第9話
1
あの日のことを、今でもよく覚えている。
二十年前、俺がここに連れてこられてからというもの、常に現実に打ちのめされてきた。変わったねと、昔を知る人なら尋ねるだろう。最早そんな人など居ないが。
俺はずっと孤独の中で、手を染めて生きてきた。外から来た自分には、この世界のことが分からなくて。言わば人々の暮らしや常識、それに時代の変化というものを知らなかった。そうしてあたふたしている自分に、数日のうちに彼らは接近してきた。お陰で野垂れ死ぬことなく、何とか食いつなぐことができた。
最初はおかしなカルト教団かと思っていた。皆同じ格好をし、形式を重んじ、公共の為と命を捧げる。国連なる存在を知った時の衝撃は、ああ物騒な世の中なのだと、それくらいのものだった。国の為、治安の為。俺と彼らとの間の違いは、規模の大小はあれど、そうした謳い文句の違いくらいだった。所詮同じ穴のムジナ。汚れ仕事の請負人たちだ。
俺は腕を買われて、何とか職にありつけた。以来、俺は人殺しを生業とした。それもただの人殺しではなく、同業者、同じく外から来た者たちの執行を任された。
仕事は決まって夜に行われた。あまり表沙汰にできない事情もあったのだろう。それでも闇討ちには心が痛み続けた。
元々戦争の立役者として持ち上げられていたこともあって、命のやり取りは些細な問題だった。しかし非力な者を一方的に消していくやり方には、虚しさが込み上げた。弱きを助け、強きを挫く。これまでの意義がどこまで保てるのか。俺はぼろぼろの状態で何とか続けていた。
仕事を始めてから数ヶ月、良い成績を上げたせいか、標的の始末に収まらなくなった。やれスパイをしろだ尾行をしろだ、情報を持ってこいだと言って仕事の範囲が拡大した。ただの人殺しから解放されて、社会貢献って奴を感じ始めた頃だった。その視野は自分で自分の首を絞めることとなった。
同胞狩りとは、悪党を裁くことと必ずしも一致しない。むしろ逸れることの方が多かった。
俺は、誰にも手が付けられない危険人物を排除する特攻員だと、勝手に自分の役割を決めていた。価値を決めていた。その為に腕を買われたのだと、存在意義を見出だしていた。
あれは十数人目の標的だったか。寝込みを襲うのに失敗して、相手がわめき出したのを覚えている。俺が何をしたと、そういった内容だった筈だ。仕事終わりに、習いたてのコンピューターで標的を洗った。そいつは俺と同じく能力持ちだったが、過去の言動に何ら問題はなかった。むしろ博愛主義的な、世間体の良い人物だった。
ああ、やはりかと。じわじわと込み上げていた疑念が、その頃に払拭することができた。
「俺は何をしているのだろう」
己に冷淡になる代わりに、真っ直ぐ向き合えるようになった。今は亡き仲間たちを思い返すと、全くもって、自分が小さく思える。プライドなど芥のようなもの。もっと卑屈に、利己的に生きる道を考えた。
それから俺は、自分の為に生きようと決した。自分の為に、割り切ることを決めた。いつか自分も恐れ、消されるまで。
仕事の兼ね合いの関係で、俺の存在は組織内で割と広まっていった。行動の自由も利くようになっていき、無減とかいうふざけた姓とともに、表社会にも居場所ができ始めた。
恐らく俺を、マッチか何かと高を括ってくれたお陰だ。恐れさせないこと。それが長く生きる為の、第一の優先事項だった。
とは言うものの、実は大して生に執着はなかった。嫌でも死ねないのだ。あの手この手とひねくり出すほど、俺は懸命ではなかった。
ただ時々、昔の顔が懐かしく思えることがあった。一度思い出すと、その情景に駆られて引き返せなくなる。仕事の合間を見ては、散策と嘯いて外を探した。噂を嗅ぎ回った。これまで一度として、以前の知人に会えたことはない。それでも淡い期待を、俺は今でも持ち合わせている。生きるわけと言うのは、そのくらいで丁度好かった。
あの子に初めて会ったのは、五年目のことだった。仕事帰りの疲れた俺に、その娘はにこやかに微笑んでくれた。たった今染めた手を、無邪気さが塗り替えてくれるような眩しさで。
黒服の手に引かれて、その子は直ぐに行ってしまった。その子は夜道の中で、妙に小綺麗に感じられた。そうぼんやりと、その時は感じた。
記憶に引っ掛かったのを、後に仲間内で話した。するとどうやら、彼女はちょっとした有名人なのだと、その時知った。何でもあの歳で霊媒師なんだとか。孤児だったところを、最近引き取り先が見つかったとか。それに彼女も、人と違う力が備わっていたらしい。
黒服に連れられる姿を思い返して、名状し難き思いに駆られた。こんなにも世界が狭く見えたのは、この時を除いて他にないだろう。
2
