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イフ記  作者: 泉海
二章
12/12

第12話

 雨上がりに差す陽光が眩んで、思わず目を瞑った。

 そしてまた、翳るのを待った。


    1


 一日がリスタートされ、輝く天気に瞼をこじ開けられる。相変わらずの暑さには敵わない。義手が蒸れて、何だか気持ち悪かった。

 雀が外で鳴いている。木漏れ日を避けるよう、影に入って。そりゃそうさ。こんな時期になって、顔を出されても迷惑なんだ。だから僕は、今日も日が傾くまで外に出なかった。二度寝を何時までしたかは覚えていない。

 そうだ。そういえば、いつからか義手が痛まなくなっていた。やっぱり気のせいだったのかなって、今では思えてしまう。痛みを忘れたからだろうさ。前はそうじゃなじゃったから、覚えてる筈なのに。

 記憶なんてものは、薄れていく。簡単に消えていく。だったら、僕の悲しみも洗い流してくれればいいのに。僕の醜態だけを、綺麗さっぱりかき消してくれれば、こんなにも苦しまず生きれるのに。

 でも、忘れたくないこともある。なくしたくないことも。だから今日も頑張ってるんだ。必死になって、しがみついている。

 まだ僕は迷ったままだ。けど、いつか道を見つける。きっと。それまでは、諦めるつもりはない。

 支度をして、向かうのはいつもの公園。そこに彼が待っていて、毎日連絡を交わすのが習慣になった。まだ外は暗くならず、暑さも収まらない。それでも、これ以上遅い時間になると出歩きにくくなるから、仕方ないと言えば仕方ないのだ。

「やあ、おはよう」

 隣に腰を下ろして、見つめ合う。仮面をとった彼の顔を、僕は面と向かって相手した。無機物のように感情の出ない瞳、口元に、石のような頬が佇んでいる。水面を覗くみたいな、そんな静けさで僕は、神様と対峙しているんだ。

「どうかな。やっぱり、今回も」

「うん。どうやら駄目らしい。今日も彼女、道端で死んでいたよ」

 報告を受けて、落胆したような、でも予想通りの顛末に、僕は自分でもよく分からない感情を湧き起こしては「そう」と短く呟く。たった二音の響きにこれまでの期待や諦め、苦労が込められている。そう思うと、僕はだんだん、感情がすり減っているのかもしれないと感じる。どんな影響が出ているかなんて自分では判断つかないから、考えても分からないよと無視することに決めた。これが僕なりの前向きというやつだった。

「じゃあ、またいつものように」

「了解」

 黄昏の沈む蒸し暑い夏。僕の長い連休は、こうして始まりを迎えた。


    2


「怜奈さんを、生き返らせてほしい」

 神様の現れた翌日、彼女は蘇った。僕が願ったから。願った結果、二度目のことだったけれど、それでも奇跡に違いないと感じた。だって普通はみんな、死んだらおしまいだから。

 僕だけにチャンスを与えられている。他でもない神様から、この上ない優遇を受けているんだ。だから僕は掴まないといけない。これが終わりのない戦いだとしても、期待に応えないといけない。

「どうしたの? ぼーっとして」

 隣で囁く声。懐かしくも暖かい声に、涙が出そうになって、我にかえる。

「うん。ちょっとね」

 並んで歩く道。水彩の淡い世界を、僕は俯瞰して微笑んでいる。そう。遠くで見守る神様のように。僕の意識は上空に漂って、二人の進路を見透かすような面持ちをしている。

 視界に広がる交差点。僕の前に、過去と未来が広がったような、アーカイブの空間が現れる。ああ、そうだった。ここで僕たちは轢かれたんだっけ、なんてね。そんなこともあったかなと、遠くで漂っている僕はぼんやりと思い返している。

「あれ? あの車、大丈夫かな」

「え?」

 振り返る地上の僕は、道路の真ん中に立ち止まった怜奈さんを捉える。彼女との距離は今何歩分あるのか、なんて考えたりみてもして。やれやれ、彼女らしいなと、軽く目蓋を閉ざしてみる。開けた時にはそこにもう姿はなくて、アスファルトに横たえ血を垂らしていた。

