第205話 霧の中で、重力は目を覚ます
背後から伸びた二本の手が、ヒフミの左右の肩を同時にがっしりと掴んだ。
ヒフミは 息を呑んだまま硬直する。
「どこ行くん?」
「せっかく来たのに、挨拶もなしで帰るつもりかえ?」
右耳には柔らかく弾む西の方の訛り。左耳には甘く艶やかな声音。どちらも、今のヒフミが最も聴きたくない種類のそれは楽しげな気配を漂わせていた。
ヒフミは首だけをゆっくりと動かし、恐るおそる背後を振り返る。
そこには、ふわりとした霧をまとった狸獣人娘の和久と、狐耳を楽しそうに揺らす妖狐の獣娘、義那が獲物を見つけた悪戯者のような笑みを浮かべて並んでいた。
二人とも四戒仙の一角。
しかも、その視線は新しい玩具……いな、新たな能力を得たヒフミへ、まっすぐに注がれている。
「聞いたでぇ、ヒフミちゃん。なんや、めっちゃ素敵なスキルを身につけたんやって?」
和久が肩を掴んだまま、満面の笑みを浮かべる。
義那も反対側から顔を覗き込み、細めた瞳の奥に愉悦の色を宿した。
「重力を操る力なのじゃろう? 霧や幻を相手に、どこまで通じるものか……実に興味深いのう」
「……私は、興味ない」
「まあまあ、そう言わんと」
「検証は必要じゃ。安心せい、妾たちが優しく付き合うてやろう」
「あの二人の上官もイロハに、同じことを言ってた気がする」
三人の視線が、同時に訓練場の中央へ向けられる。
そこではルーセントのままの姿のイロハが床へ大の字に倒れたまま、片手だけを弱々しく持ち上げていた。
「ヒフミ……逃げて……」
「もう捕まってる」
「そう……ごめん……」
か細い声を最後に、イロハの腕が力なく床へ落ちた。
もはや逃走は不可能と判断したヒフミは、小さく息を吐き、和久と義那を交互に見つめる。
「……二人同時?」
「それでは能力を見極める前に終わってしまうやろ。うちらも、そこまで意地悪やないで?」
「どちらが相手をするかは、いつもの方法で決めればよかろう」
義那はそう言うと、どこからともなく一枚の金貨を取り出した。
片面には世界樹を模した紋章。もう片面には、鏡宮の象徴である鏡花の紋章が刻まれている。
四戒仙は、意見が割れた時に話し合いで決着をつけない。
先に攻撃する者、潜入経路を選ぶ者、報酬の分配、限定菓子の最後の一つを誰が食べるかに至るまで、勝負事は賭けによって決める。それが彼女たちの間で長年守られてきた、妙な掟だった。
「ほな、うちは世界樹の表や!」
「ならば妾は鏡花の裏じゃ」
義那の親指が、金貨を高く弾き上げる。
回転する金色の軌跡を、和久と義那が真剣な眼差しで追いかける。やがて落下してきた金貨を義那が片手の甲で受け止め、もう片方の手をゆっくりと退けると、そこには世界樹の紋章が上を向いていた。
「よっしゃあ! うちの勝ちや!」
和久は両腕を突き上げ、狸耳と尻尾を嬉しそうに揺らした。
対照的に、ヒフミの周囲には目に見えそうなほど重苦しい空気が沈み込んでいく。
「……負けた」
「まだ戦ってへんやろ!?」
「勝敗じゃなくて、運命に」
「そんな嫌そうな顔せんでもええやん。うち、傷つくで?」
口ではそう言いながらも、和久の表情は期待に満ちている。すでに霧が足元から流れ出し、訓練場の床を薄く覆い始めていた。
その様子を黙って見ていた京華は、腕を組んだまま口角を吊り上げる。
「頑張れよ、ヒフミ。あたしはお前を応援してるぜ」
「……意外。ありがとう、京華上官」
「はぁ!? なんでやねん!」
声を上げたのは和久だった。
