第10話
広がるのは、真っ赤な世界。海も、空も、土の色さえも染まって。そこに突っ立っている自分こそが異質だと思えてくる。
柔らかな温もりに包まれて、僕は何を願う。これから何をしようか。
とりあえず、お墓でも作ろうか。そう言って動き出す僕が居て。そんな僕を見て、彼はこう訊いてくる。
「どうしてそんなに、嬉しそうなんだい」
分かっている癖に。僕はそう返した。
1
降りしきる雨が浄化していく。人々の心を。穢れを。濡れていく路が俺を下から写して。俺はどんな顔をしていただろう。この瞳に垂れてくる潤いは、俺の胸の内をも洗い流してしまいそうで。
恵みの雨。或いは喜びの雨だろう。誰が何と言おうと、哀しみの雨であってはいけなかった。なぜか。それは、俺が認めたくなかったからだ。俺は何も間違っていない。守るものをはき違えてはいないと。
誰にとって、何が正義か。何が悪か。世界が反対しようとも、俺は自分の良心を貫く。今となっては、このプライドだけが、俺に残された唯一のアイデンティティとなっているから。これを捨てることだけは、今の俺には決心がつかなかった。
そんなことを心に秘めて、自分を正当化しようと努めた。雨音に鼓動を重ね、奥底で刺さっている棘に感じていないふりをして。気休めの安らぎに五感を向けた。
やがて遠くから聞こえるサイレンに邪魔をされ、目を開けば、広がる現実に鬱陶しさを覚える。灰色と赤で彩られた街が、泥臭い風に混じって嗚咽したくなるような死臭を運んでくる。
担架に乗せられた死肉が、すぐ側を通り過ぎていく。あまりにも凄惨な姿。バラバラになった四肢に撒き散らされた臓物の穴が開き、獣にでも食われたような喪失があった。そんな亡骸を横目で見届けて、それから奴らの車体が現れたのを呆然と眺めていた。
あれは俺が切り捨てた命。救いの手を差し伸べられなかった命だった。平等なんてものはない。正義なんてものはない。こうやって今消えていったように、不条理な世の中に終わりなんてものは訪れない。誰しもが死に絶えない限りは、こうやって報われない者が現れて、不幸を肩代わりしていく。
選ばれなかった人間だ。ただ、救えた筈なのに救われなかった。勿論、俺が差別したせいで。何が不満か。自然の摂理だろう。皆を救えないなら、自ずから選び出す他ないだろうに。
「…」
消耗した子どもを抱えて、黒塗りのバンに乗り込む。操縦はグラサン男が握っていて、目の奥にあの色が映っているかは定かではなかった。助手席に居るアラルテクトはと言うと、後ろを振り返っては自分の息子のことを具に訊いてきた。見えているものなど、人それぞれ違うものばかりだったのだ。
ああ、俺が腕を振り下ろす時、躊躇ったのはなぜだろう。維歩か、面識のない女性。後者は手遅れの筈だったのに、切り捨てるのを躊躇した。誰かに委ねるなんて、そんな意味のないことをしてしまった。
俺なりの抵抗だったのか。自らの意思で犠牲を生んでしまうことへの。それとも、あれを野放しにしてはいけないと頭を掠めてしまったのか。…どちらにせよ、責任から逃げたかったんだと思う。何も背負う気なんてなかったのに。
「テクト」
無人となった帰路の屋敷で、俺は呼び止めた。ポツポツと依然垂れる中、相手方は面倒そうな顔を浮かべていた。
「あの女は何だったんだ」
そう訊いた。答えが欲しかったからだ。自分が何を弾いたのか。俺は誉められることをしたのか。そうでなきゃ、この棘はずっと刺さったままになる。肯定できる何かが欲しかった。
「彼女は、連続殺人鬼だよ。今回の、…そして七年前の」
どこか哀しげな顔を作って話す。嘘を含んだ、しかし本音も滲み出る声だった。
そう。…殺人犯か。なら、あの常軌の逸した言動にも折り合いがつく。危険因子だというのなら、自分の行為に正当性を持たせられるかもしれない。たとえその言葉が嘘だろうと何だろうと、優先順位に違いはない。救われなかったことに、見捨てられたことに負い目を感じる必要はない筈なのに…。
「…」
