第202話 触れなければ、映せない
姿見の中には、リゼット・ヴェイルではなく、イロハそのものが立っていた。
髪の色も、瞳の形も、肌の質感も、指先に刻まれた細かな紋様さえ違う。単に外見を覆う幻術ではなく、骨格や筋肉のつき方、重心の位置、呼吸に伴う胸郭の動きに至るまで、彼女の身体は細胞単位で別人へと再構築されていた。
「……イロハって華奢に見えるのに……スタイルいいのね」
姿見に映る自分ではない身体を眺めながら、リゼットは小さく呟いた。
試しに腕を上げ、指を曲げ、肩を回してみる。動作に遅延はなく、借り物の身体を動かしているという違和感さえほとんどない。発声を試せば、喉からこぼれた声も昨日、装甲リムジンの中で聞いていたイロハのものと完全に一致していた。
もはや変装という言葉では足りない。
外見だけを似せる擬態でもなければ、光を操って他者の目を欺く幻術でもない。血液も、魔力回路も、声帯も、指紋さえも別人へと置き換える、文字どおりの完全変身。
リゼットは改めて、モニターへ視線を向けた。
そこには、異界から現れた六人の男たちが映っている。
クラウ。ストレイ。フェルマ。そして、リュカ、カゲトラ、バルド。
誰もが、この世界では存在そのものが奇跡と呼ぶべき男性でありながら、守られるだけの白印の方とはまるで違う。鍛え抜かれた身体と、困難へ迷わず踏み込む意志を持ち、時には自らが傷つくことすらためらわず、誰かを守るために戦う異界の英雄たち。
そんな彼らの姿を見つめるうちに、リゼットの中へ、ひとつの可能性が浮かび上がった。
「これ……男性の姿も再現できるってことなの、かな……」
イロハの完全変身能力が、性別という境界まで越えられるのか。それは、既存の記録には存在しない領域であった。
少なくとも、リゼットが世界迷宮庁の情報網で調べた範囲に、これほど高度な身体変化能力は確認されていない。まして、女性から男性への完全変身など、比較検討できる事例さえ皆無に等しい。
情報がないのなら、検証するしかない。
リゼットは姿見へ向き直り、ゆっくりと目を閉じた。
そして、画面に映っていた一人の男の姿を、可能な限り鮮明に思い描く。
髪の色。顔立ち。体格。立ち姿。
戦いの最中にも失われることのなかった、眼差しの奥に宿る光。
誰を選んだのか、その答えを口にする者は、この部屋にはいない。
ただ、普段のリゼットならば決して乱さない呼吸が、ほんの少しだけ浅くなる。
「……完全変身、起動」
意を決して、能力へ魔力を流し込んだ。
けれど……何も起きなかった。
髪の一本も変化せず、骨格にも魔力回路にも、再構築の兆候は現れない。姿見の中では、イロハの姿をしたリゼットが、わずかな期待を宿した目でこちらを見つめているだけだった。
数秒が過ぎる。
さらに魔力を流してみても、結果は変わらない。
「……発動、しない」
口からこぼれた声には、自分でも意外に思うほど、はっきりとした落胆が混じっていた。
リゼットはしばらく無言で姿見を見つめたあと、視線を下げる。胸の奥に生じた小さな沈み込みを認識したところで、ようやく我に返った。
「……何を期待していたの、私は」
自嘲するように呟きながらも、思考はすぐに検証へ切り替わる。
魔力不足ではない。能力の同時使用にも問題はなく、《虚零絶界》は最大領域を維持したまま安定している。イロハへの変身が成功している以上、《幻想写界》による能力の再現にも致命的な欠陥はない。
ならば、対象の問題。
あるいは、発動条件そのものを満たしていない。
そこでリゼットは、ふと装甲リムジンの中での出来事を思い返した。
イロハの指先に触れた瞬間。
ヒフミから端末を受け取る際、自然を装って手を重ねた瞬間。
そして、迷宮庁に所属する冒険者たちから任務用の能力を借り受ける時も、必ず相手の手を握り、《幻想写界》の解析領域へ魔力情報を取り込んでいた。
「……接触」
リゼットは小さく呟き、片手で額を押さえた。
「そうだった。完全変身も、無条件で誰にでもなれるわけじゃない。一度、直接触れた相手だけ……」
