第8話
1
連れてこられたのは、病院の一室だった。一昔前のレトロな造り。カーテンの隙間からは、夜の街が見える。光の灯さない暗い中で、かつての面影を残した友人が、扉を背に、椅子に腰掛けていた。
その背中は哀愁を物語る。丸まった背中。大きい図体が、縮こまって見える。死に憑かれたような静けさを漂わせ、時の止まったかのように、ただそれを見守っている。
「お前は…アラルテクトか」
その影に声をかける。形は動かない。音も出ない。開けた唇に部屋の空気が触れ、やけに冷えて感じられた。
一歩、また一歩と、距離を詰める。肩を掴めそうな距離。顔は見えない。暗がりで髪が黒と分かって、昔の姿のままではないと気付かされた。この隔たりで、俺は顔を合わせられるか。相手を知る勇気が、今の俺にあるだろうか。
こいつの見る先を、俺も視線に据える。白いベッド。シーツと布団に挟まれて、その躯は横に伸びている。
まるで棺を開けたかのよう。枯れたように痩せ細り、しかしどことなく満足そうな表情がある。それだけが不幸中の幸いだろうか。
もう息を引き取った少年は、安らかに天国へと旅立ったろうか。死後の世界があるとすれば、それは伝承の通りなのか。先人たちの残した絵空事を、真に受けるなんて滑稽な話だ。それでも、時々こういう者が現れて、すがりたくもなるのだろう。本当のことが見えなくなって、自分じゃどうにもできなくなって…。
惨め。ああ、あんまりにも惨めだ。俺と違って、こんなにも大きくなったのに。こんなにも老けて、幸せな日常があっただろうに。
…こんな奴に、俺は勝てなかったのか。こんな奴を追い越せなかったのか。俺の願いは、こんな奴のせいで届かなかったのか。惨めな姿に苛立ちが募って…。
十年ぶりの再会だというのに、感動を覚えない。呼び出された時の、あの声のせいか。それとも今目の前に広がる、辛気臭い光景がそうさせるのか。もう俺たちは、昔のようにはいかないのかな。違う道を通って、違う人生を背負って、俺の隣にはもう、お前は居ないのかもしれない。
「…アイル」
皺だらけの顔。こっちを覗いて、目が語る。どうだ。哀れだろ。弱々しい俺を見て、嘲るがいいと。そんな自虐は、気持ち悪くて見ていられない。他所でやれと言いたいが、形振り構わない心境があるのだろう。その空気に、いくら俺でも同調せざるをえない。
「久しぶりだな。…二十年ぶりか。ああ、本当に久しぶりだ」
「…そうだな」
ボケているのか。本気で言っているのか。判断がつかなかった。穏やかな声の奥で、精神状態が波打っているように感じた。
本題は、中々切り出してこなかった。俺が本当に現れて、衝撃が強かったのだろう。向こうの側には積もる話もあるようだ。暗い話ばかり。俺の言った通りになって、見返せたとでも言いたいか。こんな姿を見て何を得る。もはや争う気など、とても起こりそうにないのに。
「変わらないな、お前は」
ボソッと言い放つ声。視線は左下を向いている。何だそれは。俺を見ろよ。見据えろよ。逃げるな。不幸に浸かって、いい気になってるんじゃねぇ。
「俺ばっかり歳をとっちまって…。ああ、嫌だよ。老いるのは。何もかも離れていって、遺される気分は」
「テクト…」
そこで気付く。半身に隠れた向こう側。右手が動く先を。
お前、腕はどうしたんだ。左腕。肩の下あたりから失くなって、そんな片腕でこれまでを過ごしてきたのか。
「お前、どうして治さないんだ。その腕。哀悼のつもりか?」
ああこれか、と。然り気ないふりをして、狙い澄ましていたかのように。悲劇の主人公を演じたいのか。俺に何を期待する。
「そうだな。惜別のつもりなのかもしれない」
なのかもしれないって、お前のことじゃないか。どうしてそう不確かなもののように返すんだ。苛つく。
「色々あったんだ。…色々と。この二十年を背負ってきて、俺には少し重たすぎた。だから今が、丁度良いのかもしれない」
男は過去を語りだす。この調子だと長話になりそうだ。椅子を一つ貰ってきて、それからまた来ようか。
俺は後ろを向いて、軽快に足を進める。だがドアに手を掛け横に引こうとした時、そいつはまた俺に語りかける。行くな。独りにしないでくれと。いい歳した親父が、女々しくも俺にすがろうとしている。もう俺にはお前しかいないと。お前にとって俺は何なんだ? かつての仲間か? 兄弟か? 袂を別ったのに。俺たちの関係は、どれほどのものなんだ。