それに。それに、だ。思い返してみれば、狙われていたのは初めから向こうの側だった。現に三台目からはあっちに目掛けて追突していったし、俺は二次災害を防ぐという名目で維歩を助けたことになる。そういうことにしよう。周りからも、きっとそういう風に見られていた筈さ。
「…クソ」
そんな思索では腑に落ちてくれなくて。考えること全てが俺を皮肉るように、一層意地悪く自身を写していく。後悔しているのか。やっとしがらみから解放されて、楽になれたというのに。誰も俺を責められやしないだろうに。
目に滲む雫を振り払って、前方に広がる世界へと自分を落とす。
「なぁ、テクト。分かってたんだろ」
隣に佇んでいた男を睨む。雨を気にするような、まるで俺の悩みなど意に介さないような、そんな態度が気に障って、軽蔑したい気持ちが湧き上がってきた。
「…俺を嵌めたのか。なあ、答えろよ」
子ども一人守る為に、他は何でも見殺しにするっていうのか。その子供とやらの為に、関係無い人間を巻き込んでいって。何て歪んだ愛情だ。
そうか、そうだったな。お前はそういう人間だった。仲間の死も、無念も、何一つ介さない奴だった。人の命など安いもので、あいつらのことなんて、きっと何とも思ってなかったんだ。
「言った筈だ」
子どもを宥めるような口調で、俺に向かって言い訳を並べる。鬱陶しい声だ。重低音で、優位性を主張するような、そんなうざったい声。
「俺が守るのは家族だ。どんな形であれ、優先順位を違えることはない。俺の言葉に嘘はない」
真顔でそう話す。ムカつくぜ。何一つ、過去のことも、息子のことも話さなかったのに。さっきだって、平然と嘘を織り交ぜてたっていうのに。いけしゃあしゃあと手前の勝手ばかり押し付けて、清々しい顔で偽善を並べやがる。
「あんた、世界と家族、どっちを守る」
「家族だ。言うまでもないことだが」
擦り出す左腕にも見飽きた。もうあざとくしか映らなくて、見る度に不快になる。
「聞き方が悪かったよ。あんた、その実の子と維歩。どっちを殺せる」
奴は作り笑いを浮かべ、こう即答した。
「家族を守れるなら、それでいいさ」
そう聞いて、俺はやっと切り上げた。互いの価値観が決して重ならないと認められたから。そして俺は、友人でも何でもなく、有象無象の犠牲に埋もれる一人というわけだ。どうしてそこまで執着するのかは知らない。あんなもの、在るべきではないだろうに。
俺は知らない。こんなくそったれな世界など知ったことではない。誰が何を大事にしようと、どうでもいい話だ。それでもこんなむしゃくしゃしているのは、俺が助けるべき方を間違えたと、そう納得を感じられないだけで。
殺人鬼。本当のところはどうだろう。たとえその通りだったとして、背景には何がある? 七年前へとどう関わってくる?
淡々と降る雨は、果たして本当に喜びなのか。この夢魔をひた隠し、束の間の安らぎを我々に魅せているだけではないか。
2
後日、見舞いにやって来た俺の顔を、テクトは満足そうに迎えた。上出来だと言わんばかりの笑顔で。そこには以前までの陰湿さなど見あたらなかった。
そんな彼には何も言わず、俺は寝台に横になった少年を見やった。手術をしたばかりの腕。念のため検査もしたんだっけか。少し窶れて、でもまだまだ大丈夫そうだ。ここ数日は眠ってばかりいたというのに、今日はどうやら起きていたらしい。
「調子はどうだ?」
「うん。変わらずだよ」
明るい声とは裏腹に、虚ろになった目は視線の先に新しく意味を見出だそうとしては放心する。最近、起きている時は大体こうしているのだとか。病院の退屈さもあるだろうが、事故のショックを未だ引きずっているらしい。当然のことだ。
あの人が、維歩にとってどういった存在だったのか。俺は知らない。そんな個人の関係まで興味のあることでもなかった。だから人違いのこの腕を、俺はどう処理したらいいものかと悩んでいた。
「なあ、事故現場から腕を拾ったんだ。でもどうやらお前のものじゃなかったらしい」
その時ふと首が回って、あの目が俺に向けられる。死んだ魚のような、真ん丸の黒色の瞳。深淵のような闇が、俺を呑み込むかのように迫る。
「それでさ、こうゆうのってどうしたらいいんだろうか。どっかに埋めるとか。警察に送るとか。やっぱり遺族を探すべきなのか」
