第190話 賢者にも、恋は解けない
食堂で遅めの朝食を終えた紫乃は、自分へ割り当てられた居住区の一室へ戻っていた。
部屋そのものは、来賓用として十分すぎるほど整えられている。
柔らかな寝台。
人工の朝日が差し込む大きな窓。香り高い茶葉と、いつでも湯を沸かせる魔導器具。
身体を沈めれば、そのまま眠りへ誘われそうな長椅子。
本来ならば、徹夜明けの身体を休めるには申し分のない部屋だった。
けれど……。
「……眠くありませんわね」
紫乃は寝台へ腰を下ろしたまま、力なく呟いた。
欠伸一つ出ないし、まぶたも重くない。頭痛もなければ、身体の怠さもない。
フェルマ謹製の特別な霊薬は、さすがの一言につきた。午後から翌朝まで続いた会議を終えた直後だというのに、肉体も魔力も驚くほど良好な状態を保っている。
むしろ、普段より思考が速いほどだった。
頭の中では、会議で交わされた発言、十理会から提示された条件、美麗の要求、エコーの報告が、一字一句違わず整理されている。
新たに発生した実務項目は、合計二百八十四件。
うち、紫乃が直接統括しなければならない最重要案件が三十七件。
各組織との折衝が必要な案件が六十二件。
十理会への追加提出書類が四十一件。
ミラーパレスの暫定運用規約に関する修正箇所は、現時点で百を超えている。
それらが優先順位、必要人員、危険度、予想所要時間まで含め、紫乃の頭の中で瞬時に分類されていく。
「…………」
紫乃は無言で寝台から立ち上がり、机へ視線を向けた。そこには、会議室から持ち帰った資料端末と、紙の書類が山のように積み上がっていた。
紫乃が一人で処理しなければ、動かない案件。
紫乃が判断しなければ、各国の利害が衝突する案件。
紫乃が責任を引き受けなければ、誰も署名しようとしない案件。
世界最高位の機関である十理会と、世界有数の財閥を支配する美麗。その両者の間で合意を成立させた結果、なぜか実務の大部分が紫乃の元へ集まっていた。
「わたくしが有能であることは、否定いたしませんけれど……」
紫乃は額へ手を添える。
「だからといって、何もかも任せればよいという話ではありませんわよね?」
当然、答える者はいない。
静まり返った室内に、紫乃の声だけが虚しく響いた。
ほんの少し前まで、食堂ではレネ、花恋、萌黄、斗花の四人が楽しそうに笑っていた。
全員、紫乃とそう年齢の変わらない女性たち。
彼女たちが温かい朝食を囲みながら、リュカ、カゲトラ、バルド、そして《無冠の灯》の男性たちの誰が一番格好いいのかと盛り上がっていた、その同じ時間。
紫乃は世界秩序の維持と、ミラーパレスの未来について話し合っていた。
彼女たちが恋のライバルについて笑っていた、その同じ時間。
紫乃は白印保護規約の追加条項を確認し、各国政府と迷宮庁と財閥連合の権限を、一つずつ調整していた。
「不公平ですわ……」
思わず漏れた言葉に、紫乃自身が目を瞬かせる。感情的な不満を口にするなど、自分らしくない。
仕事の重要性は理解している。自分にしかできないことがあるのも分かっている。
それでも、あまりに対照的な光景を見せられたのだ。少しくらい不満を抱いたところで、罰は当たらないだろう。
紫乃は寝台へ戻り、そのままゆっくりと仰向けになり、柔らかな枕へ頭を沈め、天井を見つめる。
「誰が一番、素敵……ですか」
食堂で交わされていた会話が、嫌になるほど鮮明に思い出される。
フェルマの霊薬によって冴え渡った賢者の頭脳は、忘れたいことまで正確に再現していた。
『紫乃さんは誰が好みなのかなぁ?』
花恋の小悪魔めいた声。
『賢者の分析、すっごく気になる!』
期待に満ちたレネの瞳。
あの場では怒りが先に立ち、まともに考えることなどしなかった。けれど、もし本当に聞かれたら……自分は、誰の名を挙げるのだろう。
「…………」
紫乃は片腕を額へ添え、静かに息を吐いた。
クラウは、彼女の判断力を迷いなく信じられるものとして高く評価している。
フェルマは、異世界の知識を対等に交換できる稀有な相手として、紫乃を深く信頼していた。