 僕の尻目を、黒い物体が直線上に流れていく。軋むような嫌な摩擦音を響かせて、遠くへと消えていく。

 あれ? 今、車が通ったんだっけか。ぼーっとしてて気付かなかったよ。音がした気はしたんだけど、一瞬のことだったからね。ねえ、怜奈さん。起きてよ。

 怜奈さん。早くしてくれないと、僕、そんなに待てないから。ほら。先行こうよ。ここに居ても退屈なだけでしょ。歩かないと。

 …怜奈さん。聞こえてる? どうして動かないの。危ないよ。いつまでも道路にいちゃ。ほら、僕についてきて。

 あれ? 死んじゃった? なんてね。そんなわけないよね。だって、怜奈さんだし。不死身の怜奈さんでしょ。ねえ、怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。怜奈さん。

「どうしたの? ぼーっとして」

 隣で囁く声。懐かしくも暖かい声に、涙が出そうになって、我にかえる。

 …かえる?

 あれ? 今のは、夢? それとも昨日の記憶? 同じような一日を繰り返していると、夢と現実の区別がつかなくなってくるんだね。でも、まあいいことだ。今日もまた会えたし。どっちにしろ、次頑張ればいいんだからさ。

「うー? 嬉しそうね。いいことあった?」

「まあね」

 適当に言葉を受け流して、僕はどこを目指すわけもなく歩きだした。後ろに張り付く足音は、カタン、カタンとリズムを作って、僕の鼓動に共鳴するように高らかな音を響かせている。

「今日はさ、どこを回ろうか。最近同じところばかりだからね。たまにはこう、刺激がほしいかな」

「うん? でも久しぶりじゃない? 最近会ってなかったよ、維歩くん。あ、さては君、なかなか充実してきたんじゃない? 一日は速いかね、若人よ」

「うん。そうかもね」

 振り返って、にっこりと頬を上げてみせる。僕の笑顔は不自然じゃないだろうか。あまり上手くはないからね。困惑しないといいんだけど。

「夏休みの予定は決まってるのかな? まだ始まったばかりでしょ。やりたいことができるといいね」

「そうだね」

 手を後ろに組んで、遠くを見上げる。大きな入道雲がそこにはあった。どうやら僕は、夕立が降る前にケリをつけなきゃいけないらしい。

「なになに? あ、雲か。大きいね」

「大きいね」

「この調子だと、明日は雨かな。雨だと、あんまり出歩きたくないなぁ、私」

「今日は晴れだよ。よかったね」

「うーん? 何か、変わったこと言うね」

「嬉しくないの?」

「そりゃぁ嬉しいよ。けど、ね。…ううん、なんでもない」

「じゃあ行こうか」

 抜き手を切って進み出す。さて、今日はどこを回ろうか。目の先には何番とも見分けのつかない標識を掲げた電柱や、くたくたに弛んだ電線が延びている。陽炎に揺らめくアスファルトの地上線が、僕らに嘘をつき、距離を隠してしまったり、靄が浮かんでは四つ角に隠れ、通り過ぎたりもして。いや、違うよ。あれは幽霊なんだ。僕にはよく見えないけどね。

 こんにちは、お化けさん。今日も暑いね。融けそうだけど、大丈夫かな?

 幽霊はじっと僕を覗いていて、何か言いたそうな、でも頑なに口を閉ざしたまま、そこにやんわりと浮いている。無口に思えるのは、僕にまだ会話する技術がないからだろうか。そんな能力をこの先身に付けられるものかなんて知らないけれど。でも、どうしてそんなに見つめてくるんだい。ねえ、怜奈さん。

「…怜奈さん?」

 足音が聞こえてこなくて、不安が胃から喉の方へと上ってくる。さてはもう死んでしまったのかと。カタン、カタンという軽快なリズムが恋しくって、答えを照らしたい衝動に、僕は駆られた。

 さっと振り向く。一見何もない視界。コンクリートのブロック塀が広がって、何も目にも留まらないような、肩透かしの光景が映り込んだ。あれ? っとなるけれど、よく見れば背丈低く屈む影がひっそりと佇んでいて、不幸が降ってきたのだと、静かに告げていた。

 人知れず亡くなる女性、その暗い紅色が、黒い石粒に染み込んでは固まっていく。色相環を反転させたような異様な艶が、簡易的に設けた水溜まりのようへと変わった。夏の避暑地が、こうして道路に現れた。

 僕は、それを美しいと思う。でも悲しいことに変わりない。また失った、という思いが繰り返されているから。その思いが今の充実した生活を作っているとしても、僕は満たされることができなかった。

