第199話 賢者の背後に、絶対なる脅威
《虚零絶界》にて閉ざされた室内には、リゼット以外の気配はない。
静寂の中で、彼女は何事もなかったように一時停止していた拡大を解除し、ゆっくりと映像から視線を外した。
隣に浮かぶ別の情報画面へ目を向ける。
そこには、十理会直属の冒険者や護衛だけが閲覧を許可される、ミラーパレスに関する暫定報告書が表示されていた。
九条 紫乃がミラーパレスへ到着してから、まだそれほど時間は経っていない。にもかかわらず、彼女が関与し、判断を下し、処理した案件の数は常識を大きく逸脱していた。
変貌した雪への対応、《真なる命泉》完成までの指揮、戦場に残された女性たちの救命、鏡宮美麗との初期交渉。
白印保持者に関する権限整理、十理会への緊急報告、ミラーパレスの中立保護領域化に向けた提案。
世界樹ユグドラシルの資源管理、異世界から来た《無冠の灯》の身分保障、各国、迷宮庁、財閥、白印保護機構の利害調整。
直近の徹夜会議で新たに発生した実務項目だけでも二百を大きく超えており、その多くに紫乃の確認、判断、署名が必要と記されていた。
リゼットは静かに息を吸い、先ほど映像で見た頬を赤らめる紫乃と、この報告書に並ぶ世界を動かす賢者としての紫乃を重ね合わせる。
どちらも同じ九条 紫乃なんだと、理解出来ないまま、納得する。
「…………」
リゼットの瞳が思わず細くなる。
彼女自身、情報処理には絶対の自信がある。潜入先で目にした光景を一瞬で記憶し、複数の警備経路を比較して最も発見されにくい道を算出し、断片的な会話から組織内部の人間関係と指揮系統を読み解く。
それが世界迷宮庁に所属するS級隠密としての能力であり、自分の強みでもある。
しかし、紫乃が行っているのは、その領域とはまったく規模が違うもの。
扱う対象は個人や一組織ではない。
それは、国家であり、世界機関や財閥、迷宮、白印保持者。そして異世界からの来訪者。
それぞれに異なる目的と利害を持つ勢力を同じ盤面へ並べ、衝突を避けながら一つの結論へ導いていく。
一つ判断を誤れば国家間の対立すら起こり得る状況で、紫乃は立ち止まることなく、迷う素振りすら他者へ見せない。
「……恐ろしい」
それは、リゼットが素直に下した評価だった。
直接戦えば、自分が勝つだろう。
紫乃は前線に立つタイプではないし、《虚零絶界》を完全展開すれば、紫乃がリゼットの接近に気づく可能性は低い。
しかし、情報戦と交渉の盤面では話がまったく違う。
戦いが始まったと気づいた時には、紫乃はすでに必要な情報を集め終え、複数の組織へ根回しを済ませ、リゼットの行動を制限する規則まで作り上げている可能性がある。
あの穏やかな笑みの奥で、いくつの可能性を計算しているのか。
どこまで未来を見通しているのか。同じ情報を扱う者だからこそ、その異常さが痛いほど理解できた。
そして、理解できるからこそ戦慄する。
「優秀すぎるのも、考えものね……」
リゼットは報告書に並ぶ膨大な案件へ目を通しながら、静かに呟いた。
「これでは、休む暇もないでしょうに」
紫乃が背負っている案件の多くは、本来なら各組織が分担すべきものだ。
しかし紫乃に任せれば、最も早く、最も正確に、そして最も多くの勢力が納得する形で処理できる。
だから仕事が集まり、処理すればさらに大きな仕事を任される。
優秀であるがゆえに頼られ、頼られるがゆえに休めなくなる……その悪循環が、報告書の行間からにじみ出ていた。
食堂を出ていく際に、入れ替わりで入って来た紫乃は、フェルマの霊薬によって身体こそ動いていたものの、その瞳には明らかな精神疲労が宿っていた。
隣にいた冴月の目は、完全に虚ろで、二人とも限界を越えてなお立っているように見えた。