お前の言う二十年はそんなものか。大事な人など、一人としていないのか。悲しい奴だ。無価値な奴だ。お前は何も背負っちゃいねぇ。背負った気になって、感傷に甘んじているだけだ。成長しないガキが。ただ受け入れたくなくて、逃げ続けて、どこまで行くつもりなんだ。
「椅子を貰ってくるだけだ。すぐ戻る。…それまで話をまとめておけよ」
ドアを引き、廊下へと出る。辛気臭い空気とおさらばして、このままどこかに消えてしまいたい気持ちもあった。だが、しかし俺には、行く宛などなかった。それどころか、実のところ、今の自分には生きる活気さえも見当たらない。
まったく、人間失格だ。こんなにもしがみついて生きている者たちがいる中で、ただのうのうと、何となくここに居るなんて。彼女なら何と叱っただろうか。あの子なら、俺を羨ましがっただろうに。
俺は罪人だ。ただ生きるだけで、裏側の人を不幸にする。空気を吸うことさえ、死に逝く者の前では、幸福と感じられるように。それは仕方のないことだ。この世から差別がなくなったら、人は仲良く手を結んで、飛び降りるしかないんだから。
…ならせめて、誰かの手助けぐらいすべきか。俺が善いと思うことを、大事にとっておくべきか、と。
再び部屋を開ける。折り畳み式のパイプ椅子を抱えて、スライドして見えた先。しかし、先ほどと殆ど変わらない風景だった。何かを期待した自分がいたかもしれない。だが何か起こるわけでもない。そう、自分に言い聞かせた。言い聞かせて、何食わぬ顔のふりをして、ずけずけと歩み寄って椅子を広げて。
接合部からギシギシと悲鳴が聞こえる。懐かしい学生の感覚が甦ってくるようだった。この快くない微妙な座り心地もあいまって、人間らしさを思い返す。
「それで? 腕が何だっけか?」
辛気臭い顔に向かい合うに、わざとくつろいだ態度で応える。ご機嫌をとってやろう。俺なりの譲歩だ。話したくてうずうずしているんだろ? 視線で主張して、注意を向けたがってたもんな。
相手はすぐに話し出す。
「俺には、息子が二人いた。一人は目の前に。そしてもう一人は、今から七年ほど前にこの世を去った」
体が固まったか。それとも心が緩んできたのか。伸びをして姿勢を換える。どうして俺が、お前のペースに合わせなきゃならないのか。そういう気持ちが段々と込み上げて、苛立ちが止まらなくなる。ここに来る前のあれを引きずっていることもあるのか。それでも、今目の前に在る不幸者が、特別だと言いたげな表情が、気に障って仕方なくなっていた。
お前はいつからクリスチャンになったんだよ。世の中が希望でできてると思ってやがるのか。人生を謳歌できるのが、神に与えられた幸せだと。それが普通で、正常で、己が不可侵の権利だと。なら、目を背けるなよ。この世の普遍の理から。死から。無常から。メメントモリから。
…メメントモリ。そう心の中で謳って、自分が思うよりも、過去に囚われているのかと自問してみる。未だ決着を求めているのか。争う気が起きないと言っておきながら、それでも許せなくて、勝ち取りたいと思う気持ちがあるのか。誰の為でもなく、自分の正しさを認めさせる為に。自分の良心を言い訳にして、こいつが幸福になるのを許せず、それでいて不幸なのを認められない。不幸がっているのは俺の方なのか。浅ましいのは、自分も一緒か。
嫌だな。腹立たしい。人間臭さってのは不快で仕方ないものだな。これもあの記憶のせいか。こっちで育った記憶が、俺を歪ませようとしている。自分を見失わせようとしている。そういうことにしておきたかった。自分だと認めたくなかった。
「アイル。息子が死んだ時、こんな俺でも人間なんだなって感じたよ。こんなにも辛いなんて思わなかった。立ち直れないかと思った」
独り語りが聞こえてくる。子ども、ね。家族を持つ気持ちは、俺には分からない。だから勿論、喪う気持ちも分からないよ。他人事だ。
「その七年前に、何があった」
