第201話 鏡は、未知なる姿を映し出す
リゼットのもう一つのユニークスキル《幻想写界》
もちろん、何でも再現できる万能なスキルなわけではない。
竜の翼を動かす飛翔能力が借りられたとしても、人族であるリゼットの背中に翼が生えることはないし、特殊な器官を必要とするブレスなども使用できない。
あくまでも借り受けられるのは能力と技術だけであり、それにも制限があって男性の白印保持者しか使えない癒しの回復魔法も再現できなかった。
身体そのものは、リゼット・ヴェイルのままであり、さらに複数の能力を持ち替えるほど、意識の切り替えには負荷が生じる。
八十パーセントという再現率も、相手が規格外であるほど無視できない差となる。だからこそ、何を借り、いつ使うのか……その判断を誤ってはならない。
もっとも、その判断力まで含めてリゼットはS級と呼ばれる存在ではある。
「残存時間……三十七時間、十七分」
指を滑らせると、二つの新たな記録が画面へ浮かび上がる。
《Prototype-123号――重力操作》
《Prototype-168号――完全変身》
ヒフミとイロハ。芽杏の集中治療室で、メアから新たな力を受け継いだ二人。
ヒフミは感情の揺れに反応して周囲の重力を増大させ、イロハは朱音の姿を完全に再現し、その能力まで使用できる可能性を示した。
あの場にいた者たちは二人の覚醒に驚き、注意を奪われていた。
そう、誰も気づいていない。
芽杏の集中治療室を出てから地下駐車場へ到着するまで、雪と護衛たちのすぐそばに、リゼットが存在していたことを。
スキルによって世界の認識から切り離された彼女は、ただ静かに、必要な情報を拾い続けていた。
《虚零絶界》……それは気配を消すだけの技ではない。
存在感、殺気、魔力、体温、足音、視線。さらには「そこに誰かがいる」という認識そのものを、世界から零へ還す。
雪たちと同じ廊下を進み、同じエレベーターへ乗り、時には手を伸ばせば触れられるほど近い距離にいながら、誰一人として振り返る者はいなかった。
気配察知能力が高い者ほど、その不自然な空白を「何も存在しない」と判断してしまう。
京華も、久遠も、そして新たな能力へ目覚めたヒフミとイロハでさえ、あの時点ではリゼットの存在へ辿り着けなかった。
世界の認識から切り離された影は、ただ静かに、必要な情報を拾い続ける。
そして、装甲リムジンへ乗り込んだあとリゼットは二人へ、ごく自然な動作で接触していた。
座席へ腰を下ろす際、身体の向きを変えたヒフミの手首へ、指先がほんのわずかだけ触れた。
時間にして〇・五秒にも満たない一瞬。
ヒフミは何かを感じた気配こそあったが、それを「誰かに触れられた」と認識するには至らなかった。
イロハへは、レネ越しに渡された端末を受け取る際、指先がわずかに重なる。
イロハは一度だけ自分の手を見つめたものの、すぐに車内の会話へ意識を戻してしまった。
二人とも、自分の能力が写し取られたことには気づいていない。
「……解析完了」
静かに告げられた言葉とともに、ヒフミの重力操作、イロハの完全変身能力、どちらも《幻想写界》の中へ正常に記録されていた。
リゼットは、誰にも気づかれぬまま、必要な情報と力を確実に手へ収めていく。
特に興味深いのは、イロハから借り受けた能力だった。
「……検証が必要」
リゼットは椅子から静かに立ち上がり、指を一度鳴らした。
その瞬間、室内を包む《虚零絶界》の領域がさらに深まり、音が消え、魔力の流れが消え、部屋そのものがミラーパレスの認識から切り離されたかのような静寂へ沈んでいく。
この状態なら、仮にレネが扉の前まで来たとしても、室内にリゼットがいるとは認識できない。
リゼットは壁際に置かれた大きな姿見の前へ移動する。
鏡に映るのは、灰色がかった長い髪、冷静な灰色の瞳、無駄な肉を削ぎ落とした細身の身体、それは隠密行動に適した、しなやかすぎる凹凸のない軽い体つき。
「…………」
リゼットは、自分の姿を静かに見つめた。
モニターには、異界の男性たちの姿が映り続けている。
鍛え上げられた身体、力強い腕、そして自分たちの世界には存在しない、精悍で魅力的な男性たち。
「男の人は……」
リゼットはそっと自分の身体へ視線を落とした。
「もっと、こう……肉感的な方が好きなのか、な」
もちろん、答えは返ってこない。
「データがない。分からない」
レネならば、本人へ直接聞きかねないし、花恋なら相手の反応を見ながら、言葉巧みに答えを引き出すだろう。そして、萌黄なら深く考えず、笑顔のまま真正面からぶつかっていく。
しかし、リゼットにはそれができない。なので答えのないものは、データを蓄積するしかなかった。
彼女は身に着けていた装備を外し、衣服を一枚ずつ丁寧に畳んでいく。
変身時に体格が変化した場合、衣服が能力の作用を妨げる可能性がある。純粋な身体変化を観測するためには、外的な要素を排除する必要があった。
最後の一枚まで脱ぎ終えると、姿見の前には、一糸まとわぬリゼットの細身の姿だけが静かに残る。
いつも見慣れた自分の身体が、姿見の中に静かに佇んでいる。