「……二人とも、よく倒れなかったものね」
リゼットは小さく息を吐き、報告書の文字を静かに追いながら、胸の奥に広がる重たい感情をそっと押し沈めた。
しかし、紫乃の本当の恐ろしさは、彼女一人の頭脳だけでは終わらない。
リゼットは新たな情報画面を開き、そこに表示された名前へ視線を落とす。
九重 すみれ。
群星リンクの中核管理者。
世界最大級の五星姫ファンコミュニティを裏側から支える情報処理能力者であり、選ばれし百人の精鋭集団《百花繚乱》を統括し、世界中から流れ込む膨大な情報を収集し、分類し、検証する少女。
一般には、五星姫を熱烈に応援する引きこもり体質として知られている。しかし、情報を扱う者たちの間では、その評価はまったく異なる。
――未知数。
――接触回避推奨。
――情報網の全容、解析不能。
――敵対時に想定される損害、測定不能。
そして、最も多く使われる表現がひとつ。
絶対なる脅威。
リゼットとレネが現実空間へ潜り込む影だとすれば、すみれは情報世界そのものへ根を張る網そのもの。
群星リンクを介し、世界中の配信、投稿、魔力通信、迷宮記録を同時に監視し、一人では意味を持たない断片的な情報を繋ぎ合わせ、誰よりも早く真実へ到達する。
その気になれば、国家機密の存在そのものを、公開情報だけから推測しかねない。
すみれ本人が持つ情報処理特化型スキルに《百花繚乱》の百人が加わった時、その情報収集能力がどこまで広がるのか……十理会ですら、完全には把握していなかった。
「九重 すみれ……」
リゼットは、画面に表示された少女の画像をじっと見つめた。
小柄で、幼さの残る顔立ち。見た目のとおり身体能力は低く、攻撃魔法も使えず、直接戦闘では、一般の冒険者にも及ばない可能性が高い。
けれど、情報の世界では、リゼットたち《ファントム・ヴェール》と並び称される存在。
いや、純粋な演算速度と広域情報収集能力だけなら、すみれの方が上回っている可能性すらある。
そして何より重要なのは。
「九条 紫乃の、最重要支援者」
すみれは紫乃を、誰よりも強く慕っている。
好意や尊敬という言葉では足りず、ほとんど信仰に近い。
紫乃に危険が迫れば、平常時の何倍もの能力を発揮し、紫乃が助けを求めれば、あらゆる手段を使って応えようとする。
黒の回廊から続く配信を、すみれが見ていないはずがない。
むしろ、誰よりも早く、誰よりも深く、すでに解析し終えている可能性すらある。
紫乃がミラーパレスへ残り、膨大な案件を抱え込んでいることも、遅かれ早かれすみれが知るだろう。
「……必ず来る」
リゼットは静かに結論づけた。
「九条 紫乃がここにいる限り、九重 すみれも、必ずミラーパレスへ駆けつけてくる」
問題は、それまでの時間。
群星リンクがミラーパレスへ本格的に接続されれば、情報戦の様相は一変する。
鏡宮が秘匿している研究記録、ユグドラシルの構造、白蛇紋システム、世界樹由来の未知素材、そして異世界から現れた《無冠の灯》の能力と経歴。
この場所には、今後の世界情勢を左右する情報が集中している。
すみれが到着するまでに、自分たちがどれだけ多くの情報を集められるか。どれだけ正確に分類し、十理会へ報告できるか。先に盤面を把握できるかどうかで、今後の主導権は大きく変わる。
「時間は、あまりない」
リゼットは複数の情報画面を閉じ、改めて任務項目を確認した。
ミラーパレス内部の構造把握。鏡宮側戦力の再評価。ユグドラシル素材に関するフェルマの知識。雪を中心とした白印保持者の保護体制。そして、《無冠の灯》の六人から得られる異世界情報。
どれも重要で、どれも急務。すみれが盤面へ降りてくる前に、少しでも多くの先手を取らなければならない。