ストレイもまた、紫乃の思考と魔術理論を「興味深い」と認め、その洞察を尊重している。
リュカも、カゲトラも、バルドも、彼女へ向ける礼節は常に揺るぎなく、その態度には敬意と感謝が自然ににじんでいた。
彼らが紫乃へ寄せる尊敬も、信頼も、感謝も、どれひとつとして飾りではない。
紫乃自身が積み重ねてきた実績と、揺るがぬ品格が生み出した、確かな評価だった。
だからこそ、余計に気づいてしまう。
「……皆様、わたくしを賢者としては尊敬してくださっていますけれど」
紫乃は小さく息を吐いた。
「一人の女性として見てくださっている気配は、まるでありませんわね」
むしろ、恐れられているのではないか。
紫乃が扇子を開けば、男性陣の背筋が伸びる。
紫乃が微笑めば、リュカは何か失言をしたのかと慌て始める。
紫乃が質問すれば、カゲトラは取り調べでも受けているかのように、一言一言を慎重に選ぶ。
バルドに至っては、紫乃と目が合っただけで数珠を握り、「南無」と唱えていた。
尊き女性を前に緊張する、彼らの世界特有の反応。
頭では理解している。
けれど、食堂で無邪気に男性たちを語っていた四人と自分を比べると、別の可能性も否定できなかった。
怖がられているのではないか。
腹の内をすべて見透かされそうだと、警戒されているのではないか。
「好かれるには、やはり……何も考えず、真っ直ぐ相手へぶつかっていける方がよいのでしょうか」
冴月のように、正面から剣と想いを交わせる女性。
斗花のように、裏表なく豪快に笑える女性。
萌黄のように、相手の長所を見つければ全力で褒められる女性。
花恋やレネのように、臆することなく距離を縮められる女性。
うたたや夜々のように、自分が大切だと決めた相手の傍を、何の迷いもなく確保できる女性。
彼女たちの言動に、複雑な計算はない。
少なくとも、そう見える。
欲しいと思えば手を伸ばし、傍にいたいと思えば隣へ行く。
それに対して、自分はどうか。
相手へ一言声をかけるだけでも、その後に生じる関係性、周囲への影響、誤解される可能性、将来的な利害まで考えてしまう。
好意を示すより先に、最適解を探そうとする。
相手の気持ちを知りたいと思いながら、自分の感情だけは決して悟られないよう、完璧に隠そうとする。
「わたくしのような計算高い女など……」
紫乃の声が、少しだけ弱くなる。
「やはり、恋愛対象には見えないのでしょうね」
九条紫乃は、賢者と呼ばれている。
盤面全体を俯瞰し、何十、何百という可能性の中から、最善の一手を導き出す。
国家の思惑を読み、世界規模の危機を予測し、女王の妄執すら、現実的な条件へ置き換える。
けれど、恋愛に関してだけは、その優秀すぎる頭脳がまるで役に立たない。
そもそも恋愛に最善手など存在するのか。
何を言えば好かれるのか。どの程度まで近づけば、相手を怖がらせずに済むのか。
尊敬ではなく、異性として見てもらうにはどうすればいいのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
「……分かりませんわ」
賢者の口から、会議終了時に続いて、今日二度目となる敗北の言葉がこぼれた。
霊薬によって冴え渡った頭脳は、答えを導くどころか、自分の不安だけを次々と拾い上げていく。
いっそ眠ることができれば、少しは気持ちを切り替えられただろう。
しかし、眠気はまったく訪れない。
頭はどこまでも明瞭で、先ほどの女子会の空気、男性陣の反応、そして自分の欠点らしきものを、延々と、容赦なく分析し続けていた。
紫乃は片腕を額へ乗せ、静かに息を吐く。
「フェルマ様……次からは、適度に眠くなるよう調整していただきたいですわ」
もし本人が聞けば、紫乃を賢者として尊敬し、そして少しどころかかなり恐れているだろうフェルマは、「は、はひっ!? 仰せのままにっ……!」と、慌てて姿勢を正し、即座に従うだろう。
目の前で起きるであろう、その予想される光景を想像してしまい、紫乃はさらに深くため息をついた。