それから数年が経ち、あの子に再び会うことになった。勿論仕事の関係上で。悲しくも、俺は護衛という形で付き添っていた。
「貴方、お名前は?」
そう訊かれた時、俺は簡潔に答えた。
「無減だ」
「そう。無減さん。不器用で、何だか可愛い人。私は東雲怜奈といいます。よろしくね」
おそらく以前のことは覚えてないだろう。これが彼女の、初対面としての挨拶だった。
後ろを従って歩いていると、育ちの良さがよく表れる。能天気な動きの隙間に、おしとやかな姿が見え隠れして。好奇心旺盛なその瞳は、別れる前に見たシーに似ていた。
ただ、黒服に育てられる少女を思うと、胸にもやもやが生まれる。この子は普通の暮らしを、せめても幸せな子ども時代を送るべきだと。悲しみを背負うのは、俺たち大人で充分だろうにと。この子の人生は既に奪われてしまったように感じて、何だか申し訳なく思った。
俺は、自分の経験を、目の前の少女に重ねているのかもしれない。
「君は今、いくつなんだ」
そう尋ねてしまいたかった。けれど答えが返ってきたら、余計に心が抉られるだろうと分かっていた。この子がまだ幼いというのは、火を見るよりも明らかなことで。おそらく、俺たちの時に比べても、彼女の方がもっと若かった。
「君はちゃんと、学校には行けてるかい?」
振り返った顔は、不思議に思う顔つきだった。どうしてそんなこと訊くのかと。或いは学校って何?という顔だったかもしれない。そうかもしれないと不安になってきて、墓穴を掘ったんだと後悔した。
「学校? うん。ちゃんと行ってるよ。時々起きれなくて休むけど、でも学校なんてそんなものでしょう」
同意を求める声だった。しかし言っておきながらも、俺は学校というものを知らなかった。知識として得ただけで、その実態も、経験も、はかり知れていなかった。子どもの教育機関という漠然な認識で、俺は「そうだな」と答えて善いのか迷った。
この俺の言葉が、彼女の人生を決定付けてしまうのではと怖かった。俺は当たり障りの無い一般論を、ただ返すしかなかった。
「ちゃんと行かなきゃ駄目だよ」
駄目という言葉遣い。違和感が拭いきれず。
「どうして?」
真っ直ぐな目付きで訊いてきて、思わず「どうしてって…」と声が漏れ出てしまう。
大人として格好悪い。視線を切って、直ぐに考えた。俺がもし学校に行けてたら、何か説得力のあることを言えたのか。
「どうしてって、同じ年頃の子と遊んで、楽しくないのかい?」
それが俺の答えだった。大人に囲まれてばかりの君には、貴重な時間だと思うけれど。そうも付け加えた。子ども相手に情けない話だ。
「私、他の子のことは良く知らないのよ」
口ごもったと思ったら、小さな口が重々しく開き、低めのトーンが返ってくる。孤立してないか、心配になるような声だった。
「それにお友達なら、沢山居るから。夜にしか会えないけど、それでも充分よ」
切り替えたように元気な声。それは大人たちのことかと考えたけれど、普通に考えれば、きっと幽霊のことだった。これが彼女の日常。これが少女にとっての、普通の暮らしなのか。
「じゃあ今日も、お友達に会いに行くのかな?」
「ううん。知らない人。でもきっと、今日も仲良くなれるよ」
こういったことは嬉しそうに話すので、俺は少し安らいだ。病んでしまわないか心配だったが、子どもには子どもの幸福があるのだと、その時ばかりは感心した。
しかしこっちに居場所が在って善いのかと、度々考えることになった。その後も何度も、会うことがあったからだ。
あの子は上手くやれるだろうか。社会に上手く溶け込めるだろうか。夜の世界に身を置いて、彼女の周りに、生きた人間は残るのか。
今はここにしか、きっと少女の幸せはないのだ。この歳で働いて、体は大丈夫なのか。明日にひびかないか。そんなことを気遣うあまり、唯一の幸せまでも奪うことはできない。
「もう遅い。背負ってくから寝てなさい」
俺にできるのは、帰路でそう伝えることだけだった。
あの子の辛さなど知らない。知ったところで、俺に何かできたのか。
3
妻と出会ったのは、そんな生活が数ヶ月続いた頃だった。
「最近よく見かけますね」
その頃通っていた喫茶店で、彼女は確かアルバイトをしていた。まだ学生だったろうか。制服姿を見た記憶が、ぼんやりと残っているような。
「いつも何されてるんですか?」
妙に元気のある人だな。第一印象はそんな感じ。俺とは正反対の人間だと、直ぐに察した。
「別に。時間を潰しているだけだよ」
俺は素っ気なく答えたつもりだ。表では、なるべく口数を少なくして、余計な関係を作らないようにしていたから。そして大概の人は、これで口をつぐんでくれていた。
だから向こうから迫られた時は、俺はどうしていいか分からず、困った。カウンターの先から身を乗り出して、個人のプライベートに踏み込もうとする彼女を、俺は断りきれなかった。
