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イフ記  作者: 泉海
二章
11/12

第11話

 天におわす神サマは、途中で呆れてご退席なさった。代わりにやって来た神サマは、台本を悉く変えてはお楽しみなさる。

 僕らは木偶か。傀儡か。

 けれど、俺は知っている。この世に蔓延る、悪意の正体を。真に滅ぶべき者の本質を。

 きっと皆青ざめる。明日には我が身かもしれないからな。

 それじゃあ皆、ごきげんよう。そう遠くない未来まで。


    1


「やあ、久しぶり」

 いつものように、彼は背後に現れた。この寂れた公園の中で。他には誰も居ない。

「久しぶりだね」

 僕は呟いた。身を屈めて。何か、謙遜しているわけでもない。ただ自分が小さく見えて、この姿勢が丁度好いなと思った。僕に丁度好い大きさが、どこかにある気がした。

 風が僕を擦っていく。優しく。艶やかな指で。子どもに触れる母親のような、そんな感じ。うざったい。

 いっそ乾いてくれればいいのに。七月の空気はどこか湿気を含んで、僕にまとわりつく。

 いっそ突き放してくれればいいのに。そんな優しさは要らない。僕は孤独だ。それでいいじゃないか。

 目に見える優しさは、僕に何をくれた? 僕は何を貰った? この半年、この半年を、誰かに見せびらかしたい。僕の無能さと、無力さと、それから君たちの優しさについて。君たちの笑顔を、僕は踏み潰してやりたい。

 どうしてみんな、そんなにも幸せそうなのか。僕にはくれなかったのに。除け者にしてきたのに。くれたのは怜奈さんだけだ。でも、彼女も幸せにはなれなかった。だってもう亡くなったんだから。死ぬ為に生きている人間なんて居ないでしょ。

「何だか不満そうだね。嫌なことでもあったのかい?」

 夜の闇が、顔を隠す。彼の表情が、気持ちが上手く掴めない。でもいつものことだっけなと、少しして思い返した。

 特に語りたいこともないんだ。それも自分自身に。ここ最近、嫌でも自分に向き合ってしまう。自分のことが嫌いだなんて、とっくの昔から分かっていたのに。でもそれなら、どうして今まで僕は彼に頼ってきたのかと。

 不気味な君のことだから、僕はどこかに答えを求めていたのかもしれない。ここではないどこか。どこにもない場所だ。現実逃避のごみ置き場があって、そろそろ一杯だからと催促しに顔を出した。そう考えることにした。だって誰も、正解なんて知らないんだから。

「黙っていちゃ、相手は分かってくれないよ」

「…君は、僕じゃないか」

 妄想に向かって、そんな口出しをする。主人は僕だ。でも君の方が頼りになるだろうさ。

「今はもう、願わないのかい? つまらないな。以前の君は、もっと欲しがる子だったのに」

 願う? 願うだって? そんなこと、逃げじゃないか。欲しいものは掴まないと。願っているだけじゃ、何も得られないのに。

「アッハハ」

 可笑しいな。前から僕は、そんなことに頼っていたのか。何も変わらないな。だからこそ、痛い目を見たんだろうか。

「願わないよ。願っても得られない。それに僕にはもう、欲しいものはないんだ」

 嫌と言うほど現実を見た。夢も見ていた。けれどここに、僕の欲しいようなものはなかった。或いは、失った。…もう手に入らないものだ。

 ああ。つまらないな。現実は。何か、何かを期待していいだろうか。現実にはない、何か突拍子のないことを。そんなことが起きないものか。起きてくれたらな…。

 起きてくれたら、僕はどうするだろう。それが何かにもよるけど、きっと僕はみんなと同じことをする。そう思う。自分で自分を、そしてみんなを腹の底から嘲笑って。

 ただ、みんなと消えるなら悪くないな。これで僕らは憎み合わずに済む。悲しみ合わずに済むんだから。誰かもきっと、僕と同じことを考えたに違いない。もしかしたら、今もどこかで願っているかもしれないじゃないか。

 そんな理想を胸に広げる。だからと言って、何か起こるわけでもない。それほど望んでいるわけでも。僕は今を生きるのが辛いだけで。向こうから終わらせてくれたら、こんなにも楽なことはないなと、そう思うんだ。

