第208話 触れたかった手は、不意に重なる
本来なら、必要最低限の下着だけでも身につけて廊下へ出たとしても、リゼットはさほど気にしなかっただろう。
ミラーパレスの居住者も職員も、そのすべてが女性である。緊急時ならば身なりを整える時間を惜しむ方が問題であり、実戦任務の最中には、衣服どころか装備の大半を失った状態で敵地から撤退した経験さえ何度もある。
しかし、今のミラーパレスには、異界から訪れた男たちがいる。
しかも、一人だけではない。
クラウ、ストレイ、フェルマ、リュカ、カゲトラ、バルド。
彼らが同じ宮殿の中にいるという事実を思い出した瞬間、戦闘へ切り替わっていたはずのリゼットの思考が停止した。
「……下着姿だけでは、駄目、それに白印の方である雪様も居るし……」
当然の結論を口にし、急いで床へ畳んでいた衣服を手に取る。
とはいえ、今の身体はイロハのものだった。
手足の長さも、肩幅も、身体の重心も本来のリゼットとは異なるため、普段なら目を閉じたままでも数秒で終えられる着替えが、妙にうまくいかない。袖へ腕を通そうとして位置を外し、留め具を掛けようとして指先が滑る。
「……落ち着いて。こんなことで時間を使っている場合じゃない」
自分へ言い聞かせながらサイズの合わないブラウスを着た、その時。
モニターの端では、警戒放送によって滞在区画から移動を始めた《無冠の灯》の男たちが映し出されていた。
クラウが仲間たちへ指示を出し、カゲトラとバルドが通路の前後を警戒する。リュカは周囲の音へ意識を澄ませ、ストレイは飛翔体から発せられる魔力波長の解析を始め、フェルマも救護に備えて複数の薬剤を手早く選別していた。
誰一人として騒がず、自分にできることを即座に判断している。
「……やっぱり、動きが速い」
リゼットの手が止まる。
ほんの一秒。
本人には、そのつもりだった。しかし、気づけば数秒もの間、モニターへ見入っていた。
「……違う。今は観察している場合じゃない」
慌てて視線を引き剥がし、残るボタンを掛ける。今度は上下を間違えてしまい、やり直す羽目になった。
世界迷宮庁に所属するS級冒険者であり、敵国の中枢へ潜入しながら一度も歩みを止めなかったリゼットが、ただ服を着るだけのことに手間取っている。
しかも、その原因が異界の男たちへ目を奪われたからだと認めたくないために、かえって動きがぎこちなくなっていた。
「……本当に、どうかしてる」
どうにか最低限の身なりを整えたリゼットは、イロハの姿のまま自室の扉へ駆け寄り、開閉装置へ手を伸ばした。
警戒放送が鳴り始めてから、すでに二十八秒。
平時ならば、装備の確認を含めても十秒とかからず行動を開始できる彼女にとって、明確な失態だった。
『レネよりリゼット。聞こえる? 私は中庭へ向かう。飛翔体の正体を探るから、リゼットも合流して』
「了解。今、部屋を出る」
『遅くない?』
「……装備の確認に手間取った」
『リゼットが? 珍し……』
「通信を切る」
『ちょっと、まだ何も言ってな……』
返事を待たずに通話を遮断し、扉が左右へ開く。
そのまま廊下へ踏み出そうとして……リゼットの足が、敷居の直前でぴたりと止まった。
扉脇の金属板に、イロハの顔が映っている。
「…………」
完全変身能力の検証は、イロハ本人にも、ほかの者たちにも伝えていない。
それどころか、本人へ気づかれないよう能力を借り受け、自室で《虚零絶界》を展開してまで秘密裏に試していたのである。
そんな自分がイロハの姿のまま廊下へ飛び出し、誰かに目撃されれば、変身能力を複製した事実が一瞬で露見する。事情を説明する暇もなければ、この姿で内部警戒へ加わるなど論外だった。
リゼットは扉の前で固まり、鏡面に映るイロハの顔を見つめる。
「……私、どれだけ動揺してるの?」
潜入任務では、複数の偽装身分と能力を同時に使い分けても間違えたことなどない。
それなのに今は、男たちへ目を奪われて着替えに手間取り、挙げ句の果てには他人の姿をしたまま、本人たちのいる廊下へ飛び出そうとしていた。
リゼットは自分自身へ呆れながら、急いで完全変身能力を解除する。