あまりにも基本的な条件を忘れていた。
他者の能力を模倣し続けてきた自分なら、真っ先に疑うべき要素である。それすら思い浮かばないまま、画面越しの男へ変身しようとしていたらしい。
リゼットの口元に、ごく薄い苦笑が浮かぶ。
「私……そんなことにも気づかないほど、動転しているの?」
認めたくはないが、否定できる材料もなかった。
念のため、別の対象でも確かめる必要がある。
リゼットはモニターの映像を巻き戻し、聖域広場へ転送されてきた者たちの場面で停止させた。
斗花の腕に抱えられ、普段の冷静さを失ったように頬を染める、五星姫の賢者……九条紫乃。
彼女なら外見も身体的特徴も詳細な映像記録が揃っている。だが、リゼット自身は一度も直接触れたことがない。
その姿を頭の中へ正確に描き、再び能力を起動する。
「完全変身」
やはり、何も起きなかった。
姿見の中にいるのは、変わらずイロハの姿をした自分だけ。
これで条件は、ほぼ確定した。
「直接接触が鍵……それが難しい」
紫乃であれば、近いうちに会議や情報交換を理由として接触する機会は作れるかもしれない。しかし、問題は男たちだった。
世界中の女性から狙われている、極めて貴重な存在。
当然、彼らの周囲には五星姫やインクライン、鏡宮三柱、四戒仙をはじめとした実力者たちが目を光らせている。近づくだけでも警戒される状況で、直接触れるとなれば、その難易度は一気に跳ね上がる。
リゼットは顎へ指を添え、本来ならば国家機密の奪取計画を立案する時と同じ真剣さで考え始めた。
「《虚零絶界》で姿を消して近づく……?」
不可能ではない。
認識そのものから消失した状態なら、護衛網をすり抜け、対象へ接近することはできる。ほんの一瞬、指先へ触れるだけなら、技術的には容易い。
だが、その案を想像した直後、リゼットは静かに首を横へ振った。
「いや……駄目。万が一バレた時のフォローができない」
護衛対象となっている希少な男性へ、世界迷宮庁所属のS級冒険者が隠密能力を使って無断で接近し、身体へ触れた。
どのような言葉を並べても、弁明は困難だった。
下手をすれば外交問題で済まない。京華の雷撃と久遠の影縫いが、今度こそ容赦なく飛んでくる光景まで容易に想像できる。
「なら……廊下で偶然ぶつかる?」
呟いた瞬間、リゼットの脳裏に、角を曲がったところで男と衝突し、転びかけた自分を逞しい腕に支えられる光景が浮かんだ。
沈黙。
イロハの顔をしたリゼットの頬が、じわりと赤く染まっていく。
「いやいや……無理。そんな昔のマンガみたいなこと、私には無理……」
そもそも偶然を装って接触するなど、《ファントム・ヴェール》の潜入工作に比べれば児戯に等しいはずだった。
対象の行動予定を調べ、移動経路を予測し、自然な接触事故を演出する。それだけなら百回行っても百回成功させる自信がある。
なのに、相手が画面に映る男たちのうちの誰かだと考えただけで、その後の言葉が続かない。
ぶつかった後、何と言えばいいのか。
謝るのか。名乗るのか。怪我がないか尋ねるのか。
もしも顔を覗き込まれ、心配そうな声をかけられたら、自分はいつも通り冷静に答えられるのか。
「……難易度が高すぎる」
世界最高峰の諜報員であり、敵国の中枢へさえ単独で潜入できるS級冒険者が、廊下で男性とぶつかる程度の作戦を前に、真剣な表情で頭を抱えていた。
初対面の挨拶をすればいい。
世界迷宮庁から派遣された護衛として正式に名乗り、その流れで握手を求めれば、それだけですべての条件を自然に満たせる。
普段のリゼットなら、考えるまでもなく辿り着く結論だった。
しかし今の彼女は、画面に映る一人の男を意識するあまり、そんな当たり前の方法にさえ、まるで思い至らない。
最大領域まで展開された《虚零絶界》の内側で、誰にも見つからず、誰にも気づかれることなく。
イロハの姿をしたリゼットは、耳までわずかに赤く染めながら、国家級任務を計画する時よりも深刻な顔で、男へ触れる方法を考え続けていた。