 つまらない想像だ。そんなこと、起こる筈ないのに。現実を見れば判断つく筈で。無意味なこと。無意味なことの繰り返し。進む先があるのなら、誰か教えてよ。僕が否定してやるから。笑ってやる。何が何でも。

 ヒラヒラ、ヒラヒラと風を切るそれは、僕の話の途中で現れては邪魔をする。掻きむしられるような不快感。嫌だな。僕を弄くるのは、僕だけでいいのに。

「君こそ、聞いているだけかい」

 背後の気配。語る僕の方を見ずに、雲に隠れた夜空を見つめる。そこに何があるのか。君が求めるものは、そこにはあるのか。

「そっちは、いつも通りじゃないか」

 空には、何が広がっているのだろう。星。宇宙。そんなことじゃなくて、人が見上げたくなる何か。魅力とも言い換えられるもの。僕には分からない。けれど、感じる人も居る。それは、僕じゃないからなのか。僕じゃなければ。君だったら分かることなのか。

「変わってほしいのかい? 僕に」

「…別に」

 そんなこと、望んでない。相変わらずの君のまま。それでもいいさ。

「そう。僕は変わりたいけどね」

 意外だ。振り向くと目が合って、彼は横目で僕を捉えた。

 …本当は、僕だって変わりたいさ。でも、何になりたいのか。どうなりたいのか。その具体的な答えを出せないまま、ただ不満で。不満足で、どうしようもないんだ。本当に、どうしようもない。

「君は思ったことないのかい? もしも自分が、ってさ。例えば他の誰かだったり、物だったり、或いは」

 ニヤッと笑う。訊いてごらん。そんな表情だったから、しぶしぶ相手する。

「或いは?」

 彼は手を止めて、それを慣れた手つきで顔に付ける。無機質な人間の姿がそこに現れて。目も鼻も口もない。感情もないみたいに。命すらないように。みんなは、これを何て呼ぶのだろうか。

「神様だったり、さ」

 顎の辺りを二本指でつまみ、位置調整を繰り返す。隙間から覗ける口元。言葉。君は何を思うのか。

「もし君が神様だったら、どうするの?」

 ポツリ訊ねた。さほど期待はない。返答がくるなら、それでいいかと。

「何もしないさ。僕は何もしない。いつだって、何かするのは君たちの方だ。願うのは、君たちの方だから」

 よく分からない。いつだって。いつだって君の言葉は、僕の斜め上をゆく。理解の外をゆく。そうやって君は、高みの見物を決め、僕の動きを眺めている。

 ずっと。ずっとそうだった。偉そうなんだ。

「僕は応えるだけだよ。だったら、ね。願ってみないか。神様になら、できることもある筈だよ。君の諦めていたことも、無理だと決めつけてしまった夢も、神様になら叶えられる筈さ」

 …何だ。結局いつも通りじゃないか。今度は神様にすがって、逃げるだけだ。神頼み。僕の頼る先も、落ちるところまで落ちてしまった。

 もはや努力なんかでどうこうできることじゃない。それでも、できることならと願ってしまうのだから、人間っていうのは小さい者だ。わがままで、無責任で、利己的で、弱い。弱いから、逃げるんだろうか。受け止めきれないんだ。

 できることならと。違う。できないことだ。絶対に起こり得ないと分かっているからこそ、神様でも何でもいいから、頼りたくなってしまう。それは祈りのようで。他力本願で。どうしようもなく弱く脆いもの。今にも崩れそうな僕を。救ってくれたら。救ってくれたら…。