 全然上手くいかないな。人間というのは、どうしてこう、簡単に死んでしまうんだろうか。


    3


 今週のところはずっとこんな感じだった。分かったことは、怜奈さんが一日ほどで死んでしまうことと、決まって道の上で亡くなっていることだった。目を離した隙にどこからか車両に轢かれてしまう。僕が居ない時に亡くなることもあったけれど、あの日のことが繰り返されるように、まるで運命と言いたげな結果が巻き起こされているのは間違いなかった。

「生き返らせようとすると、やっぱり彼女、再生力が落ちるね。これはまあ、避けられない決定事項なんだろうさ。書き換えの影響が出てるんだ」

 公園のベンチに腰掛け、団扇のように仮面を扇いでいる神様。木漏れ日の斑模様に照らされた顔は、むんとする夏の空気に圧され「あちーなぁ」と文句を垂らしている。だるそうに弱気を吐く彼に、神様の威厳なんてものはもう、見当たらなかった。

「あー。蘇るとはつまりそういうことなんだろうね。どんな生物もいつか消えてくれなければ旧態のダストが堆く積まれていく一方だ。そうでなくとも、キャッシュの負荷でパフォーマンスが低下していくというわけさ」

「つまり、以前のようにはいかないってこと?」

「まあ、そうだね」

 僕は癖だろうか、無意識に左手の義手を擦っていた。不安を感じているのかもしれない。それは、そうだろう。だって最近のことを思い返してみれば、何一つ叶えられていないことに気付いてしまうから。無力が焦燥に、そして不安に替わるのは当然のことだ。

 僕も分かってはいる。このまま足踏みをしてもいられないってことは。だけど、どうしたらいい。僕はどうしたら。

「でもさ、どうして彼女、轢かれるんだろう。毎日毎日、決まって跳ねられるんだ。そうじゃなくたっていいのに。死んでしまうなんてことよりも、むしろそっちの方が僕は怖い」

「それは、まあ。僕の預かり知らぬものだね。人の営みに神様が口を挟むものでもないだろう。まあそれでも、このままやったところで彼女が救われるとは思わないかな」

「また何か書き換える必要があるのかな」

「かもしれないね。今のとこ、換えたのは彼女の生死についてだけだから。死んだ記録をなくしただけだからね。でもすぐにまた死んでしまうようじゃぁ、殺されるのを防ぐ手立てが、この先必要なんじゃないかって考えられる。ただ、それはそうとさ、君」

「何?」

「君はさ、実際のところ、どこまで頑張れるんだい? 一日、また一日と彼女を死から遠ざけられたとしても、一体いつまでこんなことを続けられる? 君の生活を犠牲に何もかも投げうったとして、果たして君が幸せになれるか保証が持てないだけじゃなくて、その希望すら叶えられるか約束されてないのにさ」

 考えてみなよ。君自身のことについて。預けられたものについてさ。そんな風に、僕を諭すような言葉をだらだらとした態度のどこからかひねり出しては呼びかける。僕は嫌気がさして、耳を塞いだ。彼は意固地になってまで声を張ることはしなくて、ただ気だるい様子で長々と喋るに留まった。

 神様はさ、気楽でいいよ。みんな他人事なんだから。守りたいものなんてないんだから。だから、ずっとそうに見ていればいいじゃないか。傍観者でいれば。これは僕の願いが懸けられた闘いなんだ。

「さて、じゃあ出番かな。と言っても、まあ何を書き換えればいいものか」

「事故をどうにか、でしょ」

「簡単に言ってくれるね、君」

 ぐうたらの神様は、面倒くさそうに石板を取り出して、ページをめくる。世界の設計図だなんて、どんな風に文章化、または記号化されて、書き込まれているものなのか。書き換えって、具体的にどうしてるんだろう。あの刻まれた幾何学模様から文字を消しでもするのか。訂正線でも有効になるのか。そんなこと、当事者の僕が知らないで、知らないでも、まあどうでもいいことだと思う。僕はただ叶えばいいんだ。結果さえあれば、過程なんてどうでも。

「交通事故についてはさ、君、と言うより書き換え以前の彼女の問題に起因している。まあ君には面白くもない話さ。それを変えるにはちょっと違った角度からのアプローチが必要になる」

「へぇ」

 簡単に受け流す。難しくて分からないことばかり。説明されても僕がいじるわけじゃないんだから、聞く意味もないじゃないか。そう頭ではなから否定していた。けれどどこか引っ掛かるものがあって、ついさっきの彼の声を脳内に復元させ、ビデオテープを流すように再生ボタンを押す。

「…えっ?」

 さっき、何て言ったんだ?

