第107話 触れた温もり、呼び戻す名
朱音は、視界の端に映った異形へと、ゆっくりと顔を向けた。
最初は、ただの影に見えた。しかし、焦点が合うにつれ……その特徴が、ひとつ、またひとつと浮かび上がってくる。
白銀の髪。
それは、朱音がよく知る、あの優しい少年の髪色と同じだった。
そして、額に刻まれた、淡く輝く紋章。世界に一人しかいないホワイトスノーの白印。
朱音の呼吸が止まった。
(……そんな……そんなわけ……ない……)
その者は、目が……空洞だった。深淵を宿したような、底の見えない闇。
あの、いつも朗らかに笑っていた優しい瞳は、どこにもなかった。
さらに、身体つきも違う。かつての雪は、華奢で可憐で、守りたくなるような存在だった。
しかし今そこに立つのは……逞しく、筋肉のついた、男性として完成された体躯。
朱音の喉が震えた。
「……まさか……あれが……雪くん……だというの?」
震える声で、朱音は隣にいる斗花に問いかける。
斗花は、目をそらさなかった。その瞳には、怒りでも悲しみでもなく、ただ、事実を受け止めた者の静かな覚悟があった。
「……ああ。あれが、お前が自分の命より大事に想っている雪だ」
朱音の肩がびくりと跳ねる。
斗花は続けた。逃げ場を与えないほど低い声。
「……お前は、雪を守れなかった。インクラインの誰も、ここに集っている兵士たちも……誰も間に合わなかったんだ」
朱音の胸に、冷たい刃のような言葉が突き刺さる。
広場の空気が、音もなく凍りついた。
朱音は震える指先で、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
「そ……そんな……雪くんが……あんな……姿に……?」
声はかすれ、言葉の端が震えていた。
「……あたし……あたしは……彼を……守れなかった……?」
その独白は、誰に向けたものでもなく、ただ自分の心の奥底から零れ落ちた痛みだった。
斗花は、何も言わなかった。慰めの言葉も、励ましも、この瞬間の朱音には届かないとわかっていたから。
沈黙が落ちる。
その静寂の中で……朱音の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。透明で、しかしどこか熱を帯びた雫。
その瞬間を見逃さず、紫乃の手が、まるで風のような速さで動いた。
エリクサー用の瓶を、涙の軌道へそっと差し出す。
ぽたり……涙が瓶の中に収まった、次の瞬間……ぱぁぁぁぁ……っ
瓶の中の液体が、一本目のエリクサーよりもさらに強く、七色を越えた神々しい光を放ち始めた。
虹色の輝きが渦を巻き、白金の光がその中心に宿る。それは、祈りそのものが形になったような光。
紫乃は瓶を胸元に抱き、静かに息をついた。
「……二本目、完成ですわ」
その声は、どこか神聖で、しかし同時に切なさを含んでいた。
朱音は涙の跡を残したまま、その光をただ呆然と見つめていた。
二本目のエリクサーが放つ光は、もはや虹色という言葉では足りなかった。
七色を越え、白金の輝きが脈動し、まるで天から降り注ぐ祝福のように広場を照らす。
その光を見た瞬間……フェルマの瞳が大きく見開かれた。
「そんな……ありえない……!?」
どうしようもなく、その声は震えていた。
「この輝き……ぼ、ぼくの作る劣化エリクサーなんかじゃない……! これは……真なる命泉 (トゥルー・エリクサー)……じゃないか」
その名を口にした瞬間、周囲の空気がぴんと張りつめた。
紫乃が静かに目を細める。
「真なる命泉……?」
フェルマはごくりと喉を鳴らし、震える指で瓶を指さした。
「若返り……再生……魂の修復……伝承でしか語られないはずの効果が、すべて備わっている……こんなの、あの素材だけじゃ、絶対に作れない……」