「もし…僕の殺した人が生き返るなら。もしもまた、彼女がまた…僕の前に現れてくれるならって…そう思ってしまうんだ」

 誰か。僕を助けてよ。弱っちい僕を。無力な僕を。

 もう孤独は嫌だ。失うのは嫌。僕にも、人並みの幸せを分けてよ。怜奈さんに会わせてよ。今度は守るんだ。僕が。僕がだ。

 絶対に。

「願うだけなら、人の自由だ」

 消えていく。目の前から、ゆっくりと。透き通っていく体が、向こう側を映して。闇の中に消えていく。

 どこに行く。どこで僕を見届けるつもりなのか。僕はもう、どこへも行けないのに。一人隠れる意味なんてあるのか。

「いいんだよ。それで。君はそうしてやっと、スタートラインに立てるんだから」

 僕が立つのは、いつだって今でしかない。


    2


 寝て起きて、外を出歩く。勿論学校には行かない。サボりだよ。けれども、行くべきだと思うかい? 僕には、この方が普通に思えるんだ。普通らしくしたいんだ。

 いい子じゃないよ。僕は。それでも、これが正しいと思ってる。

 でも、正しいかどうかなんて、本当はどうでもいいんだ。僕は逃げたい。逃げる口実がほしい。何からって? 勿論、現実からだよ。目の前のことを全て捨て置いて、僕は今に留まりたいんだ。

 そんな今は、どんどん先へと進んでいる。あれから何日経った? 僕は何日、怜奈さんの歩けなかった未来を消費している? 一人で歩く道は、少し寂しくて。

 嘘。とっても寂しいんだ。風邪をひきそうなぐらいに。

 白日が道を照らす。整備されたアスファルト。老朽化が進み、ぼろぼろと崩れてきている。白線も擦りきれて、ガタガタの岩肌は、まるで僕の心のようだ。雨が降っても治らない。雨なら、ずっと降っているのに。

 晴れ晴れとした空が憎らしい。見上げていると気力を吸われていって、脱力感が僕を襲う。何もかも、嫌になる。やけくそに。何も考えられなくなる。

 暑さのせいなのか。心は冷えきっているのに、体が思うようについていかない。でも不思議と、体もそう暑くはないんだ。汗も出ないし。外は暑い筈なのにな。

 ああ。ボーッとする。考えられない。疲れたように。

 熱中症だろうか。そう思ったけれど、気付けば意識は途切れていた。目を覚ましたのが、それからどのくらいかは分からない。

 始めに飛び込んだ、というか感じたのは、陰だった。さっきまで直射日光に当たっていたんだ。無意識にも違和感を覚えたのだろう。

「あ、よかった。目覚めたんだ」

 聞き覚えのある声。どこで聞いたんだっけか。何だか。何だかさ。無性に懐かしいんだ。

 眩しさに思わず怯む。それでも目を開くと、そこに広がった光景を信じることができなかった。

 どうして。口をついて出る。視界が淀んで。それが涙なのはすぐに分かった。止まらない。勝手に溢れて。

「大丈夫? 歩けそう?」

 彼女が手を伸ばす。右腕。僕の手が残っている方だった。

 僕はその、白い手を握る。傷一つない、綺麗な手だ。僕の左とは対称的に。柔らかく、しなやかで、そしてどこか儚げな。

 日だまりへと引っ張られる。重力に抗って、僕の足は前へと歩き出す。この両足が踏ん張り。地面を押しのけて。

 彼女の笑顔が飛び込む。逆光の中でも輝いて見えたんだ。もう叶わないと思っていたから。これはきっと夢で、できすぎた現実で、それでもいいさ。会えたんだから。

「駄目だよ。体には気を付けないと」

 僕のことは僕にしか分からない。そんなことを、前に聞いたような気がする。あれは心のことだっけか。とにかく、体調管理は自分でしかできないよと、彼女は訴えた。

「どうして。やっぱり、生きてたの? …そうだよね。だって、蘇る筈なんてないし…」

 怜奈さんは、きょとんとしていた。僕の言うことが通じていない様子だった。

「…ごめんね。そのね…、あんまり、記憶がないのよ。この間まで梅雨だったのにね。おかしいな。もうひと月なんて…」

 さらに言葉を加える。

「…私ね、覚えてないのよ。気付いたら、死んでたみたいに…。知らないところでね、目が覚めて。それで…それで、体を見たら、悲惨な状態になってて…それで…」

 目を逸らせ、悲しそうな顔が浮かんだ。嫌だな。僕まで暗くなる。

「ねえ、維歩君。君も、その時一緒に居たの? 私がこんなのになるところを、見ていたのかな」

 返事は、したくなかった。僕が何もできなかったことを、表に出したくなかった。それに、自分の言葉で傷つけてしまうのが怖かった。優しい人だから。背負ってほしくなかった。

