現す。
冴月も徹夜明けとは思えないほど目だけは冴えていたが、その下には隠しきれない疲労の色が残っていた。すでに腰へ相棒である魔剣を差し、いつでも抜けるよう片手を柄へ添えている。
「紫乃、放送を聴いたか」
「もちろんですわ」
「所属不明の飛翔体が、ここへ向かっているらしい。襲撃だと思うか?」
「その可能性は……極めて低いと思いますわ」
「根拠は?」
冴月の問いに、紫乃の足がほんの少しだけ鈍る。
「……わたくしの、勘ですわ」
「お前が勘で判断するとは珍しいな」
「ええ。自分でも、そう思います」
紫乃が何かを隠していることには、冴月も気づいていた。
しかし、警報が鳴り響いているこの状況で、廊下で詳しく問いただしている余裕はない。二人は並んで走り、地上区画へ通じる昇降機へ乗り込む。
移動中も、紫乃は端末から飛翔体の情報を確認しようとしたが、警戒網へ接続できる権限がまだ一部制限されているため、詳細な映像までは表示されなかった。
分かるのは、対象がなおも高速で接近中であること。そして、警告信号に一切応答していないことだけだった。
「すみれ……何を創ってきましたの……?」
「すみれ?」
隣から聞こえた冴月の声に、紫乃は自分が口に出していたことへ気づく。
「い、いえ。何でもありませんわ」
「今、すみれの名を言わなかったか?」
「聞き間違いです」
「だが……」
「聞き間違いですわ」
紫乃は強引に会話を打ち切った。
もし飛翔体が本当にすみれのものだったとしても、現時点ではまだ推測にすぎない。無関係だった場合、世界最高峰の情報支援組織を率いる少女が、所属不明機でミラーパレスへ突入してくる危険人物だと、自分から紹介したことになってしまう。
もっとも、その推測が外れている自信は、時間が経つほど失われていた。
やがて昇降機が停止し、扉が開く。
紫乃と冴月がミラーパレスの正面扉から外へ出ると、すでに広大な前庭には、ほとんどの戦闘要員が集結していた。
最前列には、ルーセントとレイン。
その左右へ、京華、久遠、義那、和久の四戒仙が展開し、さらにコード・ミラーとコード・ラインの兵士たちが、統制された動きで迎撃陣形を組んでいる。
少し離れた位置には、斗花や花恋、萌黄、レネの姿もあった。朱音たちは、自室に居る雪を護衛するためここには居ない。
先ほどまで食堂で女子会に興じていた者たちの面影はない。誰もが上空へ鋭い視線を向け、未知の飛翔体が姿を現す瞬間に備えていた。
「紫乃!」
斗花がこちらに気づいて声を上げる。
「寝てなくて大丈夫か!?」
「霊薬のおかげで、嫌になるほど目は冴えていますわ。それより、飛翔体は?」
「もう外周警戒区域へ入る。エコーたちが正体を探ってるが、まだ分からねぇらしい」
「……そうですの」
紫乃は北北西の空へ視線を向ける。
今のところ、雲の向こうに機影は見えない。
しかし、遠くから響いてくる低い振動音が、少しずつ大きくなっている。
その音を聞いた瞬間、紫乃の嫌な予感は、ほとんど確信へ変わりかけていた。
(まさか本当に、五十分で……?)
問いただしたい気持ちはあったが、当人はまだ到着していない。
紫乃がどう対処すべきか思考を巡らせていると、背後で正面扉が勢いよく開いた。
遅れて、一組の男女が外へ飛び出してくる。
男の方は、《無冠の灯》のリーダーであるクラウだった。
腰へ剣を帯び、警戒放送を受けて急いで駆けつけたのだろう。しかし、その表情はこれから未知の敵と対峙する者のものとは思えないほど赤く、視線もどこか落ち着かない。
そして、その少し後ろを走っている女性は、紫乃にとって初めて見る顔だった。
細身の身体。
長く伸びた灰色の髪。冷静さを感じさせる整った顔立ち。
その女性もまた、妙に頬を赤く染めている。しかも走りながら、片手で大きくずれていた上着の襟元を直し、もう片方の手で腰の留め具を整えていた。
「えええっ!? ど、どういうことですの!?」
紫乃は危うく声に出しかけた叫びを、寸前で喉の奥へ押し戻した。