「仕事中だろ。油売ってていいのかい」
そう言う俺に対して、
「残念。今はシフト外です。それにこの時間はお客さん少なくて、皆退屈しているところ。ほら、皆寛いでる」
だからと言って、客に絡んで店のイメージ下げちゃいかんでしょ。周りにどう思われてるか、この子は気にしないようだった。
「お客さんさ、時間あるなら話に付き合ってよ。もうちょっとしたら仕事するからさ」
神経の図太さに、ただただ苦笑する他なかった。
それからも時々彼女は居て、相も変わらず絡んできた。俺に限らず、被害者は他にも出ているらしい。それでも評判が落ちないのは、珈琲の味と、朗らかな性格のお陰だろう。それを求めて来るお客さんも、居ないことにはなかった。
そう。会話を目当てにする客も居たのだ。大方は年金暮らしのご隠居だったが、スーツを着たセールスマンなんかも、楽しげに話していたことがある。サービス業なんかだと、これも能力になるのだろうなと、俺は遠目でぼんやり見ていた。その開けた社会性は、俺には合わないだろうなと思った。
何度も絡まれるので、当然俺のことも色々訊いてきた。仕事は何やってるの? とか。好きな珈琲の銘柄は? とか。二度目から、早くもタメ口が始まっていた。
「貴方、お仕事何だっけ?」
何度目かのそれに、前にはどう誤魔化したんだっけなと、思い出せない記憶を探っていた。
「あまりおおっぴろげに言えないことだよ」
俺は苦し紛れにそう答えた。
「もしかして、反社の人」
うわっと、引いたような顔を作り、手で口元を隠す。勿論芝居なのは分かっているが、本物が来た時はどうするのだろうか。いつかトラブルを起こすのではないかと、俺は彼女を見ていて危なっかしく思っていた。
「反社ではないよ。一応は正規の組織だからね」
言えるのはここまでで、どうしてもその先を教える気にはなれなかった。ただ含みを持った言い方をすると、俺が何か隠しているのがバレて、彼女の方からぐいぐいと圧されてしまうのだ。何か言う度に関心を集めてしまうようで、段々と肩身が狭くなっていった。
喫茶店に行くのは、夕方頃が多かった。俺は夜を待つ為に寄っていたが、彼女に会うのは遅い時間が多かったと思う。
仕事場で時々会うあの子にも、この話をしたかもしれない。フランクに喋る彼女に対して、東雲怜奈という少女は成長し、少しずつ敬語を身に付けていった。幼さが薄れていくのを、俺は寂しく感じていた。
俺がからかわれていると話したら、少女は口元を隠すように笑った。小さな口だったが、無邪気さは隠し通せていなかった。
「面白い人ね。その人も。貴方も」
「俺も?」
「だってそうでしょう。訊かれるって分かってて、それでもわざわざ会いに行くんだもの」
ああ、成る程。言われてみれば、そうかもしれない。
「ねえ、ねえ。どうして通ってるの? やっぱり、そういうこと?」
「いや」
面白がられているのが分かって、反射的に遮ってしまう。そういうことがどういうことなのか分からないが、あの笑顔はきっと意地悪なものだなと。
さて、言い訳を考えよう。黙っていると後手に回るのは、あそこで嫌と言うほど味わっている。一人でも厄介なのに、まさか増えるとは思わなんだ。
「…いや、ただ憧れてるのかもしれない。ほら、俺たちは所謂普通の生活ってものを味わってないから。触れてみたいんだと思うよ」
そんなことを思い付いたままさもさもげに喋っているうちに、またこんなこと怜奈ちゃんに言ってて善いのかなと感じた。
「だからね、ちゃんと学校は行った方がいいよ」
そう付け加えてカバーした。語尾を濁らせたのは大目に見てほしい。
この子もまた、俺のことをよく訊いてきた。顔を合わせるので、仕方ないと言えば仕方ないのだが。ただ、こちらには隠し事をしなくていい分、楽に話すことができていた。
例えば、仕事の話。外の話。ここに来る前のことを、面白そうに聞いてくれた。その度に俺は、気付けば喋りすぎてしまっていた。
娘が居たらこんな感じだろう。俺にとってこの子は、秘密を打ち明けるはけ口になっていた。孤独を癒す為に、度々少女にすがりついて。何とも情けない話だ。
4
暫くぶりに店に顔を出した時、例のバイト娘は寂しかったよと言ってきた。どうやら顔を覚えられていたらしい。
「私のせいで、お店が嫌いになったのかと思ってた」
絡んでいることに自覚があるなら、控えればいいだろうに。勿論そんなことは面と向かって言えるわけもなく、代わりに俺は、
「そんなことないよ」
と短くお世辞を言うのだった。本当のところは分からない。逃げていたと言われて、俺には否定しきる自信がなかった。
「そう。私のせいじゃなかったのね。よかった」