これは、僕の傷。僕は笑って誤魔化した。でも怜奈さんは、僕の腕に気付いて、涙を浮かべた。

「ごめんね。ごめんね…」

 繰り返し、繰り返し聞く。謝罪の言葉を。止めてよ。僕は、辛い。僕の胸にあるのは、君への罪悪感で。堪えるのが精一杯なんだ。

 二人で歩く道。久しぶりに、誰かと一緒に居る。これがきっと、幸せなんだろう。誰もが望んでいる、理想の在り方なんだ。僕にとってもそうで。悲しみの裏で今を噛み締めた。

「怜奈さん」

「何?」

「明日も、会えるかな」

 無邪気な笑顔を残して、彼女はその日去っていった。嬉しくなってくれたのなら、良かった。何かできたのなら。

 翌日、彼女は亡くなった。僕の目の前で崩れ落ちた。助けてくれたのは、またしてもベイスさんだった。

 ああ。あの目だ。どうしてそんな、冷たくするのか。


    3

 

「やあ、どうだった」

 彼が現れる。空いた心を埋めるように、勝手に生えてくる。

 僕はただ黙っていた。やっと掴んだと思った希望が返還を強いてきて、結局彼女は亡くなったんだ。何故生き返ったのか。分からないままだったけれど、結局は間違いなく死に戻ったのだ。

 僕はお別れを告げた。眠った彼女に。悲しかった。けれど、泣くことはできなくて。ひきつった笑みみたいと、ベイスさんには言われてしまった。それほどまでに、心が麻痺していた。

「その調子だと、うまくいかなかったかな」

 きまりの悪そうな顔をして、でもそれは演技で、証拠にすぐにほどけては、またいつもの顔へと戻るのだ。偉そうで、見下したような。

 いつもそうだ。何が面白いのか。そうやって、僕を嘲って。同情のふりをして、僕が困るのを見て楽しんで。こんなこと言ったって仕方ない。でも、何の為に君の姿はあるのか。

「まあ座りなよ。ほら、聞いてあげるからさ」

 そう言って、隣で腰を下ろす。薄暮の空は温かみを遠くへ追いやってしまって、僕らの足元にはぼんやりとした影が広がっていた。

「それで。彼女には、会えたんだろう?」

 僕は、静かに頷いた。

「そう。よかったね」

よかったね。…よかったね。跳ねるような音が、僕を逆撫でする。

「…何が、よかったんだ。こんなこと。こんなことになるなら、会えない方がよかったよ。何がよかったっていうんだ。何が…」

 夢が覚めて、また幻滅しただけだ。現実に戻されて辛くなっただけだ。何も変わってないじゃないか。同じことが繰り返されて、ここへまた戻ってきたんだ。

「でも、君の願いは叶った筈だよ」

「こんなこと、望んでない。望んでるわけがないでしょ。また僕は失ったんだ。希望を。幸せを。それが願いだなんて、おかしいじゃないか」

「…それは、君の本心かい?」

「そうだよ!」

 僕は食い入るように言葉を返した。でも彼はペースを崩さず、宥めるような、妙に落ち着いたトーンでそれを否定する。

「違うよ。違う。また逃げているようだね、君は。そんなにも自分が嫌いかい? そう思い込んでいるのか、或いは演じているのか。いつだって自分の好きに生きているというのに、君は誰かのせいにし続けて。そのくせに不幸を語る」

 分からない。何を言っている。僕のことか? 僕がそうだと言うのか? だったら、何故分かるんだ。勝手にそうだって、決めつけられるんだ。

「僕のことを分かった気になるな。僕は僕だ。君なんかに決められることじゃない。君は、何なんだ。何様なんだよ」

 君の視点はよく分からない。俯瞰した僕なのか、他人の目なのか、或いは、僕の中を覗いているのか。バラバラで、ちぐはぐで、時には笑って誤魔化して。君という存在が、僕にも掴みきれない。