譲歩する。ここを越えなければ、いつまでも本題に入ってくれないだろう。だから、餌に食いついてやるよ。独りよがりの駄々は、馬鹿がすることだ。何が有益かを考えて選ばなければ。でなければ、いつまでも、自分が損するだけだ。
そう、軽く聞き流すようなことだろうと高を括っていた。しかし、発した言葉はこいつからは似ても似つかないものだった。
「ガフの部屋が、開かれたんだ」
その瞬間、魂が揺さぶられるような感覚がした。寝耳に水という奴か。突拍子もなく現れた単語。本当に、何を言い出したのか分からなくて、言葉を受け入れた時、心臓の動悸が迫っているのに気付いた。なぜそんなものを持ち出してくるのか。意図を掴みかねて、押し黙るしかなかった。
「知ってるか? 死んだ者の魂が集まって、次の肉体に宿るまで保管されるという場所だそうだ」
それは、旧約聖書の話だったか。中東の。土着の民族宗教が何だって持ち上がるのか。あれは、作り話だ。それに、あれはただでさえ矛盾が多いじゃないか。
「…神話の話ってくらいは。何だ? 詳しいのか」
「俺も人伝に聞いただけだが…」
自慢話というわけでもないらしい。一体何が目的なのか。現実の皮を被って、この世界も摩訶不思議な冒険譚が待っているとでもいうのか。死者を甦らせる薬を取ってこいなどと。冥界に行ってこいだのと。そんなの御免だぜ。今更夢などで騙れると思っているのか。
「アイル。本当に…開いたらしい」
「…」
受け入れられなかった。
なぜ、それなのか。なぜ、ガフの部屋が、話に出てくるのか。俺は家族が亡くなったという話を聞いてやってる筈だ。なのに、急に神話を持ち出してくるのか。信仰のあまり、頭が傾倒してしまったとしか…。
「それがどうして、お前個人の話と関わってくるんだ」
堪らず訊いてしまった。そう言うと、アラルテクトは口を噤んだ。まったくもって、わけが分からない。話したいのか。黙っていたいのか。それとも寂しいからと、つい構ってほしいのか。大人になれない子どもという奴か。
…だが。だが、その名を出してきたことには、やはり違和感を隠しきれない。部屋が開いたらしい。そんなこと、どう確かめる? 何か起きたのか? 魂なんてもの、本当にあるか怪しいのに。解らないから神話のままだというのに。
「俺の息子は、事故で死んだことになっている。交通事故だ。跳ねられただけであの世行きなんてな」
失くした腕を擦り、皮肉げに紡ぐ。そんな筈ないだろう。だって俺の息子なのになと。
「夕暮れのことだった。俺が駆けつけた時にはもう暗くて、それでも隈なく探したんだ。何日も、何日も探した」
「…何を?」
「でも見つからなかった。左手だけ、遺体が揃わなかったんだよ。片腕がすっぽり抜け落ちたようで、そのせいで動かないのかなんて考えることもあった。気味が悪かった。まるで魂だけが抜き取られたみたいで」
「テクト、考えすぎだろ。災難だったが、それでも死亡事故なんてのは毎年ごまんと起きてるんだ。当事者になると運命みたいなものに理由を付けたくなるものだ。それに、その子はお前じゃないんだ。死と縁のないわけでもないだろう」
腕を擦る。まだ気になることがあるのか。話してはくれないだろうが。
「結局俺は、何も守れなかった。だからこの腕を置いてしまいたかった。…みんなを守るためと人を殺してきた。俺の守ろうとしたものは、俺が見捨て殺してきた人のおかげで成り立っていた。犠牲は仕方ない。そんな綺麗事はもう勘弁だ。俺がやってきたのは…」
「テクト、もう…いい」
「俺がやってきたのは…ただの間引きだ」
…駄目だ。もう、限界かもしれない。嫌悪感だけじゃない。俺の心には、何もかも薄っぺらく感じる。
友人の言葉も。人の死も。他人事で一般的。胸を打つものがない。心に残っているのは、かつての思い出と情けだけ。きっと俺がおかしいんだ。でなきゃ俺は神様さ。人を公平に見下すなんて真似は。
「俺は選んで人を救ってきた。きっとこれからもそうさ。人の限界って奴だ。…だから、自分の家族だけは、守り通したかった」
「アラルテクト」
俺の制止に耳を傾けず、テンションが独りでに突っ走っていく。こいつは、いつも変わらない。
「それが俺のアイデンティティだ。個性だったはずだ。なあ、アイル」