胸を撫で下ろす彼女の姿を、俺は珈琲カップに口を付け見ていた。
「じゃあさ、ちょっとお出かけしようよ」
なんて言い出すものだから、むせた息が黒色の水面を振動させ、ぶくぶくと小さく唸った。
「あっはっは。牛乳じゃないんだから、泡立たないわよ」
人目を気にせず大笑いする前で、俺はまたもや苦笑を漏らすのだった。まったく。俺でなきゃ、きっと怒られてるだろうに。
「はい。飲んで。行くわよ」
「…どこに」
「決まってるでしょ。デートよ」
その時ばかりは、流石に逃げたかったと思う。珈琲をゆっくり、ゆっくりと飲んで、俺は落ち着きを払った。ただ、考えるのを止めた。
まあ大層なことではなく、近くのファミリーレストランで食事を取ろうというものだった。そのファミレスとやらに足を踏み入れたのは初めてだったが、それも身構えるほどのことではなかった。どこの店も、同じようなシステムだったからだ。
金さえ持っていれば、あとは何とかなる。俺は今も、外国人だか観光客の気分で外を歩いているのだろう。こんなにも長い旅行は、生まれてこの方初めてだが。
とりあえず席に着いて、適当に料理を注文した。周りが勝手に誘導してくれるものだから、そう困ったことにはならない。ただ呼び鈴なんて知らないものだから、早速一つ、笑いを獲得していた。
「ヘイヘイ。やっぱり貴方、それ選ぶと思ったわ。だってハンバーグが似合う顔してるもの」
ステーキかハンバーグがメニューの大半を占める店でこの始末だ。
「でも好かったの? パンじゃなくて」
「…君は何がしたいんだ」
多分俺は嫌そうな顔を返した。システムなんて知らないから、相手を真似して注文しただけだっていうのに。勝手に面白がられて癪だった。
「だってさぁ、お店には来なくなっちゃったし。外でしか話せないかなぁって。私が引きずり出すしかないじゃない」
「…別に行かなかったわけじゃないよ。ちょっと忙しかったから」
「そう。じゃあまた来るのね」
そう言われて、どうしようか迷う自分がいた。
「そもそも君は、どうしてこんなに絡んでくるんだい。僕ら店員と客だろう。外まで行って、お話することなんてあるのかな」
今は二人ともお客さんだけどねと茶々を入れて、
「だって、外人さんと話す機会なんかもう一生ないだろうし。あ、そう言えば外人さん、日本語上手いね。もしかしてハーフ?」
話の切り替えに関しては、もう天才と呼べるのではないか。俺は頭を抱えながら、外人の意味を考えていた。外人と言えば外人。外国人というわけでは、勿論なかった。
「どうしてそう思う?」
「え。だって彫りが深いし、眼青いし。ヨーロッパの人? 西部劇なんか似合うなぁって思ったけど」
この想像力の豊かさは、どこから湧き上がってくるのだろう。それはそうと、眼は盲点だった。もとの赤髪は黒化で何とか誤魔化していたが、眼までは気にしてこなかった。日頃黒服に囲まれてるせいだ。奴ら皆、サングラスばかりだから。そう心の中で言い訳にした。
「かもしれないね。でも育ったのはこっちだ」
聞いていた彼女は口を尖らせていたが、やがて面白いことを思い付いたかのように食器を漁った。ガサゴソ、ガサゴソと。取り出したのは一膳の箸。それを俺に手渡そうとする。
「えっへへー。どう? 使える?」
期待に満ちた目だったが、流石に箸は使えた。
「…つまんないの」
いじけた女の子のように、頬を机に付けて呟いた。もっとも、彼女も女の子だったが。
「おじさん、今日は私の負けよ」
ちょっとだけ、心がチクっとした。
5
「おじさんとお兄さんの違いは何だろうか」
数日後、何度目かの手慣れた仕事で、俺はあの子に訊いてみた。
「…お髭の濃さ…ですかね」
遠慮気味に答えるので、まだまだ不完全燃焼だった。怜奈ちゃんに気を遣われると、何だか自分が情けなくなる。
「護衛なんて、要らないのに」
仕事始めには、決まってそう言われる。その理由を知ってはいたが、「そうだね」とは決して返さなかった。
この仕事は手を汚さないで済むだけでなく、この子とお喋りができるという理由もあって、俺の中で密かな楽しみとなっていた。出会う度に良心が締め付けられるにも関わらず、顔を見れることが嬉しかった。この子の無事を確かめることで、俺は何かに赦されようとしていた。
暗い夜道を、隣に立って歩くだけ。時々会話を交ぜながら、ただ歩くだけの仕事だった。果たして俺は、役に立っているか。暇に感じると、そんなことをつい考えてしまう。
しかし、閑散とした暗い路地に少女が独り佇むのを思うと、自分は今ここに居るだけで怜奈ちゃんを救っているようにも思える。この子は強い子だ。この歳で仕事して、社会を相手にして、そして孤独に馴れている。だからこそ俺が必要なんじゃないか。そういう自惚れが今の自分を占めている。