「訊いたね。僕のこと。さて、何と言おうか」

 ゆっくりとした音調の裏で、言葉を探すように顔を動かす。僕を試すような、威圧に似た空気を纏わせて、やがて「そうだね」と呟いた。

「君たちが言うところの、神様って奴さ。僕は」

「…ふざけてるのか」

「君が? だったら、そうかも」

 話にならない。会話が噛み合わなくて、どんどんとおかしな方へ向かっていってしまう。彼のペースに。彼が、語る番に。僕はぶつける先のない感情を、この逸れた話に持ち込んで、

「じゃあ君は神様で、こうしてずっと僕を見ていたと、そう言いたいのかい?」

「言いたくはないけれど、まあ、そういうことになるね」

 歯切れの悪い説明が返ってくる。何かを含んだような言い方だ。

「信じてないだろう、君。まあ、仕方のないことだけどね」

 ちょっと長話に付き合ってもらうよと。腕を横に広げて、それから腰の後ろにあった手すりを掴んだ。そして宙を見上げる。

「かつて、ここには神様が居た。世界を創った神様さ。僕と同じく、こんな変な仮面を被った変な奴だよ。その神様はさ、手始めに基盤を作ったんだ。世界の設計図。まあルールブックみたいなものでさ。自然の摂理、運命なんて呼んでもいいかもしれない」

 その声は淡々としていて、口を挟む余裕がなかった。

「神様はさ、それで世界を運営して、僕らの行く末を眺めていたんだ。元々人間なのもあって、何か答えを得ようとしていたのかもしれない。でも、途中で嫌になって止めた。この世界に見切りをつけて、去っていったんだ。ここはもう見捨てられた場所なのさ」

 何なのか。何を語ろうとしているのか、まるで分からない。神様の話。そんなの興味なんてないのに、まだ喋ろうとする。

「でもね、彼の作ったシステムはまだ動いているんだ。さっき言ったルールブックのことだよ。それを使えば、今を書き換えることだってできるかもしれない。君が望んでいたように。神頼みっていうはこういうことだったのさ」

 現実と妄想が混じっていく。何が本当で、何が嘘なのか。これは僕の妄想。そうだった筈だ。全部でっち上げられた話なのに、なのに、目の前の彼は僕の知らないことを話し始めて。神様を語って、そして本当の神様を知ってて。

 勝手に一人歩きしていく。姿も、声も、人格も。それでも彼は実在しない筈で。やっぱり、これは嘘の世界なのか。まやかしが今も続いていて。幻覚が見えているだけで。僕がおかしいだけで。

「でも、彼女は生き返っただろう?」

 そんな声がする。想像か。現実か。僕にはもう判らない。狂ってしまうというのは、こういう状態ことだったのかなと。

 彼が僕を見ている。どうかしたの。違う。どうしたいんだい。そう言ってるような顔だった。

「君は、君はそこに居るの? 僕の頭にじゃなくて、ちゃんとそこに存在しているの?」

 彼ははにかんで、

「分かってるでしょ。君は」

 また一人語りへと戻っていく。

「僕はさ、彼を継いだことになる。このシステムと力を持って、後見を任された。でも僕はさ、正直言うとこの世界に興味なんてないんだ。明日滅ぶならそれでもいい。でも、ただ眺めているだけじゃね。僕だって楽しい方がいいから。まあ、それくらいだよ。僕の願いは」

 左手を胸の前に持ってきて掌を上に開くと、一瞬にしてそこには四角い物体が現れた。大きさは普段見る書物ほど。だけれど、石板のように重厚で硬そうな見た目をしている。

「これが、世界の原盤。彼の作ったシステムが、ここに刻まれている」

 表面に彫られた紋様。あまりの緻密さに、何が書かれているか判別つかない。まるで電子回路の内部を覗いたような、複雑怪奇な情報の塊がそこにあった。

「これを書き換えれば、不可能なことも可能になるかもしれない。彼女が一度蘇ったように。でもね、どこかを換えれば、別の部分に歪みが生じる。そうして補正しようとする力が働いて、事象は収束を始めるんだ」

 話が難しくて、理解が追い付かない。

「何かを成し遂げるのは容易じゃない。それでも諦められないことがあるなら、改変しなくてはいけないことがあるなら、僕は力になるよ。めげて、挫けて、絶望の淵に立ったとしても、それでも君が願い続けるならね。或いは見つかるかもしれない。君にとっての理想郷が」