椅子から膝を崩し、俺に詰め寄る。感情が決壊した。呂律も回らなくなって。胸ぐらを掴む手が力み、服が張られる。見苦しいことこの上ない姿。
「助けてくれよ。聞いたんだ。あいつから。お前は時間を往き来できるって。過去にも行けるんだろ。なあ、お願いだ」
次から次へと、待ったなしの言葉を浴びる。急に俺の話に切り替わって、その上この熱量に付いていけない。オンオフの激しい奴。情緒が不安定という言い方もできる。
「落ち着けよ、アラルテクト。何を期待してるんだ。誰からその話を聞いた」
急く目玉に冷ややかな視線を返してやる。この温度差が心の距離なのだと、言ってやりたかった。しかしその口はつぐまれてしまった。
「僕だよ」
静寂を裂いて、唐突に、予期せぬ方から声を掛けられる。正面を向いていた意識が、二次元的に、横軸にも広げられる。声のする方を見れば、あいつと同じ、仮面をつけた少年がそこに立っていた。
「僕だよ。どうかな。ちゃんと見えてるかい?」
「…てめぇか。何だよ。喋れたのか」
その白い仮面が、病室の中で不気味さを醸し出す。手の内を晒したくないのか。あるいはその醜い本性を拝ませたくないのか。
いつもこいつは、大事な時に立ち入って、どこか別の世界へと俺を飛ばしてきた。一度目は本の世界へ。二度目は未来の地球へ。そして三度目が、この病室の中だった。
「どうやら勘違いしているようだね。僕は、君の知ってる彼じゃあないよ。これが初対面なんだから。だから、宜しく。仲良くしようよ」
そう言って、左手が差し出される。思ったよりも言動が幼くて、暫く唖然とした後、気味が悪さがじわじわと込み上げてきた。
「はじめまして、アイル。本当の名前は思い出せたかい? 君のことはもう彼に伝えてあるんだ。あとはただ、彼が願うだけさ」
「…何を、企んでいやがる」
「企むだなんて」
仮面を外し、持つ手をヒラヒラと反復させる。晒された顔には白々しい笑みが浮かび、やはり子どもの純粋さが滲み出ていた。歳は十歳ほどだろうか。相手の言うように、あの人間とは別人なのかもしれない。ただし、仮面といい、その繋がりが掴めない。
「僕は何もしないよ。強いて言えばお話しするくらいさ。何かを決めるのは、いつも君たちの側だからね。僕はその後押しをするだけさ」
さあ言ってごらんと、滑らかな手が肩に乗る。悪魔の囁きだ。そうに決まってる。好いことなんてある筈ないのに。
それでも、弱った人間は、すがってしまうんだなと。悲しく思えてしまうのは、少なからず同情の思いがあるからなのか。
「俺は、この腕に誓って…この子だけは喪いたくない。足掻けるのなら、なかったことにしたいんだ」
赤裸々な願いが語られていく。それは彼の、心からの願いか。誰かに吹聴されたわけでもなく、彼自身の選択なのか。もしそうなら、俺はかつての友として応えるべきなのか。けれど、
「…できない。俺にはできない。たとえ過去に渡っても、それは俺の過去なんだ。お前のこれまでじゃない。俺がここに居たという記録は、ほんの十数分前までの話。居なかった場所に帰ってくるわけじゃない」
俺にできるのは、到達した時点間で「記録」を移植すること、人体を形状し直すことだけだ。
足元に落胆する顔一つ。死者は甦らない。それこそ奇跡だというのに。
「できるよ。だって君は、外から来たんでしょ。簡単な話じゃないか。また入り直せばいいんだよ」
ひきつった笑みを浮かべる少年。愉快そうに、横槍を入れてくる。こいつはどこまで知っているのか。なぜ俺のことまで知っているのか。覗かれているようで気持ち悪い。
「お前は誰だ。なぜこいつの肩を持つ」
「僕かい。何者でもないよ。まだ生まれてない存在だからね」
意味の分からぬことを言う。
「その仮面の彼とは僕が話をつけておくよ。それくらいなら干渉したって構わないだろう? だから、心配しないで行ってらっしゃい。半年後に、また会おう」
半年後? なぜ半年後なのか。それに、俺がいつやると言った。人に選択を決められるのが一番嫌なんだ。価値観を押し付けられるのが。俺はお前じゃないんだから。だから、好きに生きる権利がある筈だ。
「半年後なのはね、そこから始まるからなんだ。発端は去年の末頃。もとはと言えば七年前になるんだけど、まあ今回の目的はそこじゃないからさ。それに君、七年も待ってられないだろう?」