「毎日轢かれるのが、書き換えの影響じゃないっていうの?」

「轢かれるのは、そう」

 頭からはてなマークが飛び出した。嘘。頭をぐっと押さえつけられて、脳の機能を停止させられたようだった。考えをめぐらせることができなくて、ああ、眠りに落ちる感覚みたいだと、ぼんやり脳の片隅が感想を呟く。つまりは思考を放棄していた。

 轢かれるのはそう。でも、それってどんな状況なんだ? 跳ねられて動かなくなるのが世界の仕様じゃないなんて。毎日毎日、ずっと付け狙われているとでも言うのか。あの日から同じことが繰り返されるのは。

「…とにかく、轢かれるのをどうにかしないといけない」

 そうしないと前に進めない。何度も同じ結果をたどるだけで、救済から程遠い。程遠い場所に居るんだと、感じてしまう。そうなってはまた、無力感の波に押し戻されてしまう。

 …あの時。僕が怜奈さんを見つけた時、事故に遭う前、彼女はどんな顔をしていただろうか。深く記憶をたどってみるに、何だか怯えているような、何かから逃げているような、そんな様子だったんじゃないかと思えてくる。あまり正確な記憶じゃない。もうぼんやりとしか思い返せない程度だけど、でも、あの時はそうだったという認識が今の僕に引き継がれているんだ。

 やっぱり、誰かに追われてたのかな。もしそうなら…そうなら、どうだと言うんだ。轢かれる原因が本当にここにあるとでも言うのか。冗談みたいだ。

「思うに僕は、彼女は秘匿されるべきじゃないか」

 横顔で僕を窺っていた神様は、こう提案を切り出した。

「…ひとく?」

「秘密だよ。隠すか、或いは消してしまうか」

「何を」

「記憶とか、意識とか、そう呼ばれるものだね。人々の中から存在を消してしまおうと。誰かの目に映り込んでも何も感じないようにさ。敵意も懇意もまっさらにして、これまで築かれた関係性も切り離してしまえばトラブルに巻き込まれることもないかなと考えたんだ。関心を奪ってしまえばもう安泰だろう?」

 勿論、システムを書き換えてだと。それで狙われなくなるのなら、いいことだ。いいことだけれど、

「でも、寂しい、かな」

 寂しいというのは、僕のことを覚えていてほしいからだ。でも理由はそれだけじゃない。彼女にしてみても、孤独に生きることになって、生きていくのが辛くなると思えたから。これからまた築けばいい、なんて前向きな言葉は僕の口からは出そうにもない。全てやり直しだなんて、悲しくって。気力も何も残されないだろうと想像する。

 過去は戻ってこない。その過去でさえも、失ったらどうなってしまうのか。何もかも削られてなくなるのが僕は怖い。彼女がそうなってしまうのも。彼女にそうさせてしまう自分も。

「…嘘つき」

「えっ…」

「いや、まあ、何とかしてみよう。僕の方で閾値なんかを試してみるから」

「えーと、何?」

「関係性が一定以上高い人たちは、消えないように頑張ろうってこと。そんな物体もない何かを上手く数値化できるものなのか分からないけれど、それで彼女の周りに何人残るのか、僕も興味があるから。ただまあ、それは負の関係も然りだ。これで事故を解決できるものか、正直なところ分からない」

「僕は、何か手伝うことあるかな」

「ないね。君は…そうね。願ってなよ。君たちの関係性が消えないことをさ」

 なんだ。そんなこと大丈夫だよ。僕には自信があるんだ。愛されてる自信が。それに、どんな彼女でも、僕は受け入れる勇気がある。

 僕の怜奈さんは、きっと僕を見てくれている。


    4


 それから、また改変の日々が始まる。前回のことで怜奈さんが轢かれることは滅多になくなり、嬉しいことに、翌日もまた会えて、昨日のことを覚えてくれている時もあった。けれどそれも数日に延びることでしかなかった。苦労して命を繋いでも、ふとした拍子に消えてしまう。今も赤い花を繰り返し描いている。