 …僕にとっての理想郷。

 僕は。僕は、彼女さえ居ればいいのに。彼女さえ、幸せになってくれたらいいのに。難しいことなのか。高望みなのか。たったそれだけなのに。

 ああ、神様。それぐらい許してもいいじゃないか。僕らは非力なんだ。ふと亡くなるくらいに。弱くて、儚くて、だから、だから…。

「今はもう、神様なんて飾りさ。僕が言うことじゃないけれど、創造主なんかよりも、人を裁く権威の方が大事みたいだからね。だからもう、これ自体が神様みたいなものさ」

 石板を扇いでみる。さすがに重いのか、動きはゆったりとしていて。いつもみたく風を切ることはできない。せいぜい、空気を混ぜるくらいだ。

「もっとも、彼が残していったんだ。新参者の僕なんかより頼りになるのは当たり前だよね。ただ、これを扱えるのは僕だけだ。そういう意味じゃ、まだまだ神様は必要とされてる」

 願いを聞くのは神様の仕事だ。科学が信仰を凌駕してからも、それは変わらない。奇跡を起こすのは、神の御業で。彼はそう言った。

 つまりは、話をまとめるとこういうことだった。彼女が生き返るには、その石板に刻まれたシステムを書き換えるしかないと。この世界のシステムに抗って、そんな未来を作り出すしかないと。自分の都合の好い世界になるよう、何度もやり直して。彼女の死を否定して。

「じゃあ、改めて訊くよ。君の願いは何だい?」

 僕の願い。僕の願いは、はなから決まってる。

「怜奈さんを、生き返らせてほしい」

「オーケー。それじゃあ、書き換えてみよう。直ぐにでも変化はある筈だ。何が変わったのか、分かるのはそれからだ」

 もう僕に、失うものはない。振り向くものもない。ただ、チャンスが転がっているのなら拾うだけだ。前に進むには、これしかない。

 僕が幸せになるには、これしかない。

「何度でもいい。君の気が済むまで、繰り返せばいいさ」

 満面の笑みで、彼は背中を押した。僕はこれでスタートラインに立ったんだと、勝手に解釈した。


    4


 静まった公園に、一人残って。夜風がこの伽藍の胸を撫でていって、かつてあったであろう心をちらつかせる。

 君のものだよ。君が忘れていった、思い出さ。

 そうして、存在しなかった情景が俺を包んで、浮かび上がる。寂しい風景。独りぼっちの、閉ざされた世界。この眼前に広がった景色よりも、尚狭く、色褪せた通路に俺は…。

 蛍光灯が真上から体を照らして、まるで電光浴でもしているような気分だった。暑くなって、日も伸びたらしい。良い子は皆帰っている時間だ。なのに俺は、どこへ帰ればいいのか。そんな途方にくれた世迷い言を連ねて。誰に聞かせるわけでもないのに。

「やあ。ずっとそこに居たのかい? 盗み聞きとは感心しないね」

 薄気味悪い笑みが、迎えに来る。

 親の迎えを待つ子ども。手を引っ張られて連れてかれた先は、果たして望む場所なのか。或いは自分の居場所なのか。

 ここじゃない。

 俺は、そう思う。ここは、俺の居る場所じゃない。だから誰かが、この現実から迎えに来るのを待っている。そう思う。きっと、今の自分はそういう人間だ。

「あんたに言われたくないよ。神様」

 半年ぶりに見る顔は、何も変化していない。むしろ記憶が鮮明なことに驚くばかりで、よっぽど憎らしい姿だったのだと、たった今思い返されたばかりだった。

 あんたは、嫌いだ。別人だとは言っても、奴を模倣したその姿勢は。偽物が本物を超えるように、俺にはこいつの方が癪だった。

「全部、聞いてたかい? なら話は早いんだけど」

 暗い道では、人工の光が一層眩しく見える。足元に溜まった白色が目に焼き付いて、視界に悪さを仕掛ける。

 光点が、靡いていく。奴の周りに。

「彼の面倒を頼んだよ。それとも、君も願うかい? それだって、僕には構わないことだから」

 目の前に現れた神様とやらは、まるで全知全能と言わんばかりの傲慢さで囁く。俺から見れば、神様というよりは悪魔で、悪魔というよりは悪趣味な人間のように映った。それはあの子どもも同じだ。