「怜奈ちゃん」
そう、気の弛みが自覚のないうちに芽生えていた。知らないうちに、自分は変わってしまった。
振り返る少女を待つこともなく、右頬に何かが触れた。瞬間、俺は吹き飛んでいたのだろう。ぶっ飛んだのを後になって思い出した。
ああ、彼女の目にはどう映ったか。怖がらせてはいないだろうか。俺を喪ったと思ってほしくない。
数瞬の意識が飛び、頭の疼きに起こされた。体はまだ重い。付いてきてない。
「…死んだな」
勿論死んでない。ただ普通の人間ならば、既に川を渡っているだろう。
まるでALSの患者のように、視線だけが無事を保っている。その目でイレギュラーな存在を捜索すると、いくつか道の向こうに不自然な影が見えた。もはや人影には見えない。あれはもう…。
言わば、樹木の姿だった。
「…笑えねぇ」
怜奈ちゃんは無事だろうか。あれに襲われてはいないか。俺がこのまま寝ていて、長いこと一人にしておくわけにはいかない。
それはそうと、久し振りに苛立ちが込み上げている。脳天かち割られたような気分だ。そんな比喩も本当に起きているかもしれない程で。目立つ行動は避けてきたが、今日ぐらいは暴れてもいいだろうかと、そんな衝動が湧き起こる。どうせもう、バレているのだからと。
どこかで見張ってる奴が、俺の鍍金が剥がれるのを待っている。いつかは明るみに出ることだ。それが今日になったところで、何か失うものがあるのか。
体を治しながら駆けつける。触った感じ、幸い傷は打撲だけのようで、四肢は繋がっている。これなら煩わずに済みそうだ。とりあえず戦える。
黒化になっているのを確認して、重力を軽減する。蹴り込む一歩一歩の中で、これから市街地でドンパチを起こす覚悟を決めておく。迫る標的を視野に据えながら、今という瞬間に焦燥を駆り立てて。
高揚は充分。度胸は充分。あの戦場の光景が脳にちらついた。
俺は戦士。担ぎ上げられた英雄。左手に欠け身の剣を握る。異様な木偶を正確に狙えるようになった距離で、その場に圧を乗せる。これ以上暴れることのないよう。犠牲のないように。
地にへばりついた醜体に、空かさず刃を突き立てる。動かぬ木身は、しかし依然として重力に悶えていた。未だ命には届いていない。或いはこいつも不死身の類いかと考えた。
掌から刀身を伝い、ニグレドの荒い炎が流れていく。巨体は簡単に引火した。熱に包まれ、一色に染まり、暗く揺らめく周囲に火の粉が舞ってゆく。
盛大なキャンプファイヤーがある。火は高く昇ってゆく。灰となる亡骸に目をやり、先ほどの不快感は優越感へと上書きされていった。
いつからか、ちらつく陰りに浮き沈みする、少女の影が側にあった。振り向く目に飛び込んできたのは、乱雑に塗られた赤。昂る俺の高揚は、その彩を見てすっかり冷めていった。
「…大丈夫かい?」
目を閉じ、怯えるように耳を抑えている少女。それを見て、反射的につい口走ってしまう。慣れない癖だ。何を気にしてガワを取り繕っているんだか。
「ええ。平気です」
ゆっくりと、落ち着きのある声。続けて束の間の沈黙が流れていった。失言に項垂れる俺を気にしたのか、直ぐに口を開いて、明るい口調でこう重ねた。
「それにしても凄いですね。あんな直撃パンチ受けて。私てっきり、首がもげたんじゃないかと思いましたよ。だってもう、吹っ飛んでいきましたからね」
「…」
「…」
気の利いた返しが浮かばない。脳をやられたせいだ。…そう言い訳を考えるぐらいには、まだまだ平気のようだが。
「怜奈ちゃんこそ、本当に平気かい? さっきだって、何だか震えてるように見えたから」
「…ええ、ご心配なく。もう収まりましたから。それに私のことなら、ご存知でしょう」
「…まあ」
暗い空気が流れていく。表情から笑みが消え、口から出たその言葉は、果たしてどんな心持ちだったのだろう。
この出血を見せられて、依然痛がる様子もなく、苦しむ様子もなく、違和感を覚えずにはいられない。そして、だからこそ、胸の奥が締め付けられるように苦しい。
「それでも、自分の体は大事にしないと」
黒化から白化へ。少女の肩に手を置いて、そこに温もりの熱を注ぎ込む。少しでも和らげるように。自分一人では手に余る力だが、きっとこんな時の為にあったのだ。
胸の前には、聞き分けのないような視線が転がって、臍を曲げたような表情を浮かべていた。
「それでもだよ。治ることばかりじゃない。傷付けてばかりじゃ、いつか自分の体に付いてこれなくなる」
本音を言えば、単に怪我するところを見たくないのだ。手前の都合、そこに一般論を被せて、正義の味方を装っている。
「ねえ、怜奈ちゃん。どうしてこの仕事を続けているの?」
俺は解っている。その上でこんな意地悪をするのだ。子どもの説教とは、きっとこんなものだ。