 この生活に伴う脱力感は、以前の何倍にもなった。その日にやり直せていた頃が懐かしく感じるくらいに、リトライのダメージが精神的に重くて、辛くて、いっそ明日には駄目になってればいいのに、なんてね。考えてみたりもした。まだ二、三回がいいところなのに、もう挫けかけている自分がいる。

「……」

 嬉しいことを、考えてみようか。何かあったっけ。例えば、そう、明日ができたこと。また明日会えることで、今日の頑張りが無駄にならなかったこと。朝には「おはよう」と声をかけてもらえて、これまでいつも、第一声は「久しぶり」だった。その前には「あれっ」と驚きの様子を挟んでいた。いつも驚くから、どうして驚くのか訊き返したくもなっていたんだ。嫌というほどの反応を見続けていたから、だから、変化があることはいいことだ。

 明日に会う顔が、楽しみでもある。決まっていた未来が広がって、想像する喜びを得られるから。それだけでも、まあ満足じゃないか。満足じゃないかと、自分に言い聞かせている。そうなろうとしている。

 …だけどまだ、僕は飽きられずにいる。

「やあ、おはよう」

 その怜奈さんはというと、今日は何だか疲れてそうに見えた。気のせいかもしれない。変化が少し加わったために、あれもこれも前とは違うんじゃないかと、そういう風に思いたい気持ちもあったから。

「調子はどう? 最近寝れてる?」

 彼女は首を縦に振りながら、あくびを我慢するように口を膨らませた。風船のようなほっぺたで、すべすべしてもちもちした感覚なんだろうなと、肌触りを想像してみる。

 可愛らしいな。そんな感情が湧き起こってくる。何だか怜奈さんが幼く見えて。僕は、保護者になった気でいるのかもしれない。

「うーん、まあね」

「何かあるなら、相談乗るよ。僕だって怜奈さんの役に立ちたいからね」

「そう。頼もしいね。維歩君」

 急に名前を呼ばれてドキッとする。胸の奥をギュッと摘まんだみたいに。でも、嬉しかった。やっぱり覚えていてくれたことが。彼女にとって僕が特別だという証明が、今は何よりも嬉しいことなんじゃないか。だって彼女は、本当はもう実在しないんだから。

「維歩君」

「何?」

 呼ばれて振り向く。怜奈さんの顔は隠れていた。

「あのね。もし私が重荷になってるのなら、言ってほしいな」

「え? どうして、そんなこと言うのかな」

「だって…ううん。なんとなくね。維歩君、何だか辛そうに見えたから」

「僕が?」

「うん。気のせいかもしれない。だけど、もしそうなら、私は君の足枷にはなりたくないなぁ」

「足枷って…」

 その表現の仕方に戸惑ってしまう。あまりにもへりくだった言いようだったから、僕の好きでやってることなんだと、そう伝えてあげたいなと感じた。僕と怜奈さんとの認識のすれ違いが、こうしたところに現れているんだ。

「君はさ、自由に生きていいんだよ。私なんかに躓いてないで、自分のために生きていいんだ。君にはその資格がある。自由があるの」

 それはもう、何度も聞いたことだ。だからこれは、自分で選んだ生き方なのに。これが僕の自由なのに。なのに、みんな僕を心配する。僕の答えに不満があるのか。それとも、不服なのかな。僕のしていることは。

「怜奈さんは?」

「え?」

「怜奈さんには、ないの? 自分のために生きる自由」

「それはね、」

 僕の側で静かに瞳を閉じる。僕はただ、彼女の横顔を見つめるだけ。風に揺れる髪を目で追いながら、ゆったりと持ち上げられた右手を視界の隅に捉えて、行き着くのを待った。彼女はその手を唇にあててから、人差し指を空に向けて、他を軽く握った。

 そのままの姿勢で、彼女は何も言わなかった。耳を澄ませて風を肌で味わっているような、そんな穏やかな顔でじっと立っていた。僕の居ないところに彼女は一人居る。共有できない心の壁のようなものが存在して、僕の知らない彼女がこういうところで顔を覗かせているんだと。

 僕はどうしたらいいのか。その心境について理解できるようなるべきか。ならなくて、いいのか。それで満足できるなら、僕にとって怜奈さんとは何なのだろう。友達か。恋人か。