 例えるなら、パンドラだろうか。神から預かった箱を開けた結果、次々と不吉をばらまいて終わった。

 ただ、そこにはもう、希望は残っていないだろう。そう見えるだけで。期待をせずにはいられないだけで。今映り込む光点が幻なように、在りもしないものを追いかけている。

 見えるものに惑わされて、感じるものに惑わされて、いつしか虚構に浸っている。そうなったらもう、脱け出せないだろう。

「やあ。初めまして、神様。俺はあんたに言われて、二巡目のこの世界に閉じ込められた。何もいいことなんてなかった。むしろ、悪くなったことばかりだろうさ。だから願いを叶えてくれるって言うのなら、元に戻して、さっさちおっちねよ」

 この悪夢が覚めるなら、ゼロに戻ったっていいさ。このままじゃ、俺の守ろうとしたものまで崩れて。自分を見失いそうだ。

「初めまして、アイル。生んでくれて有難う。お陰で僕の未来が、君たちの生き筋に先行できた」

 悪態にのって、二巡目の仮面少年は、礼を言って顔を隠した。今日は機嫌がいいらしい。そう思って、尚更腹が立った。

「僕は神様になった。この世の内で、全知全能の神様だ。これからを知ることだってできる。その逆だって可能さ。だから言わせてもらう」

 彼は歩み寄って、背後に回った。突っ立つ蛍光灯を隔てに背中へと寄りかかって、俺は耳障りな声が大きくなった気がして嫌だった。正反対を向いている。嬉しいのはそれぐらいのこと。

「君は抜けるべきじゃないよ。この物語を、最期まで見届けるべきなんだ」

「どうしてだ。俺は元々部外者だろ」

 ここの神様は、自由意思なんてものを保障してくれるだろうか。神が正しいなんて言っても、俺には西洋の神様は肌に合わなくて。そもそも、神様が一人なのがおかしいんだ。だから完璧なんて求められるんだ。

「外から来た、君だからこそ。部外者の君だからこそ、見える景色がある。僕はね、見てもらいたいんだ。君に。そして判断してもらいたい」

「…何をだ」

「この世界は正しかったのか。この結末を迎えるべきだったのか。何が守るべきもので、何が犠牲となるべきものだったのか。エラーを生んだこの世界、見放されたあの子を、君はどう受けとめるか。彼の創った幸福と犠牲の物語を、君には観測してもらいたい」

 それは、君にしかできないことだから。君にのみ許された役だからと。そんなこと言われて、現実を見る目が変わるわけでもなく。ただ、拒絶したところで抜け出せるわけでもなく、敷かれたレールを走ることしかできないのだ。

 風に流される。落ちていく涙のように、俺は誰かに落とされたのか。

「一つだけ、答えてくれ」

 欠けた月が高く浮かぶ。弧を描くように移ろうそれは、まるで螺旋の軌道のようで。辿れるのなら、掴んでやるのに。

「あんたは、いつから神様なんだ」

 神は無言で答えた。


    5


 動かない。動かない。何も、感じない。

僕。いや、俺。どっちだったか。思い出せなくて。僕が誰だか。ここがどこだか。

 体が重くて。それ以前に、息ができなくて、真っ暗。土の臭いがする。

 取り敢えず、眠ろうか。眠ったら、また目が覚めるかな。脳が起きたら、それからでいいや。

 燃えて。燃えて。体を焼いていって。僕が僕になったら、俺が俺になったら、どうしよう。何がしたかったんだっけか。何をしてたんだっけか。みんなみんな、遠い昔のよう。思い出せないもどかしさと、眠気に挟まれて、潰れる。

「どうして」

 そんな声が、最後に聞こえたような。あれは誰だったか。もしかしたら、僕だったかもしれない。

 じゃあ、俺は誰だ。あっちが僕なら、こっちは?

 いいや。僕はもう居ない。今日から俺が僕なんだから。

 さよなら、僕。そっちで元気でいてよ。

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