「…だって、これは私にしかできないことだし…。それに私の居場所はここよ。みんな待ってくれてる。私だって楽しくやれてるし」
「怜奈ちゃん」
「…」
「このままじゃ、本当に君は独りになってしまう。怜奈ちゃん、君には他にも居場所がある筈だ。だからもっと…その、気にかけてほしい」
上手い言葉を見つけ出せなかったのを歯痒く思う。肝心な時はいつもこれだ。俺はいつも、大事なものをこぼれ落としていく。
口下手の俺にできたことは、その視線に向かい続けることだった。
6
気が緩んでしまったのか。それからボロが出やすくなってしまった。仕事でも、プライベートでも。馬鹿をやっていた昔の感覚が戻ってきているようだ。連休明けのあの慣れない感じが日々抜けない。自分探しの旅に出れば、きっと今の自分が本当の自分だと感じる筈だ。素の自分に何のよさがあるのかは分からないが。
いつも誰かが、俺に価値をくれた。今思うと、ただ誰かの期待に応える人生だった。誰かの幸せ。その大半は、豊かな人の利益の為で。だから仲間には、俺は愛想を尽かされて。自分らしさとは、俺にとっては間抜けをひけらかすことと同意義だったのかも、と。
あの子と最後に会ってから、どうやら監視が増えてしまったようだ。軽率だったか。しかし思い返してみると、怜奈ちゃんを助けるという名目もあって、仕方のなかったことのように思える。まあ勝手にやっただけのことだ。後先考えるのはどうも苦手で。
だがしかし、そんなことを言っては、過ぎたことは戻らないのだと、後悔の念も湧き上がってくる。以前ほどの自由が今は恋しい。
執行の依頼は最近になって来なくなった。その傍ら、仕事中に思わぬ不幸が舞い込むように。それが俺を狙っているのだと、鈍い自分は直ぐには気が付かなかった。
遂に俺も、追われる立場に立たされている。こうのんびりしていられるのも、奴らが俺を計り知れるまでの間だろう。
そういうわけで、近々はなるべく表を歩くようになった。公の場では流石に向こうも手を出せないだろうと踏んで。ここは彼らの常識に委ねる部分が多い。
そうして何だかんだで、気付けばあっという間に数ヶ月が経っていた。俺は最近をどう過ごしているか。どうも惰性で一日一日が終わっていく。日の昇り沈みなど、もはや意識の外にあって。
思い返すのは、やはりあの店員だろうか。外で会ってからというもの、色々と引っ張られるようになって。ボロの出やすい時期に、あのお喋り娘を相手にするのは荷が重かった。
何とか俺がしくじるのを見ようと、漢字を書き取らせたり、お参りに連れてきたり、ありとあらゆるものを試し始めた。こっちで育ったというのに、未だ俺を日本人と認めたくないらしい。その差異がどこにあるのか、俺には全く判らない。
文化。風習。そういったものだと彼女は言う。二十代後半に差し掛かって、俺はまだ社会に溶け込めていないらしい。教えてあげると言うものの、俺からすれば、いたずらっ子の実験に付き合わされる心持ちだった。
彼女はよく笑うのだ。俺を見て。主に俺の失敗を見て。着飾っているものがバレたと言いたげに。初めてのことをすると、大抵は馬鹿にされる。それが嫌かというと、さほど気にするというほどでもなかった。いつもみたく、苦笑いを浮かべて視線から逃げるだけ。
逃げ。この子から逃げているのだと、いつからか感じるようになった。それは店で黒服を見かけた時からかもしれないし、もっとずっと前、初めて訊かれた時からそうだったのかもしれない。その証拠に、俺は彼女の話した内容を覚えていないし、彼女のことについても殆んど知らなかった。何も尋ねなかった。段々とそれが不思議に思えてきた。
俺は誰だろうか。自分の至らなさなら、嫌と言うほど知っている。突っ走る性格も、向こう見ずの俺も、皆知っているつもりだ。だが俺は、今は何に向かっているのだろう。何を求めて日々生きているのか。帰りの切符か。安泰な生活か。それとももう、いっそ楽になってしまいたいのか。
常連の手つきで扉を開け、いつもの景色がそこにある。ここにはきっと、平穏を求めていたのだと思う。俺とは違う人を見て、その優しさに、暖かさに触れたかったのだと。この眩しさを、俺の手で壊すわけにはいかないなと、最近は考えるようになった。
「もう、ここに来ることもないかな」
ボソッとした呟きに、あの子は大袈裟に反応して。その子の目を、俺は初めてちゃんと見た気がした。
「えー、やだ。やだ。もう来ないの。寂しいじゃん。寂しくないの?」
まるで駄々っ子のように、幼さの詰まったモーション。やだ。口をついて出てくる言葉が、まさかそんなにも剥き出しの感情だなんて。その正直さが、今はちょっとむず痒い。