光はさらに強くなり、瓶の中で白金の粒子が舞い踊る。
フェルマは息を呑み、そして……震える声で言った。
「……そうか……この薬なら……」
彼の視線は、広場の中央に立つ異形の者へ向けられる。
白銀の髪。深淵を宿した空洞の瞳。かつての可憐さを失った、逞しい男性の体躯。
そう、雪だった者へ。
「……この薬なら……巫女様を……元に戻せるかもしれない……」
その言葉は、絶望に沈みかけていた空気に、ひとすじの光を差し込んだ。
朱音は涙の跡を残したまま、その光を見つめて震える。
斗花は拳を握りしめ、紫乃は静かに頷き、五星姫とインクラインの仲間たちは息を呑んだ。
《真なる命泉 (トゥルー・エリクサー)》……それは、奇跡そのものだった。
ストレイの放つ神聖拘束魔法……その光が、先ほどまでの安定した輝きとは違い、ちらちらと不安定に瞬き始めている。
ストレイ自身は、うたたに袖を握られたまま固まっているが、魔力の糸だけは必死に維持していた。
紫乃が眉を寄せる。
「……拘束の効力、残りわずかですわね」
フェルマも青ざめた顔で頷く。
「う、うん……ストレイの神聖魔法力であれど、あれだけの力を持つ者を長時間拘束できる魔法じゃない……いつ暴れ出してもおかしくない……」
その異形は、無表情のまま拘束の鎖に抗い、ぎしり、と空気を軋ませる。
白銀の髪が揺れ、空洞の瞳が、まるで底なしの深淵のように広場を見渡した。
誰もが息を呑む。
近づけば、一瞬で殺される。しかし、飲ませなければ、雪には戻らない。
沈黙が落ちたその時。朱音が、震える足で一歩前に出た。
「……あたしが行く」
その声はかすれていたが、確かな意志を宿していた。
斗花が振り返る。
「朱音……?」
朱音は唇を噛みしめ、それでも前を向いたまま言った。
「……あたしが……雪くんに、その薬を飲ませる」
広場の空気が、まるで凍りついたように静まり返った。
紫乃が目を見開き、フェルマは息を呑み、インクラインの仲間たちは言葉を失う。
朱音は拳を握りしめた。
「……あたしが守れなかったんだ。だったら……今度こそ、あたしが取り戻す」
その瞳には、涙の跡が残っているのに、炎のような強さが宿っていた。
斗花はしばらく朱音を見つめ……ゆっくりと頷いた。
「……行け。お前にしかできねぇよ」
朱音は震える手で《真なる命泉》を握りしめ、ゆっくりと雪だった者へ歩み寄った。
ストレイの神聖拘束魔法は限界に近く、鎖の光は今にも消えそうに揺らいでいる。
朱音が歩み寄る。その足元に、ぽたり、と涙が落ち、地面に触れた瞬間……淡い光がふわりと広がった。
その光に、雪だった者が反応した。空洞の瞳が、朱音の方へゆっくりと向き、異形の動きがぴたりと止まった。
トゥルー・エリクサーの光の輝きに触れたからなのか、朱音の涙……それは、雪が生前もっともよく触れていた優しさの匂いだった。
朱音は震える息を整え、そっと手を伸ばした。
雪がよくしていた仕草。不安な時、照れた時、朱音の頭にそっと手を置いてくれた、あの仕草。
朱音はその動きを……今度は自分が、雪に向けて再現した。
異形の身体が、びくりと震えた。
そして……ゆっくりと、朱音の手の方へ顔を寄せてくる。
空洞の瞳の奥で、ほんの一瞬だけ、雪の面影が揺れた気がした。
「……雪くん……」
朱音はそっと囁き、瓶の蓋を開けた。白金の光が、雪だった者の頬を照らす。
朱音は震える手で、その口元へエリクサーを運んだ。
「……戻ってきて……あたしの、大事な……雪くん……」
異形の唇が、わずかに開いた。
その瞬間……朱音はそっと、《真なる命泉》を流し込んだ。
優しく輝く光が、世界を満たした。




