第192話 その想いは、賢者の予想を超えて
すみれの呼吸が落ち着いたことを確認し、紫乃も小さく息を吐いた。
そこで、ふと先ほどの疑問を思い出した。
「ところで、すみれ」
『はい、お姉様!』
「どうして、あれほど早く電話をかけてきたのです?」
『えっ?』
「わたくしがメッセージを送信してから、着信が届くまで一秒もありませんでしたわ」
紫乃は端末に残された記録を確認する。
送信時刻と着信時刻には、ほとんど差がない。
「まさかあなた……眠らずに、ずっとわたくしからの連絡を待っていたのではありませんわよね?」
『ご安心ください、お姉様!』
すみれの声が、急に明るくなる。
『きちんと睡眠は取っていました!』
「それならよいのですけれど……」
『寝落ちしてしまっても、お姉様からの連絡が必ず分かるように、専用の魔導具を製作しましたので!』
「……はい?」
紫乃の動きが止まった。
「専用の、魔導具?」
『はい!』
すみれは得意げに説明を始める。
『群星リンクの個人用通信回線と連動して、お姉様から着信またはメッセージが届いた瞬間、装着者へ電流が流れる仕組みです!』
「電流?」
『はい! どれほど深く眠っていても、確実に目を覚ませます!』
「確実に目を覚ますというより、痛みで跳び起きているだけではありませんの!?」
『一瞬ですから問題ありません!』
「大問題ですわ!」
紫乃は思わず声を上げた。
先ほどまで泣いていた少女と、同一人物とは思えないほどの自信に満ちた切り替わりだった。
『強度も十段階で調整できます! ちなみに、お姉様からの連絡だけは絶対に見逃せませんので、わたくしは最高出力に設定しています!』
「今すぐ最低出力へ変更してくださいませ」
『ですが、最低出力では起きられない可能性が……』
「では、その魔導具を外して普通の着信音で起きなさい!」
『普通の着信音では、お姉様からの連絡と、それ以外の雑多な連絡を区別できません!』
「連絡に雑多も何もありませんわ!」
紫乃は額へ手を添える。
霊薬によって冴え渡っていたはずの賢者の頭脳が、目の前の問題をどう処理すべきか、一瞬だけ分からなくなった。
すみれは紫乃の困惑をよそに、ますます弾んだ声で続ける。
『実は試作品の完成度が高かったので、百花繚乱の皆様にも販売しようと思っているのです!』
「販売?」
『はい!』
声しか聞こえないはずなのに、胸を張ってドヤ顔をしているすみれの姿が、紫乃にははっきりと想像できた。
『商品名は、《お姉様からの連絡を見逃し魔テン》です!』
「…………」
『どうでしょう、お姉様!』
「どうでしょう、と言われましても……」
紫乃は片手で顔を覆った。
「まず、名称の意味が分かりませんわ」
『見逃しませんと魔導天使を組み合わせました!』
「説明されても分かりませんわ」
『可愛らしさと機能性を両立した、素晴らしい名称だと思いませんか?』
「思いません」
『えっ』
「それ以前に、利用者へ電流を流す魔導具を販売しようとしないでくださいませ」
『安全試験は、わたくし自身で何度も行いました!』
「あなた一人で試しただけでは、安全試験とは呼びませんわ」
『では、百花繚乱の有志を募って……』
「人体実験の規模を拡大しようとしない!」
『お、お姉様……?』
「試作品を含め、いったんすべて回収です。設計資料も封印。販売計画は白紙へ戻してくださいませ」
『そ、そんな……』
通信の向こうで、すみれが絶望した顔をしていることが、声だけでも容易に想像できた。
紫乃は深く息を吐く。
先ほどまで、自分は何に悩んでいたのだろう。
男性たちから恋愛対象として見られていないかもしれない。
計算高い自分は、誰からも恐れられているのではないか。
同年代の女性たちは恋の話で盛り上がっているのに、自分だけが仕事を押しつけられている。
確かに、どれも紫乃にとっては深刻な問題だった。
けれど、電流で自分を強制的に目覚めさせる魔導具を発明し、それをファン集団へ販売しようとしている少女を前にすると、先ほどまでの悩みが一気にどうでもよくなってくる。
少なくとも、自分が誰からも女性として見られていないという懸念だけは、間違いだった。
方向性と愛情の重さに、かなり大きな問題はあるものの……この少女だけは、間違いなく自分を特別な存在として見ている。
「……すみれ」
『……は、はい、お姉様』
「あなたに、少しお願いがありますの」
『わたくしにですか!?』
落ち込んでいた声が、一瞬で劇的に明るくなった。
「ええ。忙しいところ悪いのですけれど……」
『全然忙しくありません!』
「群星リンクの管理もあるでしょう?」
『お姉様からのお願いより大切な仕事など、この世に存在しません!』
「それは管理者として問題がありますわよ」
紫乃は呆れながらも、口元へ小さな笑みを浮かべた。
「実は、わたくし一人では処理しきれない案件が、二百件以上残っておりますの」
『二百件……』
「十理会、各国政府、迷宮庁、白印保護機構、鏡宮財閥。関係各所から集まる情報を整理できる人材が必要です」
『なるほど……』
「ですから、すみれ。可能であれば、わたくしと一緒にミラーパレス……」
『はいはいはいはいはい!』
「まだ最後まで言っておりませんわ」
『行きます! 絶対に行きます! 今すぐ準備します!』
「ですから、まず話を……」
『一時間で行きます!』
「一時間?」
紫乃は目を瞬かせた。
群星リンクの拠点からミラーパレスまで、通常の移動手段で一時間以内に到着するのは物理的に不可能である。
そもそもミラーパレスの正確な転移座標は、現在も最高機密。
外部から利用できる転移門も、まだ正式には開通していない。
「すみれ、さすがに一時間は……」
『それではお姉様! 到着したら、すぐにご連絡します!』
「ちょっとお待ちなさい!」
『お姉様の窮地へ、必ず駆けつけますから!』
「わたくしは窮地とまでは……」
『愛しています、お姉様!』
一方的な宣言を最後に、通話が切れた。
「…………」
静寂が、部屋へ戻る。
紫乃は端末を持ったまま、しばらく動けなかった。
「一時間で行く、とは……」
どう考えても無理だ。
いかに群星リンクの中核を担う情報処理能力者とはいえ、距離そのものを消すことはできない。
紫乃の賢者としての判断は、迷うことなくそう結論づけている。
しかし。
紫乃のために筋力訓練を始め。
紫乃からの連絡を逃さないため、電流が流れる魔導具を自作し。
世界最高峰の情報支援組織を、ほとんど紫乃一人を支えるために動かそうとする少女である。
「……すみれなら、本当に一時間以内に来そうな気もしますわね」
紫乃は呆れと不安、それだけでは語りきれない感情を胸の奥で静かに抱きしめながら、端末を見つめた。
無茶で、強引で、突っ走ってばかりの少女。
だけど……その想いは、決して軽いものではない。紫乃がどれほど冷静で、どれほど賢者としての自負を持っていても、すみれの真っ直ぐな愛情だけは、いつも予想を超えて胸へ届く。
「……わたくしも、誰かに……必要とされているのですわね」
呟いた声は、ほんのわずか震えていた。
呆れと不安の奥に、すみれの存在が確かに自分を支えてくれているという、静かな安堵がにじんでいた。
紫乃は端末をそっと胸元へ寄せる。
すみれの無茶な宣言は、賢者としての判断では到底肯定できないもの。
けれど……少女の一途な想いが、自分の心を温めてくれることだけは否定できなかった。