なら半年は我慢しろというわけか? 待つと言うからには、一時的に行って戻ってくるのでは不十分だということなのか。ずっと付きっきりで、未来を変える。考えると面倒さが先に立つ。
「大事なことがあやふやなままだ。俺に何をしてほしいのか。いつどこで、何をさせる気でいるのか。俺はまだ、何も聞かされちゃいない」
場合によっては、断る気もある。十分にある。いくら知人の頼みとはいえ、そこまでする義理があるのか。俺自身を投げうってまで、尽くす理由があるだろうか。自己犠牲なんてのは自己満足だ。自分の幸福から逃げた奴が、その居所を他人にすり替えているだけだ。勝手に期待して、勝手に助けた気になって、自分はのうのうと目を逸らして生きていく。個人の自由といえばそれまでだが、そこに正義を振りかざされるのは癪だ。
「頼む。変えてくれ。過去を。維歩は、つい先日事故に遭って、寝たきりのまま亡くなった。こいつが今も生き続けられるように、未来があるために、なかったことにしたいんだ」
目が必死さを語りかける。まるで狂気のような熱。何がここまでさせるのか。人とはこうも執着するものなのか。
「本当のことを言うと、何をすればいいのか分からない。どうすれば回避できるのか。原因は何か。それともただ偶々起こっただけに過ぎないのか。いずれにせよ、きっとこの子に付いていれば、何か見えるに違いない。俺はそう思いたい。変えられると信じたい」
「…それは俺に、子守りをしろと言っているのか? 何か起きる前に、見張って対処しろと?」
「ああ。そうだ」
「冗談だろ…」
呆れ顔を漏らす。俺なりの感情表現。つまり乗り気でないと主張している。
「そっちからは、何かないのか」
傍らの少年に視線をずらす。こうも投げやりな願いとは。取っ掛かりが掴めなくて、これでは応えようにも応えられやしない。ガイドがなければ、目的地にたどり着くたどりことすら。
「僕からかい? うーん。こういうのは当事者が語ることだからね。僕がどこまで踏み込んでいいものか」
軽い口調が鈍よりとした空気に弾ける。見世物を眺めるように、そこに深刻な表情はない。当事者との一線を引いているような間隔。気持ちの余裕。やはり、楽しんでいるのだと。
「でも、一つだけアドバイス。この近所の公園に行くといい。寂れた公園さ。夕方になったら、その子が一人で居る筈だから」
これまでの話から、忍耐はもう限界だった。押し止めていた苛々が気の緩みから荒く噴射して、情緒といったものがその中に沈んでいった。感情が思考を先回りしていく。これじゃ駄目だと思った自分は、何も言わず背を向けて、そのドアにぶつかるように引いた。
「行ってらっしゃい」
ドアの向こうまで、俺の舌打ちは届いただろうか。
2
病院を出てから宿を探し、そのまま一日を終えた。この道のりで映った景色には終始驚かされ、知らないうちに胸のむかむかは治まっていた。
どこを見ても電柱。石垣。瓦。灰色。その中で光る蛍光灯の白さには、終戦の名残が今も微かに引き継がれている印象を受けた。
そして何よりも、夜の空の美しさに、自分は見入ってしまった。幼年期の朧気な記憶にはあったが、今はもう、これほどクリアに星は見えないだろう。悲しいことだ。切り捨てられた幸せに、今の人々は満足しているか。気付いているだろうか。
失ってしまったものを得直す機会が、今の俺には与えられている。俺だけに背負わされている。望むべくもなく、そういう道を辿ってきた。或いは立たされたのかもしれない。これを重荷と捉えるか、代えがたい幸福と捉えるかは、何かを成し得た後にしよう。
翌日。日が明けてから困ったことになった。分かってはいたが、目を逸らしていたことだ。宿を出る金がない。無情にも世の中は金なのだ。一室で苦笑を漏らしながら、何とかしのぐ方法を模索した。
受付の身分証は、勿論出鱈目だ。口約束だけで、何かを示したことはなかった。本人確認がルーズなことが幸いした。不思議にも前払いでなかったことも。
あとは出る時の口実さえあれば。目を着けられないように。最低でも、気付かれずに脱走できるようなものがいい。あと一泊したい。そのなような詭弁で通るだろうか?