ああ、面倒臭いことになってしまった。腕を拾ったばかりに。いや、腕を切ったばかりに。正直付き合いたくはなかったんだ。あの時はきっと魔が差していたんだと思う。
そんな考えごとをしている間に、いつからかぶつぶつと何か鳴っていた。何だろうと耳で探ったら、どうやらこいつの口から漏れ出ているらしい。何を言ってるのかは聞き取れない。念仏のような、漠然とした音で。次第にその中からいくつかの言葉が聞き取れるように慣れていって、
「…移植は」
「はぁ?」
意味が分からなかった。イショクと聞こえた気がしたが。移植と言ったのか? 正気か? 本当に頭おかしいんじゃないか。
「…お前なぁ。移植なんかしても、拒絶反応が起こるだけなんだぜ。アニメや漫画の見すぎだよ。人の腕なんざ付かねぇよ」
却下だ。たまにヤベーこと言うから、これだから子どもは怖いんだ。俺たちの常識なんざ微塵も通用しなくて。純粋さからゾッとするようなことを仕出かしやがる。
「じゃあ義手は?」
口が閉じたと思ったら次はこう言う。死体を義手にしようというのか。尚更ヤバいだろうに。俺はもう、こいつの異常さには本当に頭が痛くて。最近は現実から逃げたいと思うことが度々ある。
「そんなの作る奴が居たらな。腕差し出して、気味悪がらない方がおかしいが」
そんな言葉で何とか話を収めた。まったく、人前で死体を出すわけがないだろうに。どういう状況を、この少年は想定しているのか。少し現実を見てほしい。
…だが、問題なのは、これをいつまで持ち歩かないといけないかということだ。俺も、こいつに気付かれないよう、さっさと処分しなくてはいけない。どうしてこう、追い詰められてしまったのか。
「じゃあ約束だよ。もし作ってくれる人が居たら」
「ああ。勝手にしろ」
俺は投げやりな回答をして、その場を去った。
そして、この日がやってきた。ドキドキワクワクの当選ナンバーを掲げて、宝くじの換金へと向かう。半年前からの密かな楽しみとなっていったが、いざ直面するとたじろいでしまって。見たこともないような大金を手にすることに怯えていた。ハラハラと動悸がしてしまう。
換金場の周りでは頻りに人目を気にした。ズルをして勝ち取ったような後ろめたさを感じていたのかもしれない。堂々とすればいいものを。だが、そのお陰で、俺を監視する目にも気付けた。
衝撃だったのは、そいつが黒服ではなくて、一般の人間のようだったこと。一般と言っても、ちょっとヤバそうな人物に見えた。アーティストを気取っているのだろうが、何と言うか、顔から狂気の色が窺えた。また変なのに目を着けられた。もう嫌だと、投げ出したい気分だった。
近寄らないでくれと、ガンを飛ばしながら祈っていたのに。そういう期待は、いつも肝心な時には叶わなくって、奴はずけずけと寄ってくる。
「あんた、俺と同類だろ?」
蹴り飛ばしたい奴だと思った。頭の中で、何かへし折れるような感覚に襲われた。
「へへ。別に隠さなくていいじゃないか。あんただって、未来が見えるんだろ。そうでなくちゃ、こんな大金受け取りに来ないもんな」
こいつはいつも張り込んでいるのだろうか。俺としては、また日を改めたっていいんだが。全然構わないのだが、向こうにはまるで未来が見えているような口ぶりで。そんなのアリかよ。嫌だぜ。
「ああ逃げないでくれよ。これからの付き合いも長いんだし、お互いウィンウィンの関係でいこう」
「…あのなぁ、俺はたまたまくじを当てただけだし、もうここに来る予定もないんだよ。だからおっさん、付きまとわないでくれ」
ホームレスに近い見た目のおっさんは、訝しげな表情を見せる。あれ? おかしいな? そんな声が聞こえてきそうな。知ったことか。
「でもあんた、義手が欲しいんだろ? その袋に腕だって持ち歩いて、俺のところに来たんじゃないのか?」
瞬間、胸の動悸が荒ぶり、ゾワゾワと鳥肌が立つ。思うように息を吸えないことが、これ程までに苦しいなんて。無防備な自分に、そして運命とやらの悪戯に驚きを禁じ得ない。
「何でそんなこと分かるんだよ」
