第207話 紫の閃光、ミラーパレスへ迫る
花恋や萌黄たちが食堂で恋の話に花を咲かせ、リゼットが自室で異界の男たちへ接触する方法に悩み、イロハとヒフミが鬼教官たちによる検証という名の訓練に心を折られかけていた、まさにそのタイミングでミラーパレス全域へ、低く鋭い警報音が鳴り響いた。
『……緊急警戒態勢へ移行。所属不明の高速飛翔体が、ミラーパレス管理空域へ接近中。全戦闘員は所定の配置へ移動してください。繰り返します。所属不明の高速飛翔体が……』
穏やかな女性の合成音声とは裏腹に、断続的な警報が壁や天井を赤く染め、閉ざされた巨大迷宮をようする宮殿の空気を一瞬にして塗り替えていく。
訓練場では、床に座り込んでいたイロハとヒフミが同時に顔を上げる。
つい先ほどまで、京華と和久がバーベキューの肉を巡って言い争い、義那がそれを楽しそうに眺め、久遠が呆れたようにため息をついていた。
しかし、警報が最初の一音を響かせた瞬間、四戒仙の表情から、すべての軽さが消えた。
京華の金色の瞳が鋭く細まり、全身へ白雷が走る。久遠の足元では影が音もなく広がり、和久の周囲には先ほどまでの模擬戦とは比較にならないほど濃密な霧が集まり始めた。義那の狐耳もわずかな空気の変化すら逃さぬよう立ち上がり、その背後では幾重もの狐火が静かに灯る。
そして、訓練用端末を確認していたルーセントもまた、顔を上げる。
そこにいるのは、イロハを追いつめて楽しんでいた鬼教官ではない。鏡宮の領域を侵す者を決して許さない、ミラーパレスの守護神だった。
「エコー、状況を報告しろ」
ルーセントは素早く訓練場の出口へ歩きながら、コード同士を繋ぐ念伝回路を開いていた。
返答は間を置かず、訓練所に居る全員へ放送施設を使って直接届けられる。
「所属、機体形式、魔力波長、いずれも照合不能。対象は北北西より超高速で接近中。通常の航空機が侵入できる高度ではなく、警告信号への応答もない」
「速度は」
「推定速度、時速六百八十キロ。なおも加速中。軌道上の誤差を考慮しても、目的地がミラーパレスである可能性は九十八・七パーセント」
京華が舌打ちをひとつ落とし、拳に雷を集束させる。
「どう考えても、迷子の観光客じゃねぇな」
「迎撃結界との接触まで、どれほどじゃ?」
義那の問いに、エコーは即座に答えた。
「現在速度を維持した場合、二分四十三秒。ただし、対象は今も加速を続けている」
「正面から来るとは、随分と度胸のある侵入者だ」
久遠の影が訓練場の扉へ伸び、物理的な距離を無視した移動経路を形成していく。
和久は先ほどまでの可愛らしい怒り顔を完全に消し、霧の向こうを見通すように目を細めた。
「敵やったら、居住区まで来られる前に止めなあかんな」
「コード・ルーセントより全戦闘部隊へ。ミラーは地上迎撃区画、ラインは地下居住区画の防衛へ移れ。四戒仙は私とともに中央庭園へ向かう。正体が判明するまで、攻撃は私の命令を待て」
命令を下し終えた時には、五人はすでに動き始めていた。
ルーセントと京華が雷をまとって走り出し、久遠は広げた影の中へ身を沈める。和久と義那もそれぞれ霧と狐火を残し、訓練場から姿を消した。
そこに迷いはなく、無駄な確認もない。
先ほどまでの騒がしさが幻であったかのように、鏡宮の戦士たちは一瞬で戦闘態勢へ移行していた。
残されたイロハとヒフミも、限界近くまで蓄積された疲労を理由に床へ座り続けてはいられなかった。
「……行ける?」
イロハが壁へ手をつきながら立ち上がる。
ヒフミも震える膝へ力を入れ、静かに頷いた。
「重力、まだ使える。少しだけ」
「私も変身なら、あと一回は……たぶん」
「誰になる?」
「今度は、もう少し優しい人」
二人は一瞬だけ顔を見合わせると、鬼上官たちを追って訓練場を出るために動きだした。
同じ頃。
遅い朝食を取る者たちで賑わっていた食堂も、警報によって空気を一変させていた。
「それでね、あたしはカゲトラさんの、あの不器用なくらい真っ直ぐなところが……」
『……緊急警戒態勢へ移行』
花恋の言葉が、途中で止まる。
つい先ほどまでテーブルを囲み、異界の男たちの誰が一番素敵かという答えの出ない議論に夢中になっていた花恋、萌黄、斗花、レネ。その四人の顔から、浮ついた熱が一斉に引いていった。
花恋はテーブルの上へ置いていた端末を取り、警戒放送と同時に送信された情報へ目を走らせる。
「所属不明の飛翔体……進路変更なし。真っ直ぐ、ここを目指してるみたいだよ?」
甘く小悪魔めいた声音は残っているものの、その瞳には一流の冒険者としての鋭い光が宿っている。
斗花も椅子を蹴る勢いで立ち上がり、両手へ戦闘用の手甲を装着した。
「うわ、速っ! もう外周警戒区域に入るじゃん! これ、のんびり待ってる場合じゃないよ!」
「敵か味方かは分からねぇ。だが、この速度で突っ込んでくる奴を雪の近くへ行かせるわけにはいかねぇな」
斗花の身体から熱気が立ち上がり、拳の周囲で炎が揺れる。
レネもまた、普段の陽気な笑みを消していた。
軽薄にさえ見える明るさの奥に隠されていた、世界迷宮庁直属S級冒険者の顔が現れる。
「リゼットへは私から連絡する。花恋と萌黄は護衛対象の位置を確認。斗花は前衛部隊へ合流できる?」
「誰に聞いてやがる。正面から殴り止める必要があるなら、あたしの出番だ」
「頼もしいね。それじゃ、行こうか」
レネが指を鳴らすと、その輪郭が空気へ溶け込むように薄れていく。
花恋と萌黄は雪のいる区画へ、斗花は迎撃部隊との合流地点へ、それぞれ迷うことなく駆け出した。
食堂に残された料理からは、まだ温かな湯気が立ち上っている。
しかし、先ほどまで女子会で騒いでいた者たちは、もう誰一人としてそこにはいなかった。
そして、自室にいたリゼットもまた、警報が鳴った瞬間に思考を切り替えていた。
「所属不明の高速飛翔体……このタイミングで?」
姿見の前で男たちへの接触方法を真剣に考えていた数秒前までの自分は、すでに意識の奥へ追いやられている。
リゼットはモニターへ手を伸ばし、警戒放送と同時に送られてきた飛翔体の観測情報を表示させた。
映像に映るのは、雲間を切り裂いて進む小さな影。
あまりにも速度が速く、通常の監視装置では明確な形状を捉えられていない。辛うじて分かるのは、回転翼らしきものを備えた飛行物体であることと、進路上にミラーパレス以外の重要施設が存在しないことだけだった。
「敵対行動の有無は不明。けれど、この速度なら接触まで三分もない」
リゼットは《虚零絶界》を解除し、自室の扉へ向かおうとする。
そこで、最初の一歩が止まった。
姿見の中から、イロハの姿をした自分が、何も身につけていない状態でこちらを見返している。
「…………」
能力の変化を正確に確認するため、衣服は先ほどすべて外していたことを思い出した。