「…そっか。無減さんにもついに呆れられたか。そうだよね。いつまでもこんなんじゃ駄目だよね…」
そういえば名前も教えたんだっけか。確か歳も喋ったな。年齢の割に老けているとか。それからおじさんとは言われなくなった覚えがある。
「今日はテンション低いね。悩み事かい?」
まあこの年頃で悩みと言えば、進路の話と相場は決まっていて。つまり俺から言えることなんざ、ただの与太話でしかなくて。
ただこう言ってしまうと、向こうが食いついてアドバイスと催促してくる。目に見えた煩わしさを未だに回避できないのは、単に自分が単細胞の馬鹿のままだということで。苦い汁を吸っては、何と言おうか考える。脳の反対ではそんなこと知らないよと、諦めきって白旗を振っているのに。
「んー、僕は君じゃないからね。受験とか、就職とか、僕はそんな必死にはなれないよ」
投げやりな回答に呆れたか、固まった彼女。と思ったら、いきなり吹き出して笑う始末だ。
「なぁんだ。私たち、似た者同士じゃない」
俺は「はぁ?」という顔を作って、内心では全力で首を振った。
後日、その子はバイトを辞めた。勉強に専念する為だったと思うが、その後の様子を見る限りあまり熱心にはしていないようだった。息抜きと口実をつけては度々呼び出され。やれ買い物だの、映画だの、まるで受験生には似つかない生活だった。
どうして俺は、そこまで面倒を見たのだろう。顔見知りという気持ちから、最初は付き合っても構わないと感じていた。そう邪険に扱うのも悪いと思って。しかし今ではずるずると、まるで友人と出歩くかのような心境が掠めることがある。或いは恋人か。家族か。
気付けば頻りに、彼女との年齢差を気にしていた。
7
「……その、実は…結婚をしようか考えている」
表でばったり会った怜奈ちゃんに、俺は恐る恐る打ち明けた。
「あちらが例のアルバイトの方ですか? 何だか、お似合いですね」
その笑顔はお世辞か本意か。どちらにせよ、嬉しいことに変わりはなかった。
「でも、だったら隠れていないで、堂々とすればいいじゃないですか? 恥ずかしいんですか? 私とお話するの」
「いや、まあ…恥ずかしいというか、不自然だと思うから」
待ち合わせの隅でこそこそと会話して。突っ立つ彼女を遠目に、レストランに逃げ込んで少女に向かって喋っている。会えたことは勿論嬉しいが、本心を言うと、落ち着く為の暇を稼ぎたいというのが一番を占めていた。だから、
「ほら、行ってらっしゃい。待ってますよ。あなたのこと」
なんて急かされると、気まずくて仕方なかった。そんな俺の気持ちなど、怜奈ちゃんはとっくに見透かしているようにも思えて。次第にその笑顔が意地悪く映るようになった。
「それで、ね。実はさ、足を洗おうかと思っている。このまま嘘をつくのも限界で。だからもう、会うのはこれで最期かなって…」
怜奈ちゃんは驚いた。自然な反応だ。その自然さが、大人びた普段の様子の中ではかえって安心できたし、また胸の奥に痛みが走った。そうしていつもの明るい顔が返ってきて、
「そうですね。いいことだと思います」
その裏には、きっと寂しさがあった。同じ気持ちを共有できる仲間が、また一人減っていく哀しみ。それでも俺は、決意している。怜奈ちゃんもまた、分かった上で背中を押そうとしてくれている。
「だったら、ほら。早く行ってあげないと」
「でも、君が」
また一つ、孤独へと近付けてしまった後ろめたさが、俺の喉奥に突っかかって。勝手ながら一人で悶えている。そんな自分を優しく包み込むように、この子は最初から接してくれていた。
「私のことはいいですよ。ほら、行かないと」
促されるように格好悪く店を出た自分。最期の顔を、もっとちゃんと見るべきだったなと後悔している。あの子はどんな顔をしていただろう。それからのことは、もう俺は知らない。
俺の方はと言うと、順調に進んで、今の生活へと至った。辞める時は一悶着あったが、結局は何事もなく収まった。彼女にも仕事が天下りしたと言って、何とか筋の通って見える話にまとまってみせた。嘘みたいに順調。家族もできて、前の仕事仲間も時々訪ねてきて、賑やかで華やかな毎日。これ以上ない幸せだと俺は思った。
だから六年前、もう七年前になるのか、あの時は戦慄が走った。連続殺人を物騒だとは感じたが、生死の感覚が鈍いこともあってか、上の空の出来事のように思えた。少なくとも、俺の範囲で起こることではないと感じていた。
「ガフの部屋が開かれた」
珍しくも直接家に転がり込んだ黒服に、俺は怒号を浴びせた。今になって頼りにすること、何より家族という日常を取り上げられるようで、俺は聞く耳を持たず追い返した。依頼を断ってからは、その後は人知れず収束していった。もはや皆、油断しきっていたと思う。
