第108話 ただいまと、消えない約束
朱音が《真なる命泉》を雪だった者の唇へ流し込んだ瞬間……白金の光が、異形の身体を内側から満たしていった。
その光は、まるで雪の心そのものへと届くように、深い深い闇の底へと沈んでいく。
雪だった者の内側、精神世界。その闇の中で雪とメアは、お互いを離すまいときつく抱き合っていた。メアは雪の胸元に顔を埋めたまま、震える声でひっしに言葉を紡いでいた。
「……お兄ちゃん……約束して……あたし……誰かの役に立ちたい……もう……誰かを傷つけるのは……嫌なの……」
その声は、闇の中で震える小さな灯火のようだった。
雪はそっとメアの頬に触れ、優しく微笑んだ。
「……わかってるよ。メアちゃんは……優しい子だよ」
メアの瞳が揺れる。
「……お兄ちゃん……お願い……手を……ぎゅっと……握ってて……離さないで……」
雪は迷わずその手を握り返した。
「ああ。絶対に離さないよ。何があっても……」
その時……ズゥゥゥン……と、闇が激しく震える。
周囲の黒い濁流が、恐怖に怯えるようにざわめき、波紋を立てて後退していく。
そこに頭上から、先ほどの神聖な光を何十倍にも荘厳にしたような、とてつもない光が降り注いできた。
白金の光の渦が、闇を焼き払うように広がっていく。
メアが雪の腕にしがみつく。
「……なに……この光……こわい……でも……あったかい……」
雪も思わず顔を上げた。
光は、闇を押し返し、触れるたびに闇は唸る音を残して溶け、それに反して、雪の白印の紋章が力強く明るさを取り戻していく。
尽きかけていた魔力が、泉のように満ちていく。
「……あ……この感じ……」
雪は胸の奥が熱くなるのを感じた。
この温度、この優しさ、この呼ばれている感覚。
(……この光……まさか……)
雪の瞳が大きく揺れた。
「……朱音……お姉ちゃんの……」
その名を呟いた瞬間、光がさらに強く輝き、雪の意識がそちらへ引き寄せられていく。
メアが不安そうに雪の服を掴む。
「お兄ちゃん……?」
雪はメアの手を握り返しながら、光の方へ顔を向けた。
「……大丈夫。あの光は……怖くない。あれは……」
雪の胸が震えた。
「……あの人が……呼んでる……」
朱音の声が、光の中から確かに届いていた。
頭上から降り注ぐ白金の光は、闇を押し返しながら、ゆっくりと雪とメアの周囲を満たしていった。
光が強くなるほどに、メアの身体がふるりと震えた。
「……あったかい……」
その声は、闇に怯えていた子どもの声ではなく、救いに触れた者の安堵に満ちていた。
雪はメアの背をそっと撫でる。
「大丈夫だよ。この光は……怖くない。君を傷つけるものじゃない」
メアは雪の胸元に顔を埋めたまま、小さく息を吸った。
「……あたし……元に……戻れる……?」
雪は優しく頷く。
「うん。君の願いが……ちゃんと届いたんだよ」
光がさらに強くなり、闇が溶けていくように消えていく。
メアは雪の服をぎゅっと掴んだ。
「……お兄ちゃん……ありがとう……あたし……こわかった……でも……あたし……」
震える声で、メアは雪を見上げた。
「……できたら……あたしのこと……忘れないで……」
雪は迷わず、強く首を振った。
「忘れるものか。君は……僕の心の中にずっといるよ」
その言葉に、メアの瞳がふるふると揺れた。
そして……雪が握っていたメアの手が、ゆっくりと、小さくなっていく。
「……メアちゃん……?」
雪の声が震える。
メアの指先は、まるで光に溶けるように細く、透明になっていく。
涙を浮かべながら、それでも幸せそうに微笑んだ。
「……お兄ちゃんに……会えて……よかった……」
「メアちゃん……!」
雪が手を伸ばす。しかし、白金の光が一気に広がり、メアの小さな身体を包み込んだ。