そうに言う俺の顔を見て、やっと俺が未来予知じゃないことを察したらしい。ああ悪かったよと前置いてから、
「俺は芸術家なんだ。人体の神秘、そこに宇宙を感じている。ついでにさ、特殊な力も有って、凄いことに、これからのことがちょっと当てられるのさ」
芸術家を名乗る男は、独りでに高揚していく。
「これから俺は大忙しさ。立て続けに依頼が舞い込んできて、創作が第一の俺には願ったり叶ったりだ。その初めのお客さんが、あんたというわけ」
嘘だろ、と突き放したい気分だった。誰だってそうさ。死人を玩ぶなんて嫌でしかない。それを楽しむ奴なんざ、果たして人と認められるのか。
それでも俺は、男が歩くのに付き従った。言い広められる懸念もあって。騒がれるのも厄介で。糞ったれ。吐き気に似た胸糞悪さが蔓延していく。それを何とか押し留めて。
「ここが俺の工房。今後はここで会うようにしよう。何たって一番のお得意様だからな。ささ、材料を見せてくれよ」
入り組んだ路地を進んだだけあって、人目には確かにつきにくかった。躊躇はするが仕方ない。俺は嫌そうな顔つきで、ぐるぐる巻きに包まれたそれを取り出し、ほどいていった。
「ほえー。これはこれは。傑作だ。事前のイメージより遥かに越えて。まるで生きているような、神々しさまである」
よくもそんな直視できるものだよ。この人外狂乱野郎が。ブタ箱に送られた方が世の為だってんだ。
「こちらは子どもの腕かな。きっとどこか、特別なものを持っていたのでしょう」
なんて見当違いなことを言い出して、浅はかな知識を見せびらかしてくる。そんなの、聞きたくもないっていうのに。
「女性のだよ。多分成人になってるもの。そこは定かじゃないがね」
そう言って、浮かんでくるのはあの感覚。血溜まりに触れた時に襲った、穢れたような感覚だ。思い出しただけでゾッとする。
「そうでしたか。これはよいものができそうだ。私の手に余るほどの逸品が。ああ、三週間もすれば出来上がる筈です。とりあえずツケときますんで、また入らして下さいね」
敬語を使い出すのもイラッと来て、憎む反面ではへこたれたかった。一体どこから道を踏み外したのか。いっそやり直すべきではないか。
皆狂ってる。何かに取り憑かれているように。まともなのは俺だけか。
この糞ったれな社会に振り回される自分を見つめながら、しかし自分の本当にやりたいことが、未だ空っぽなままなのを恥じた。
3
腕が痛い。失くなった左手が、染み入るように痛い。もうない筈なのに、そこにあるようにずきずきして。
もうすぐ退院だと言う。よかったねとも。まるで僕の幸せが返ってくるように。ここに居るから、僕は幸せじゃないみたいに言う。それは違う。それは違うよ。もうどこへ行ったって同じじゃないか。どこへ行ったって、もう怜奈さんには会えないんだから。
悲しい。悲しい。そんな気持ちで一杯だ。何を見ても、何を聞いても、感じるのはたったこれだけ。以前の僕には、他にも何かあったっけか。悲しむ以外の気持ちが。例えば笑ったりとか。
「…ハハッ」
無理に笑ってみても虚しいだけだった。僕の心はそこに乗らなくて。ただ心と体が離れていくような、そんな冷たい感覚しかなかった。
こんなことを、怜奈さんはずっと続けていたのだろうか。独りで笑って。一体何の為。…そんなの、僕の為じゃないか。何を今更気付いた気になっているんだか。僕なんかより、きっと孤独だった筈なのに。
この悲しみは、自分への苛立ちかもしれない。助けられなかったことへの。頼りきりだったことへの。だってほら、掴んだ筈の手は、失くなっていて。僕は何もできなかったんだと、こんなにも親切に証明してくれている。
そのままの気持ちで、僕は退院した。一週間ほどしか経っていない筈なのに、僕の日常はずいぶんと遠くに行ってしまったように感じた。久しぶりの我が家は他所のよう。僕の歓迎会を開くと言ってきたが、祝われる筋合いはなかった。
梅雨は開けたのか。今日もまた、鉛のように重い雲が広がって。水を含んだ空気が、僕を取り巻いては冷やかす。出かける気にはなれなかった。