しかし不幸は忘れかけた頃にやって来て、俺から一人息子を奪っていった。悲しみに明け暮れる日々の中で、妻も心を病んでいって。今では想像できないくらい、あの頃はずっと追い詰められていて。そう言う俺も、久しく忘れていた孤独感の中、何もできなかったのだ。穿たれた穴を埋め合わせるように、無彩の街をただただ徘徊していた。
息子の葬儀は、土葬で行った。遺体が燃えてくれなかったら可哀想だと、一人心に秘めていた為だ。元々の西洋顔のせいか、大して怪しまれることもなく、また通っていた幼稚園がキリスト教関連だったこともあって、墓場の融通などと何かと都合が好かったのだ。
俺が気付いたのはいつからか。最初から違和感には気付いていた筈だ。多分維歩と数ヶ月過ごすうちにはもう、それは確信へと変わっていた。
だがそれでも、俺は家族を選んだ。あの時の後悔を、ずっと引きずっていたんだと思う。
小さくていい。俺はそういう人間だ。だからこの範囲だけは、必ず守らなくてはならない。
8
「…お嬢様。…お嬢様」
何度繰り返していたのか。ドアの向こうから聞こえる爺やの声に目覚め、時計を見れば午前十一時を過ぎていた。憂鬱とした気分で、このまま二度寝を決め込もうかと悩んだ。
「ご機嫌は如何ですか」
「…死にたい」
私の声に案の定黙り込んでくれる執事。少し寂しいけれど、これが爺やなりの気遣いだということは重々承知している。
着替えてリビングへと降りる最中、傷のない体には、思わず舌打ちしたいぐらいだった。私は私に過保護過ぎるのよ。自傷行為ぐらい、自由にさせてほしいのに。これはもう、今の私には呪いと代わらないものだから。小綺麗な体が、恨めしかった。
爺やと、それから最近来た男二人が釘付けになってテレビを眺めていた。見るまでもなく、音だけでもその内容が嫌と言うほど伝わってくるもので、そんな私に気付いた爺やが、慌てて電源を落とした。
「…ちょっと、出掛けてくる」
そのまま家を飛び出した私は、特に宛もなく道中を縫っていった。家が嫌いなわけじゃない。嫌いなのは自分の方で。どうしようもなく、私は私が嫌いで仕方なかった。
人を見る度、人とすれ違う度に、自分のしてしまったことが浮かび上がってきて。どうにか意識から外そうとしても、それに抗うように、戒めと言わんばかりに脳を隅まで占拠していく。ニュースなんか流れた日には、顔面にストレートを食らったようなもので。それでも傷は増えてくれなくて。綺麗な私のまま、醜くい私が、今ここに居る。
高校の同級生は、今頃何をしているか。ああそうか。今日は平日だっけか。なら週末には何するんだろう。もう予定はできているのか。
そんな友達の輪の中に、私なんかが居ていいのか。愛されていいのか。自虐ばかりに埋め尽くされて、頭がずきずきと痛む。食事も最近喉を通らなくて。いっそこのまま死ねたら楽なのにな。
死ねたらなぁ。それが口癖になってきて、息を吸う度そんなことを口走っている。友達からも家族からも鬱陶しく思われてる頃だろう。でもそんなこと私にはどうでもよかった。独りで生きたいと、最近強く思う。否、できることなら人知れず死にたい。消えてしまいたい。
ああ、私の人生は何だったの。私の存在なんて。これまで誰かを幸せにしてきただろうか。禍を振り撒いただけじゃなかったか。みんなみんな、私のせいで日常を奪われたのに。
阿弥陀のような路を行き交う。頭上にある天球は雲に陰り、どこもかしこも薄暗く湿気っぽい。ひんやりする風が私の頬をなぞると、漂う寂しが泣きたくなるほどに気持ち好かった。
ぶらぶら、ぶらぶらと歩む道は、私には勿体ないぐらいの賑わい。人の生気に何だかとても疲れてきて、でも家に帰る気も起きない。帰ってもどうせ部屋で塞ぎ込むくらいなら、外に居た方がまだマシかもしれない。
結局日暮れまで外に居て、じゃあ明日はどうしたらいいのかと途方に暮れた。毎日毎日が長く感じる。とても無意味に感じる。私には勿体ないのに、平等にやってきて。その割には理不尽に奪われる人が居て。私の為に誰か犠牲になるのなら、代わって私が犠牲になりたい。
にわかに雨が降りだして、いよいよ帰ろうかと考える。このまま雨に打たれてもいいけれど、長く居ると爺やがきっと心配する。私なんかの為に、心を苦にされても申し訳ない。これ以上誰かに迷惑かけても仕方のないことだし。
ふと踏みしめた道脇に、誰かの腕が転がっている。冗談みたいな話。これも私のせいなの?
それもこんな幼児の、私みたいに華奢な指。赤く濡れて、傷はまだ生々しく開いている。
私はその手を拾って抱き抱えた。この子の無念を背負おうと。感じたのは深い悲しみと、恐怖の叫び。気付けば体の占有権を渡していた。
その日、私は彼に会った。以来、私が生きているのはこの為だった。