つい先ほどまで喜び勇んでいた狸耳が、抗議するようにぴんと逆立つ。
「こういう時は同じ四戒仙のうちを応援する流れやろ!? なんでそこまで仲良くない子の味方しとんねん!」
京華は和久の抗議を受けても、悪い笑みを崩さない。
「そりゃあ、お前らがバルド殿やカゲトラ殿、リュカ殿たちと楽しいピクニックに行ってきたからだろ」
「ピクニックちゃうわ!」
和久の頬が、ぷくりと膨らむ。
「虫退治や! 森の中、見渡す限り虫、虫、虫! 羽音はうるさいし、糸は飛んでくるし、でっかい顎で噛みついてくるし、ほんま、めっちゃ大変やったんよ!?」
「でも、楽しかったんだろ?」
「そ、それは……」
和久の視線が、不自然なほど勢いよく横へ逸れる。
猫娘たちは、救出した後で彼女たちのことをお姉ちゃんと慕ってくれた。そして、皆で囲んで食べたバーベキュー。
豪快な身体つきに反して、誰へも分け隔てなく料理を取り分けていたバルド。警戒しながらも猫娘たちへ優しく接し、少しずつ囲まれていったカゲトラ。そして、軽やかな演奏で場を盛り上げ、笑顔を生み出していたリュカ。
思い出したのか、和久の頬がほんのりと赤く染まる。
「……猫娘ちゃんらを助けられたんは、良かったし……飯も美味しかったし……リュカはんの演奏も、まあ、楽しかったけど」
「ほら見ろ、とういかリュカ殿の演奏を生で聴けたんやろ、なんて贅沢な」
「うはっ! 京華、めっちゃ根にもっとる!」
「当たり前だ! あたしらが病院で護衛してる間に、バーベキューそして男性からのサービスだぞ! これを根に持たずに何を根に持てってんだ」
「せやから、あれは任務やって……」
「任務の最後で肉を焼く必要がどこにあんだよ!」
「猫娘ちゃんらがお腹空かせてたんやから、しゃあないやろ!」
「なら、バルド殿が焼いたやつ……あたしの分も持って帰ってこいよ」
「結局そこ!?」
京華と和久の言い争いを眺めながら、久遠は静かに目を閉じた。
「京華、見苦しいぞ」
「お前だって、カゲトラ殿が猫娘に囲まれてた映像を何度も見てただろうが!」
「……今は関係ない」
「図星じゃねぇか!」
義那は口元を袖で隠しながら、くすくすと楽しそうに笑っている。
彼女もまた同じピクニック……あくまでも本人たちの主張ではシークレット護衛からの虫退治へ同行していたため、京華の恨みが自分へ向かう前に、さりげなく観覧区域の端まで退避していた。
そんな騒がしい上官たちを前に、ヒフミはひとり、真剣な表情で考えていた。
京華が自分を応援している理由は、純粋な善意ではない。つまりこの模擬戦で、和久に少しでも苦労させれば喜ばれる。
「……勝てなくても、困らせればいい」
「ヒフミちゃん? なんや急に、目つき変わってへん?」
「気のせい」
ヒフミは静かに訓練場の中央へ進み、和久と向かい合った。
双方の距離は、およそ十メートル。
ルーセントとイロハの戦いで荒れ果てた床には、まだあちこちに白雷の焦げ跡が残っている。その凹凸を埋めるように和久の霧が流れ、やがて床全体を白く覆い尽くしていった。
「ほな、無理せん程度に始めよか」
「……無理をさせる側が言う言葉」
「大丈夫やって。うち、こう見えて加減するん上手なんよ?」
「信用度、低い」
「ひどない!?」
和久が声を上げた瞬間、開始の合図を告げる魔力灯が点灯した。
それと同時に、霧が爆発的な勢いで広がる。
ほんの数秒で訓練場全体が乳白色に染まり、和久の姿だけでなく、観覧区域や壁との距離さえ見えなくなった。