イロハを形作っていた魔力情報が淡い光となって剝がれ落ち、髪の色と長さが戻り、顔立ちと骨格が変わる。腕や脚の長さ、肩幅、身体の重心も本来のリゼット・ヴェイルのものへ再構成されていった。
同時に、イロハの体格へ合わせた状態で身につけた衣服にも、ずれが生じる。
急いで留めた上着は片側へ寄り、襟元も大きく乱れていた。腰の留め具も本来の位置から外れかけ、片方の袖は不自然に捩れている。
普段のリゼットなら、そのような乱れを放置したまま人前へ出ることなどない。
しかし、警報が鳴り始めてから、すでに三十秒以上が経過している。
「……直している時間はない」
リゼットは片手で襟元を押さえようとしたものの、すぐにその手を離した。
正体不明の飛翔体は、今もミラーパレスへ接近している。外見を整えるために、さらに時間を費やすわけにはいかなかった。
彼女は自室を飛び出し、廊下を駆ける。
まずは最寄りの昇降区画へ向かい、そこから外周防衛線へ合流する。飛翔体が陽動である可能性も考慮し、内部に不審な魔力反応がないか、《虚零絶界》の感覚領域も広げていく。
「変身は解除済み。外部接触の可能性を優先して、次に内部の……」
頭の中で行動手順を組み直しながら、廊下の角へ差しかかった。
本来のリゼットならば、その先に誰かがいれば、足音や呼吸、空気のわずかな流れだけで、曲がる前に存在を察知できたはずだった。
しかし今は、警戒放送が響き続ける緊急事態の最中。
正体不明の飛翔体。
秘密にしている能力の検証。
そして、先ほどまで見つめていた異界の男たちの姿が、本人も認めたくないほど意識の片隅へ残っていた。
そのすべてが重なり、ほんの一瞬だけ、S級冒険者であるリゼットの認識に空白を作った。
廊下の角を曲がる。
同時に、反対側から誰かが駆け込んできた。
「——っ!」
二人の肩が、正面からぶつかった。
予期していなかった衝撃に足を取られ、リゼットの身体が後ろへ傾く。
S級冒険者として、あまりにもあり得ない失態。咄嗟に受け身を取ろうとした、その瞬間だった。
力強い手が、倒れかけたリゼットの腕を掴んだ。
そのまま、もう一方の腕が背中へ回り、床へ落ちるはずだった身体を軽々と引き戻す。
予想を遥かに超える力。
それでいて、痛みを与えないよう正確に加減された支え方だった。
「危な——」
頭上から降ってきた低い声が、不自然なところで止まった。
勢いよく引き寄せられたことで、リゼットは相手の胸元へ抱き留められる形になっていた。
背中を支える逞しい腕、すぐ近くから伝わる体温、頭ひとつ分以上もある身長差。
そして、完全変身を慌ただしく解除した影響で、リゼットの上着は大きく乱れたままだった。引き寄せられた拍子にずれていた襟元がさらに開き、無防備になった胸元が、その者の視界へ入ってしまっている。
その者……異界の男は、言葉を失った。
リゼットもまた、相手が何を見て硬直したのか、少し遅れて気づく。
「…………」
「…………」
警戒放送が鳴り響く廊下で、二人の間にだけ、場違いな沈黙が落ちた。
男の顔が、見る間に赤く染まっていく。
同時にリゼットの頬にも、普段の彼女からは考えられないほど鮮やかな熱が広がった。
すぐに身を離し、襟元を直すべきだった。
しかし、背中へ添えられた腕の感触と、あまりにも近い距離にある男性の顔が、リゼットの冷静な判断を奪っていた。
しかも彼の手は、今もリゼットの腕へ直接触れている。
先ほどまで、どのようにすれば接触できるのかと悩み続けていた相手と、想像していたよりも遥かに密接な形で。
異界の男は慌てて視線を逸らそうとしたものの、あまりの出来事に身体まで固まったらしい。
「その……服が……いや、違……お、俺は、見ようとしたわけでは……」
どうにか絞り出された言葉は、最後まで続かなかった。
リゼットも何か答えようとして、唇をわずかに開く。
けれど声は出ない。
世界最高峰の隠密技術を持ち、敵国の中枢でも一度として動揺を表へ出さなかったS級冒険者は、乱れた衣服のまま異界の男に抱き留められ、何を言えばよいのかさえ分からずにいた。