 僕は多分、家族に似た感情を抱いているんだろう。姉がいるような感覚。きっと、そうだと思いたい。愛されたいのだから、間違ってはいない筈だ。でも、でも、それでは物足りない何かがあって。僕はもっと特別な存在でありたいと、そう感じる。そんな自分の一面が、心の奥のどこからか浮上してきて、足にしがみついて、僕を溺れさせる。

「僕は平気だよ。怜奈さん。僕の幸せは、君と一緒にいられることだから。僕は好きでこうしてるんだ。これが選び取った気持ちだから」

 彼女は驚いた顔で僕の言葉を受け取った。それから少し、恥ずかしそうに耳を赤らめてそっぽを向いてしまった。口をつんと尖らせて。

「私はね、君が思うような大した人間じゃあないんだよ。それでも、君は私に構ってくれる。前からずっと、がっかりしてたんじゃないかな。もう、付き合ってくれなくてもいいのに」

「一人がいいの?」

「うん。昨日から考えてたんだ。私、これまで人の視線ばかり気にして生きていたんだって。私は私なのにね。誰も私なんか見てない筈なのに、なのに、気取ってたのかな。いつか救われるかもって。いつか、罰が当たる筈なんだって」

 罰。罰って何だろうか。怜奈さんに罰。そういえば前に、ふと耳にしたことがあった。いつだったろう。多分今年になってからだと思うけど。

「…怜奈さん」

「何?」

「ずっと、訊きたかったことがあるんだ。訊きたくて、訊けなかったこと」

「うーん、何かな? 遠慮しなくていいのに」

「怜奈さんは、その…。父さんの知り合いから聞いた話なんだけど、もしかしたらって。もしかしたら、怜奈さんが、今回起こってる連続殺人に…」

「犯人だって、言ってた?」

「え! いや…何と言うか…、疑ってたような、感じ」

「そうなの」

「…うん」

 僕は自ら訊いたくせして、いざ答えが返されると思うと怖くて仕方なかった。それまでの静かな間も気まずくて、けど沈黙も、破れないままの方が傷つかなくて済むのにと、そんなどっちつかずのことを考えながら、結局訊いてしまったことを後悔した。

 後には、退けないんだ。僕はこうするしか。

「…そうね。多分、私なんだろうね。あまり記憶がないけど、でも、私のせいだから。みんな私のせいだから」

 待っていた答えは、思いの外歯切れが悪いものだった。どう捉えていいものか、悩ましい。記憶がないというのも、生き返ってから怜奈さんの記憶はぐちゃぐちゃに混濁していて、亡くなったあの日と今とを無理矢理に繋げた状態らしいからだ。神様は最初の日、僕にそう告げた。だから正直、どこまで、どこからあてになるものか、彼女の言葉を受け止めることができなかった。

「じゃあ、よく分からないんだね。うん。それでいいよ。僕はそれでも。曖昧なままでも、いい」

「ううん」

 彼女は首を左右に振ると、視線を落として地場たを眺めた。そこは日向か日陰か分からない、薄明かりのベールをかざしたような地表だった。飾り気のない曖昧な世界、これが本当の世界か、なんて。倣ってぼんやりと見つめる僕を、いつの間にか彼女は向き直していて、僕の目に飛び込むように言った。

「私だよ。私が殺したの。それは間違いないと思う」

「えっ」

 口をついて出る。真っ白になって、その先は考えられなかった。けれど後退りする僕をその目は離さない。たじろぐ僕を。射抜くような真っ直ぐな瞳は、待ったをかけず僕に追撃する。

「ねえ、維歩君。人を助けることも、殺すことも、根本には同じものがある。だから、どちらかを選ぶことはできない。どちらかだけを」

「わかった、わかった」

 怖くなって、僕は思わず彼女を遮った。これが僕の知らない、彼女の本当の一面なんだろうと予想しながら。でも、知ってしまうのが悪い気がして。

 本当なら、僕は知るべきなんだ。彼女のことをもっと理解するべきなんだ。なのに、僕は逃げている。彼女のことが、もっと欲しい筈なのに。

「さよなら、維歩君」

 怜奈さんは、一人歩いていってしまう。僕から遠ざかって、過去へと帰っていくように思えた。その背中は、孤独を抱えた、去年までの僕の姿を思い返させるもので。怜奈さんに会う前の、あの時の寂しさが、冷たさが、他の誰かへとのし掛かっているのを感じた。それも今、僕の大切な人へ降りかかっている。