学校は、あまり行ってない。事故のこともあって、周りからも五月蝿く言われるようなことはなかった。どうやら大人たちには、余程ショックを受けているように映るみたいだ。でも僕の傷は、体のものじゃない。彼女を亡くしたことが、とても辛くて立ち直れないんだ。
僕は家に引きこもった。一日中動かないこともある。きっと今学期は、ずっとこの調子だろう。大目に見てくれる筈だ。みんな、僕のことなんて理解してないんだから。僕も理解されようなんて思わない。理解されたくなんてないんだ。
僕の気持ちが分かられてたまるか。自分すらぐちゃぐちゃでまとまらないのに。
同情なんて要らない。そんなことされたって、僕の幸せは返ってこない。むしろ冷たくしてほしい。僕をもっと責めてほしい。
慰められるのが一番嫌だ。肯定されるのが。そんな優しさの嘘を並べられるのが、かえって辛くなる。みんなみんな、僕を宥めて、善いことをした気になっている。だってそうでしょう? 亡くなったのは僕の方じゃないんだから。辛いのは彼女の方なのに。
死にたい。できることなら、代わって死にたい。僕なんかが生きていたって、何の価値があるのか。僕なんかが、彼女の分まで背負って生きられるか。そんな立派なものに、僕はなれないだろう。
久しぶりに外に出た。気分転換になるのかという期待から。日中の眩しさは目に堪えるから、日が沈んでから出掛けた。
この寂しさが好い。静けさの中で、過保護な世界から逃げ出せる。僕を覆う殻を脱ぎ去って、本当の自分を見つめ直せる気がする。
外に出れば、僕はただの一人の子ども。特別扱いも、みんなの関心もない。ここなら自分の立ち位置が分かる筈だ。こっちが本当の社会で、僕が中心の世の中じゃないんだから。
背格好の長い夜の世界。僕なんか、簡単に埋もれていく。それが嬉しい。反面、寂しい。誰も怜奈さんのことなんて気にかけていないんだと。彼女の死が誰の目にも留まらず、見る見るうちに埋もれていくのを感じる。
何もかもが、僕たちを置いていく。それでも全く支障が出ないのが、堪らなく悲しい。ちっぽけなんだ。僕らなんて。見えないほどに。
大人たちの歩みに、僕は付いていけない。ここに居たい。ずっと。だって、忘れたくないから。いつまでも、この痛みを消してしまいたくない。
ふんわりと、視界に靄が映って。泣いているのか。そう思って拭ってみても、消えなかった。存在しているのは外の空間の方みたいで。
幻覚だ。遂に現れるようになったんだ。僕も疲れているらしい。少し座って、落ち着こう。
いつもの公園のベンチに座って、うずくまる。顔を腕で覆い、外の情報を遮って。僕の中にある闇が、頻りに映り込んでは耳打ちする。いっそ呑まれた方が楽に違いない。でもそれは逃げだ。怜奈さんへの冒涜だ。僕だけは遺さなきゃいけない。彼女のことを。彼女が確かに側に居て、生きていた事実を。
頭がズキズキする。靄も未だ消えてはくれない。いろんな所に漂っては、その癖何も起こらなくて。ずっと僕に付きまとうみたいに、うざったく残り続ける。
雫が垂れてくる。大粒の雫が。やがて筋になって、そこを伝っては零れていく。この両手からも零れていって、夏にしては妙にひんやりする。
この悔しさをバネに、頑張れと言うだろうか。もう僕は、何も考えられないよ。ポッカリと開いた胸の穴は、心までも奪っていって。
何もない。もう何も、残っていない。初めからあったわけじゃないのに、いつしかあるのが当然と思っていた。
「…ハハッ」
ほら、僕は独りだ。何も変わってないじゃないか。だから何も、失っていない。何も、失ってはいない。
「維歩君、幸せを噛み締めなさい」
あの時の顔が、今もまだ焼き付いている。彼女の声が、ずっと木霊している。
4
数週間して、義手が届いた。調整が必要だからと言って、芸術家という人も訪ねてきた。余程熱心に作り込んだらしい。製作者の熱意とか情熱というものを浴びせるように語っていった。
それを見てまず感じたのは、格好いいという単純な思いだった。まるで金属製のような、黒色の滑らかな表面に光沢が映る様が好きになった。彼女の腕から作られただなんて、そんなこと見ても分からない程で。博物館に展示されていてもおかしくないなと、緻密な造形に魅入られていた。