光は優しく、けれど抗えないほど強く。
最後にメアは雪の手をぎゅっと握り返し……そのまま、真っ白な輝きの中へと溶けていった。
雪の叫びも、闇も、すべてを飲み込むほどの光。
その中心で、雪の意識は……朱音の呼ぶ声へと引き寄せられていった。
朱音が《真なる命泉》を飲ませた直後……ユグドラシルの聖域広場には、まるで天が開いたかのような神々しい白金の光に包まれた。
光は渦を巻き、聖域の大樹の葉を揺らし、空気そのものを浄化するように広がっていく。
誰もが目を細め、ただその奇跡を見守るしかなかった。
やがて……光がゆっくりと引いていく。
残されたのは、静謐な空気と、広場の中心にひとり立つ影。
それは……変貌する前の、華奢で可憐な少年の姿。
白銀の髪は柔らかく揺れ、肌は透き通るように白く、ダンジョン攻略前と同じ、あの優しい雰囲気をまとっていた。
彼は、目を閉じたまま静かに立っていた。
風がそっと彼の髪を揺らす。
広場にいる全員が、息を呑んでその瞬間を待っていた。
紫乃は扇子を口元に当て、萌黄は両手を口に当てて震え、斗花は拳を握りしめたまま微動だにしない。
そして……雪のまつげが、かすかに震えた。
ゆっくりと、ゆっくりと目蓋が開かれる。
そこに、現れたのは……あの、優しくて明るい、世界中が愛した雪の瞳。
朱音の胸が一気に熱くなった。
「……ゆ……雪くん……?」
次の瞬間、朱音はもう走り出していた。
涙が頬を伝い、震える腕で、雪の華奢な身体をぎゅっと抱きしめる。
「雪くん……! 雪くん……!!」
雪は驚いたように瞬きをし、それから……ふわりと微笑んだ。
「……ただいま」
その声は、闇を抜けたばかりとは思えないほど優しくて、朱音の心を一瞬で溶かすほど温かかった。
ただいま、雪がそう言いながら微笑んだ瞬間、朱音は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、雪の華奢な身体をぎゅうっと抱きしめていた。
「雪くん……ほんとに……ほんとうに……」
その光景を見ていたインクラインの面々も、我慢できなかった。
「雪くん…………っ!!」
最初に飛びついたのは空。勢いよく雪の背中に抱きつき、朱音ごと雪を揺らす。
「よかったぁぁぁぁぁ!!」
続いて風花が涙をこぼしながら腕を広げる。
「雪くん……! 生きてて……よかった……!」
花恋は胸元を押さえながら、それでも堪えきれずに雪へ駆け寄る。
「もう……心配させないでよ……」
萌黄は鼻をすすりながら、雪の袖をぎゅっと掴んだ。
「うぅ……ゆっくん……っ……!」
四人が雪に一斉に抱きつき、朱音も巻き込まれて、雪は一瞬でインクラインの抱きしめ地獄に飲み込まれた。
それを少し離れた場所から見ていた紫乃は、扇子で口元を隠しながら、ふわりと微笑む。
「……よかったですわね、ほんとうに」
斗花は腕を組んだまま、ふっと息を吐いた。
「……あいつ、戻ってきやがったか。まったく……心配かけやがって」
その声はぶっきらぼうなのに、堪らないほどの優しさがにじみでていた。
周囲では、ルーセントが胸に手を当てて深く息をつき、レインはその場にへたり込みそうになりながら笑った。
「……はぁ……よかった……本当によかった……」
鏡宮の六十名の兵士たちも、一斉に肩の力を抜き、ざわざわと安堵の声を漏らす。
「助かった……」
「奇跡だ……」
「御子様が……戻られた……」
そして、無冠の灯の男たちは、互いの肩を叩き合いながら叫んだ。
「賢者様は、俺たちとは違う! さすが紫乃様!!」
「やはり紫乃様はすごいでござる!!」
「紫乃様ァァァ!! まさに知の化身よな」
紫乃は扇子で頬を隠しながら、少し照れたように微笑んだ。
「まぁ……当然のことをしたまでですわ」