「うん…またね」

 またね。僕に言えたのは、それくらいの言葉だった。それくらいの重みしか、僕は渡すことができなかった。

 もう一つ、訊きたかったことがあった。彼女にとって、僕はどういった存在だったのか。僕らの間柄は、どこまで特別になりえたんだろう。でも、結局は言えなかった。殺した、という告白に怖じ気づいて、僕の方から目を逸らしたんだ。

 殺人鬼が恐いわけじゃない。怜奈さんがそうだったのは、そうだったように答えたのは、ちょっとショックだったけど。あの目はきっとそういうことなんだろうと思ったけど。でも、本当に怖いのは、これまでの僕の認識が変わってしまうことだ。美しいままにしておきたかった彼女に、傷が、ひびが入ってしまうことが、怖い。腸が煮えるように、僕の精神が根底から崩れるんじゃないかと。そんな心配をして、寝静まった夜のベッドの上で苦し紛れの寝返りを反復しては、中々寝付けないことに苛立ちを募らせた。

 きっと明日には、彼女はもう消えている。これまでの経験がそう告げていて、別れ際にも、そんな予感がしていた。死因を考えるのは、それからでいい。悲しむのも終わってからでいい。


    5


 翌日、僕は神様に会った。彼は彼女のことを教えてくれた。あの後、どう死んだのかを。

 怜奈さんは、急に刃物を握って、自分の喉に突き立てたらしい。即死だったよ、とも彼は言っていた。ショックだ。あまりにも。なぜなら、彼女が自殺したのは初めてのことだったから。これまでは運が悪かったから上手くいかなかったと考えていたけれど、今回の死亡でそんな期待は幻滅した。

 報われないんだ。どうせ無駄になる。勝手に亡くなられて、防ぎようがなくて、それに、生きたいと思ってもいないんじゃ、僕が必死なのは馬鹿みたいじゃないか。裏切られてばかりで。

 諦めた、とは言わない。けれど、どうしても立ち上がるための何かが欠けていた。方向性。そんな風に呼ばれる何かだった。がむしゃらに頑張る希望はもう、埋葬され、骨だけの空洞になっていた。

 次は、どうしよう。どんな死に方が待ってるだろうか。どんな風に僕から消えていくのか。

「…あは、ははは」

 入院してた時のように、寝っ転がってただ、時間が過ぎるのを熱望している。空が赤から黒ずんでくる度に、無性に寂しくなっては、戻りたくなって。そんな時間が近付くと、僕はこうして笑うことにした。笑ってると、脳を誤魔化せるんじゃないかと考えたから。変な物質でも出て、楽になれるような気がする。

 あれから一度も、まだ日も浅いけど、一度もやり直せていない。拒絶された気分も少しあって。必死に生きさせる方法を模索してる中、彼女にその助力を振り払われたような思いが拭えない。もしかしたら今までも、彼女の意思で失敗していたんじゃないかと頭に過る。すぐに否定するけれど、じゃあなぜ、今回彼女は命を絶ったのだろうか。分からないのが辛くて、僕を苦しめている。

 足りないんだ。僕には、その側面を理解できるような情報がない。だからきっと、やり直しても繰り返してしまう。また殺してしまう。それが、精神的に負荷をかけ、僕を足止めしているのは言うまでもないことだ。分かってはいるけど、いいように僕は、何も掴まずにこうして目を逸らし続けている。何もない宙に、答えを求めている。

 そんな無意味な日々が過ぎていったある頃、一通の小封筒が家に届いた。僕に宛てられたその中身には、短い手紙と、長方形をした小さなカードが入れられていて、僕は流し目で追った手紙の中に、東雲怜奈という文字を発見した。

 焦る気持ちで目が滑り、行って戻ってを何度も繰り返す。抽出された単語をだんだんと結びつけて、文に繋げて、誰が、何を、どうするのか、そんな風に字の意味を断片的に掴んでいった。僕は高鳴る鼓動を脳のスピードへと落としながら、書かれた内容を頭で復唱し、そして理解した。

 差出人は、怜奈さんの遺族を名乗っていた。そして、同封されたカードは招待状だということだ。彼女のことについて話があると。そう言って、集会の場を設けようとしている。

 これは戦いだ。僕には、そんな匂いがした。

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