「《幻想写界》――記録展開」
リゼットの灰色の瞳に、鏡面のような光がふっと浮かんだ。
《記録対象――Prototype-168、通称イロハ》
《借用能力――完全変身》
《再現出力――八十パーセント》
「起動」
その一言と同時に、リゼットの全身を淡い光が包み込む。
鏡の表面へ雫が落ちたような波紋が、頭部から足先まで静かに広がり、灰色の髪から色が抜け落ち、別の色彩へと染まっていく。
髪の長さ、瞳の色、顔の輪郭、肩幅、身長、骨格、筋肉のつき方、肌の質感……そして体内を巡る魔力経路までもが、音もなく組み替えられていく。
痛みはない。ただ、自分を構成していた情報が、一つずつ別の設計図へ置き換えられていくような、奇妙で静かな感覚だけがあった。
数秒後、淡い光がゆっくりと収まっていった。
「…………」
姿見の前に立っていたのは、もはやリゼット・ヴェイルではなかった。
そこに映っているのは……イロハ。
髪も、瞳も、顔立ちも、身体の均衡までもが、まるで本人がそのまま鏡の前へ歩いてきたかのように一致している。
リゼットは、自分ではない顔へそっと手を伸ばした。鏡の中のイロハも、同じ動きを返す。
「……これは」
口から漏れた声まで、イロハそのものだった。
リゼットは自分の頬へ触れ、次に首筋、肩、手のひらへと指を滑らせる。指紋の形状まで変化している。
呼吸の深さ、心臓の鼓動、魔力が流れる感覚……どれもイロハのものとして成立していた。
元々、他者の能力を写し取ることに長けているリゼットだからこそ分かる。
これは表面だけを似せた変装ではないし、もちろん幻術でもない。
「細胞単位で……別人になっている」
その事実を前に、リゼットは静かに息を吸った。
《幻想写界》は本来、対象の容姿を写し取ることはできない。
どれほど強力な身体操作スキルを借りても、リゼットの姿はリゼットのまま……それがこれまでの常識だった。
しかし今回借り受けたのは、「他者の姿へ完全に変身する」という能力そのもの。
《幻想写界》が写し取ったのは外見の模倣ではなく、変身という現象であり、その結果、リゼットの肉体は能力の指示に従って構造そのものを組み替えられていた。
再現出力は八十パーセント。
それでも外見と肉体構造の再現精度には、ほとんど誤差が見当たらない。制限されているのは、変身の維持時間や、変身対象が持つ能力の出力部分なのかもしれない。
「……すごい能力」
素直な感想が漏れた。
リゼットは姿見の前で身体の向きを変え、横からも変化を確認する。普段の装備に身を包んでいる時には、ここまで体格差があるようには見えなかった。
「イロハ……意外と着痩せするタイプなの、ね」
イロハ本人が聞けば、無表情のまま数秒ほど処理を停止しそうな感想ではあった。
腕をゆっくりと動かし、腰を落として戦闘姿勢を取る。
重心の位置も、関節の可動域も、普段の自分とはまったく違うはずなのに、動作には一切の違和感がない。
まるでこの身体で生まれ、この身体を長年使い続けてきたかのように自然に動ける。
「外見だけではない。身体操作まで、自動的に補正されている」
《幻想写界》と完全変身。
二つの模倣系能力が重なったことで、単独では想定されていなかった精度へ到達している可能性がある。
リゼットは検証記録を残そうと指を動かしかけ……ふと、正面のモニターへ視線を向けた。
そこには、六人の男性たちが映っていた。
金髪碧眼の剣騎士クラウ。知的な眼鏡の魔術師ストレイ。女性にはめっぽう弱いが、普段は冷静な調薬錬金術師フェルマ。朗らかな吟遊斥候リュカ。寡黙な侍カゲトラ。巨大な身体とメイスを持つ戦闘僧侶バルド。
「…………」
イロハの姿のまま、リゼットはゆっくりと画面へ近づいた。
完全変身に必要な条件は、まだすべて解明できていない。イロハが朱音へ変身した時には、メアから継承した何らかの情報が作用していた可能性がある。
直接接触、魔力情報、詳細な視覚記録、対象の能力構成……どこまで揃えば、変身対象として認識できるのか。
その境界はまだ曖昧で、検証の余地が大きい。
リゼットは映像に映る六人を見つめながら、自分の中で条件を一つずつ並べていった。
リゼットの手元には、六人の配信映像が残されていた。
複数方向から撮影された外見、戦闘時の身体操作、声、魔力波形、スキル発動時の情報……完全ではないものの、通常では得られないほど詳細な記録が揃っている。
リゼットの視線はクラウからストレイへ、ストレイからフェルマへ、そしてリュカ、カゲトラ、バルドへと順に移っていった。
「これって……」
灰色ではなくなった瞳が、わずかに見開かれる。
姿見に映っているのはリゼットではなく、イロハ。先ほどまでとは細胞単位で異なる女性の姿だ。
ならば……この能力へ男性の情報を与えた場合は、どうなるのか。
「まさか……」
リゼットはモニターに映る六人の男性たちと、鏡の中に立つイロハの姿を交互に見つめた。そして、普段の彼女からは想像できないほど好奇心をにじませた声で、そっと呟く。
「これ……男の人たちにも、変身できる?」