まるで鎧のようだと、誰かが言った。関節ごとにパーツが別れるから、どうしてもそう見えるのだろう。それに義手なのか、上から通しているのかは、きっと他人には判断つかない。やっぱり、一回り大きかったのかもしれない。
調整は直ぐに終わった。手首の形を揃えるぐらいだった。熱弁が響き渡る中、僕はこれで一緒に居られると、密かに嬉しく思っていた。
重くもなく、軽くもなく、思っていたより自分の腕らしく感じた。勿論硬くて耐久性に優れているけれど、掌には僅かに弾力も感じた。ここに彼女が居る。そう感じられて、一層嬉しかった。
みんなが帰った後も、僕は暫く着けたままでいた。彼女の死を、まだ受け入れられていないんだと思う。
ここにはまだ宿っている。まだここで生きている。滅多刺しに遭っても死ななかった彼女が、亡くなったなんて信じきれないから。そう思うことにしている。
でもそんなことを言うと、ベイスさんが決まって訝しげな顔をする。彼女は死んだよ、と断言して。目が覚めてからはずっとそう。運ばれるのを間近で見ているからそんなことが言えるんだ。でも僕は確認していない。だから信じる分には僕の自由だ。
翌日、瀧澤さんが家を訪れて話したという。連続殺人がピタリと止んだ。そして、怜奈さんの死亡を確かに認知したと。彼女がもう居ないと聞いたのは何度目かのことで、それでも噂を聞くような心地しかしなかった。確かに亡くなっているのだろう。でも、僕にはやっぱり、実感が湧いてこなかった。
満足していた僕だけど、一週間もしないうちに義手が痛みだした。着けている間ズキズキと左手が疼き、おまけに酷い頭痛が襲うようになって。拒絶反応じゃないかとベイスさんは訊いてくる。この腕はまだ死んでいないんじゃないかとか。細胞が修復しつつあって、向こうの神経とぶつかっているんじゃないかとか。そんなことを言っている。
生きているのなら、僕にとっては嬉しいことだ。これで背負えるようになったんだから。無力な僕にも、出来ることがあるなら。
ただ、痛むのは実は彼女の意思なんじゃないかと思うことがある。僕を責めているんじゃないかと。怨んでいるんじゃないかと。いつか、僕の首を絞めにくるんじゃないかとも想像した。あの夢も、最近はよく見るようになった。
目の前で、人が死んでいく。崩れ落ちるように。僕はその手を握っていて。
予知夢だったのかもしれない。怜奈さんをいつか失うと。失った今だから、強く現れるようになったんだろう。少なくとも、僕はあの時のことを未だに引きずっていて。彼女が亡くなるのを夢に見る。
夢で会える。そういう見方もできるかもしれない。でも会えるのは、決まって死ぬ瞬間だけだ。僕は何度も彼女を見送った。何度も、何度も繰り返し見送った。翌日には蘇った彼女がまた死んでいく。
明日また会えるような気持ちが浮かんでは、それは幻だよと突き付けられる。僕がまだ認められないのは、そんな夢の世界に浸かっているからかもしれない。でも、この外には僕の居場所はなかった。僕はこのループの中に生きていて、それでよかった。
外の世界は、依然変わりがない。そりゃそうさ。僕らの影響力なんてたかが知れていて。普段通りの日常が僕らを覆い隠してしまう。
街中を歩けば、また靄が襲う。何かを隠しているような、そんな気がする。僕も無理に暴こうとは思わない。でも向こうからは消えてくれなくて、構ってほしいと言うように、どこへ行っても映り込んできた。
分かるようになったのはいつからだろう。段々とクリアに見えるようになって、その正体こそが幽霊だと気付いた。怜奈さんが、いつも見ていた風景だと。
僕は知りたくもないことを知ってしまった。怜奈さんの心を、何一つ共有していなかったことを。何一つとして、分かってあげられていなかったことを。ただ隣に立っていた。それで分かったつもりになっていたんだと。深い絶望が、また僕を拐っていく…。
それから、彼女の死を少しずつ受け入れるようになった。代わりに、僕の中で彼がまた顔を覗かせ始めた。
今も僕は、半年前のままだ。或いは、もっと前から変わっていない。