店員の視線に怯えながら、外面には悟られないよう仏頂面を作った。足を踏み出す度に遠目をこのまま保ちたくなり、カウンターに行く気が憚られる。俺は迷いの中で、このまま外に向かって堂々歩くことにした。
「お会計? 連れが払ったけど何か?」
訊かれたらそう答えればいい。子悪党な自分に、またもや苦笑が顔を出した。
日中の公園に、今自分は居る。寂れた奴じゃない。病院近くの、日当たりの好い所だ。週末もあってか、園内は老若男女で賑わっている。俺は初夏の緑葉を見ながら、南に昇った太陽を正面から受けている。三人ぐらい座れるベンチに、我が物顔で佇んで。横目で俺を見る顔は、大して気にはならなかった。
昨日のことを思い返す。投げやりな願い。賽銭を投げつけられる神様の気持ちが分かった気がした。
「神様か…」
神様には、嘘だって見破れる。昨日のテクトの言葉。あれは嘘だった。
あいつは何か知っているんだ。少なくとも心当たりがある上で、それを俺に隠していた。この話の裏には何かあって、それは彼らにも都合の悪いことだ。でなきゃ隠す理由がない。旅立つ友に遠慮をする筈も、意味もないのだから。どうせここは、奴にとって終わった世界なのに。
嵌められている。何度考えても、そう思えてならない。しかし今こうしていることに、意味は付いてくるだろうか。俺は今も、レールを走るしかないのか。
脱線。或いは座礁。俺が演者にならなければ話は進まない。今もどこかで見ている神様は、仮面の下でその時を待っている。いざとなれば、否応なくそれを行う。強制的に舞台へと立たせる。
喉が渇いてきて、人がはけるのを待ってから自販機に向かった。金はない。しかし記憶のどこかに、台の下には小銭が転がっているものという定観念があった。
足元の隙間に手を伸ばす。あったのは百円玉一つで、何か買うには数十円足りなかった。どっと疲れが肩にのし掛かった。
これも消費税のせいなのか。ケチをつけながら、これからどうしようという不安が過る。
「金…」
百円玉を見つめる。この百円で、何か面白いことは起きないか。
「そう言や宝くじって、どんなのだ」
やっぱり身分証明が必要なのか。特定の数字が買えるのか。コンビニや書店に行って調べてみよう。ネットのまだ普及しきっていない時代、情報は紙媒体だから。誰が空間的に実在しないものを予想できただろうか。実在しないものに囚われた時代を。
…この時代なら、俺がここに居るって、物理的に証明できるのかな。
たった今覚えた高額当選のナンバーを土産に、俺は世界に別れを告げる。そしてたった一日前へ、過去への移植を開始する。
3
二度目のタイムリープによって、重大なことが判明した。というのも、明日の記憶を持った自分が、知らないうちに居たからである。その自分はこれからの十数時間を知っている。あとは同じ記憶だ。同じ記憶が、別の俺にも重複している。気付いていないだけで、俺は何度も繰り返しているのではないか。そう思って記憶を探る。
二つの記憶を持つ自分が居る。それと同じ自分がもう一人居て、記憶は今倍になった。つまり、今は四人分。これが数えられるうちは、俺は回数を認識できている。今は確かに二度なのだ。
思わぬ副産物だ。問題なのは、先を進んでいる自分が、今の俺の自我へと埋もれていることだ。そしてこの記憶は三人目の方にも刻まれ、また俺に当たった時、同じように驚くのだ。
と言うことで俺は、これからを知っている。
「その面をもう拝みたくはないんだがなぁ」
神様気取りの白面を見つけ、喧嘩を吹っ掛ける。まるでデジャヴ。だが確かに記憶はあると。こっちが本物。あっちは、偽物?
そしてボードが渡され、耳元に当てろと示唆される。声はなく、手真似でそう指示される。
「…アイルなのか」
聞き覚えのある声。懐かしい傍ら、最近聞いた錯覚に陥る。
「アイル。助けてくれ」
その様子を知っている。死に憑かれた顔を。俺は無言を貫いた。何もかも、どうでもよくなって。
伸びる手が握られるにつれ、世界が砕けていく。窓硝子が割れるように。空間に塗られた箔が零れるように。何度か経験したことだ。ここはもう消えて、別の場所に再構築される。おそらくはあの掌が開く時、新たな物語に誘われている。まさしく俺は、掌の上に居る。
眼前に広がった世界は、北風に芯から冷える、昨日見た灰色の街だった。半年前の焼けた空が、俺を迎えに待っていた。
「…こんばんは」
誰かの為に、何かを犠牲にする。そんなシステムに均衡を保たれた世界が、終わろうとしていた。
ハッピーエンドが、静かに幕を閉じた。




