第191話 あなたが泣いてくれるから
紫乃は身体を起こし、改めて机へ目を向けた。
二百を超える案件が、手つかずのまま待っている。
恋愛について悩んでいる暇などない。早急に優先順位を決め、担当者を割り振り、各組織へ連絡を入れなければならない。
分かっている。
すべて、分かっている……それでも眠くないとはいえ、今すぐ机へ向かう気には、どうしてもなれなかった。
「はぁぁ……」
紫乃の口から、長く、重い溜息がこぼれる。普段の彼女を知る者が聞けば、耳を疑うほど深い溜息だった。
紫乃は寝台の縁へ腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。
やがて、ふと思い出す。
どれほど忙しくても、紫乃からの連絡ならば必ず応えてくれる人物。
賢者でも、十理会の監査官でも、五星姫の頭脳でもない。ただの九条 紫乃として、誰よりも強く、誰よりも真っ直ぐに慕ってくれる少女。
「……すみれ」
九重 すみれ。
九条家の遠縁にして、群星リンクの中核を担う情報処理能力者。
選ばれし百人の五星姫ガチ勢集団《百花繚乱》を統括し、紫乃を「お姉様」と呼んで、ほとんど信仰に近いほどの愛情を向けてくる少女。
少々……いや、かなり思い込みが激しい。
紫乃の言葉を深読みしすぎて、時折まったく違う結論へ辿り着く。
紫乃の配信を見ている最中は、優秀な情報処理能力がどこかへ消え、急激に判断力が低下することもある。
けれど、その想いだけは本物だった。
紫乃が傷つけば、誰よりも心を痛める。紫乃が無事なら、誰よりも安堵し、心から喜ぶ。
そして紫乃が助けを求めるなら……たとえ世界中を敵に回すことになろうとも、すみれは迷わずその前へ立つだろう。
その万が一の事態を想定して、彼女は日頃から入念に状況分析を行い、どんな危機にも即応できるよう、自分の力と判断を磨き続けている。
それは義務ではなく、使命でもなく、ただひとりの大切な人を守りたいという、純粋で揺るぎない想いから生まれた行動だった。
そして……いつか紫乃お姉様をその腕に抱えて、お姫様抱っこして恥ずかしそうに見上げられるその日を夢見て、すみれは自室で筋力訓練を始めていた。
腕立て伏せ五回で力尽きても、息が上がっても、腕が震えても、それでも彼女は続ける。
紫乃お姉様を守れる自分になりたい。
その一心で、何度でも床に手をつき、何度でも立ち上がる。
九重すみれとは、お姉様のためなら、どこまでも強くなろうとする、紫乃最固定推しな一途な少女である。
(わたくしにも、癒やしが必要ですわ)
紫乃は枕元へ置いていた端末を手に取る。
(それに、すみれならきっと、このわたくしの窮地を助けてくれますわ)
仕事の相談ができる。
群星リンクへ、いくつかの情報整理を任せることもできる。
何より……すみれなら、自分がどのような女性に見えるのか、忖度なく教えてくれるはずだ。
紫乃が自分をどう評価しているのか尋ねれば、多少大げさではあっても、絶対に否定的な答えは返ってこないだろう。
「それを忖度がないと言ってよいのかは、少々疑問ですけれど……」
それでも、今は少しだけ甘やかされたかった。
賢者としてではなく。監査官としてでもなく、ただの一人の女性として、誰かから必要とされていることを確かめたかった。
紫乃は群星リンクの個人用連絡画面を開く。
表示された《九重すみれ》の名前を見て、一瞬だけ指を止めた。
忙しかったらどうしよう。
百花繚乱の管理や、群星リンクの情報整理を行っている時間かもしれない。
自分の都合だけで呼び出すのは、迷惑ではないだろうか。
恋愛相談などと口にしたら、すみれはどのような反応をするのか。
そこまで考えたところで、紫乃は小さく首を振った。
「これでは、連絡一つにも最善手を探してしまいますわね」
今だけは、考えすぎるのをやめる。
紫乃は短い文章を入力した。
『いま話せますか? 忙しかったら後でいいです』
何度か読み返しかけ……それをやめ、そのまま、送信。
文章の横へ、小さな送信済みの印が表示された。
直後。
端末が激しく震え、着信音が室内へ響き渡った。
「えっ?」
紫乃が目を見開く。メッセージを送ってから、まだ一秒も経過していない。
既読の表示を確認する暇すらなかった。画面いっぱいに表示されているのは。
《九重すみれ 着信》
「…………」
紫乃は着信画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
(相変わらず……あの娘は……)
呆れと安堵の入り混じった吐息が、紫乃の唇からこぼれる。
(まさか、わたくしからの連絡を、ずっと待っていたのではありませんわよね……?)
けれど、画面の向こうにいる少女なら。その可能性を、冗談として切り捨てられない紫乃だった。
着信音は、なおも途切れることなく鳴り続けている。
紫乃は一度だけ小さく息を整えると、画面に表示された通話開始の印へ指を触れた。
「もしもし、すみ……」
『お姉様ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
通信が繋がった瞬間、少女の悲鳴にも似た声が室内へ響き渡った。
あまりの音量に、紫乃は思わず端末を耳元から離す。
「す、すみれ?」
『ご、ご無事で……本当に……本当に、よかったです……』
九重すみれの声は、すでに涙でぐしゃぐしゃになっていた。
『お姉様が……倒れて……動かなくなって……中継まで途切れて……わたくし……わたくしは……』
「すみれ、落ち着いてくださいませ」
『信じていました……! お姉様は絶対に帰ってきてくださるって……信じていたのに……でも、もしもって考えたら……うぅっ……』
「ええ。心配をかけてしまいましたわね」
『お姉様ぁ……』
再び大きな嗚咽が聞こえてくる。
紫乃は困ったように眉尻を下げた。いつもならば、すみれの過剰な反応を少々たしなめるところだった。
けれど今は、その涙が不思議と心へ染み渡っていく。
自分が無事であることを、これほどまでに喜んでくれる者がいる。
賢者だからでもない。理会の監査官だからでもない。自分に仕事をしてほしいからでもない。
ただ、紫乃が生きて帰ってきたことに安堵し、泣いてくれている。
その事実だけで、先ほどまで胸を覆っていた寂しさが、ほんの少しずつ薄れていった。
「すみれ」
紫乃は、普段よりも柔らかな声で呼びかける。
「わたくしは、ここにいますわ」
『……はい……』
「大きな怪我も残っておりません。フェルマ様の霊薬のおかげで、身体も元気です」
『……本当に……?』
「ええ。本当ですわ」
『もう、いなくなったり……しませんか……?』
「少なくとも、当分その予定はありませんわね」
『うぅぅ……お姉様ぁ……!』
「ですから、泣かないでくださいませ」
紫乃は辛抱強く、すみれをなだめ続けた。
大丈夫。
無事である。
今はミラーパレスの安全な部屋にいる。
食事も済ませた。
大きな戦闘へ出る予定もない。
一つずつ説明するたび、すみれの嗚咽は少しずつ小さくなっていった。
やがて通信の向こうから、何度か鼻をすする音が聞こえたあと、ようやく普通に近い声が返ってくる。
『……申し訳ありません、お姉様。取り乱しました』
「構いませんわ」
『お姉様のお声を聞いたら……安心してしまって……』
「そのようですわね」
すみれの呼吸が落ち着いたことを確認した紫乃は、強張っていた表情をふっと緩め、心の底から安堵の息を吐いた。




