2.旅人と囚われた竜
サブリナには家がない。人生の大半の夜を、野外の天幕で過ごしてきた。
物心ついた頃には旅から旅への毎日だった。親の顔は知らないが、育ててくれたサーカス団のことは憶えている。つらい訓練もあったが、身につけた曲芸や体術は今でも役に立っている。
十歳になる頃、人買いにさらわれた。しかし娼館に売り飛ばされるわけでもなく、商家や農家の下働きとして衣食住にありつけた。
最低の中ではかなり幸運だった。子どもが1人で生きていける時代ではないから。気に食わないことに、給金は全て人買いの懐に入ったけれど。
働いては売られ、売られては買われ、買われてはまた働いた。
そして十四のとき、ふと気づいた。自分にも未来があり、意思があり、けれど自由がないことに。
一度でも考えてしまえば、まるで鎖が解けたように心身が軽くなって、思うままに逃げ出した。
運良く出会った冒険者に面倒を見てもらい、一人で日銭を稼いで旅をすることができるようになった。
そうして十七歳になる現在も、あてのない旅を続けている。
そんなある日訪れたのは、辺境の村ルクスだった。
村人たちは主に農耕で生計を立てるか、近隣の街に出稼ぎに行くらしい。飢えない程度の清貧な暮らしが成り立っていて、よく統治されている。ごくありふれた平穏な村だった。
サブリナは深く被ったフードを脱ぎ、村人に笑顔を向けた。短髪と男装のおかげで、青年冒険者に見えているはずだ。
「こんにちは。旅の者です。薬や布くらいしかないが、要り用の物があれば差し上げます。代わりに宿を紹介していただけませんか?」
そう訊ねると、村で唯一の教会へ案内された。立派なつくりの建物で、迎えてくれたのは禿頭の神官だった。
村人の中で彼だけがふっくらと太っている。仕立てのいい服を着て、王都から仕入れたというお茶を自慢げに振る舞ってくれた。畑仕事などしたことがないだろう男だ。
「旅の方なら分かると思いますが、ここでは満足な暮らしもできんのですよ。私が神殿から派遣されて、もう三年ですがね。村人たちの上納金が少ないもんですから」
サブリナは冷めた心で相槌を打ちながら、特別な感情は抱かなかった。やはりごくありふれた光景だったからだ。
「いやあ、私は神を近くに感じておりますから、そろそろ上位神官として神殿に呼び戻されるはずですがね」
俗物的な神官の話はつまらなかったが、そう潔癖でも高尚でもないサブリナは、ありがたく一宿一飯の恩義に預かった。
翌朝、サブリナはやけに早く目が覚めた。
まだ薄暗い中、チャリン、チャリン、と金属音が聞こえてくる。
サブリナはあてがわれた部屋をそっと抜けだし、音のする方へ足を向けた。
しん、と静かな教会内を進む。奥まった廊下の先に扉があった。近づくにつれて、硬い金属音に混じって、何かを地面に引きずるような音が聞こえる。
扉を開いた先は中庭だった。東屋と水汲み場があり、朝日が柔らかく差し込んでいる。
音の正体は、水汲み場にいた。その姿を目に入れた一瞬だけ、サブリナは息をのんだ。
「ーーーやあ、おはよう」
サブリナは、努めて明るい声をかけた。
その人は、布をひっかけただけに見えるボロボロの衣服を纏っていた。肩まで伸びた銀髪に顔のほとんどが隠れ、細い首筋だけが見えている。
ただ、その格好の異様さに目が向かないほどに、彼自身が常人ではありえない姿をしていた。
彼の背中には、竜のような翼があった。鱗に覆われた頑丈そうなそれには、太い鎖が何重にも巻かれている。サブリナが聞いた金属音は、ぶつかり合う鎖の音だったのだ。
背格好からして、同じ年頃の男に見えた。
「……おはよう、ございま……?」
彼はサブリナを見た。陽の光にあたった瞳は、髪と翼と同じ銀色だった。
サブリナは、まるで囚われの天使のようだな、と思った。
「私も水を汲ませてもらってもいいかな」
近づくと、彼はサブリナに譲るように後ずさった。片脚を引きずっている。
「怪我を?」
と訊くが、彼は答えなかった。
サブリナの存在を一切無視するように、背を向けて東屋へと向かう。挨拶を返してくれたのは、ふいをつかれたからだろうか。
サブリナは水だけで手早く顔をすすぎ、タオルで拭った。うら若き乙女としては雑かもしれないが、旅人の身支度としては上等な朝だ。
さっさと歩いて東屋に向かい、彼に向き合う形で座る。彼は怪訝そうにサブリナを見た。
「私は旅人で、昨夜はこの教会に世話になったんだ。神官どのは君のことを何も話していなかったけれど、ここに住んでいるの?」
真っ直ぐに目を見て訊ねると、彼もサブリナから目を逸さなかった。
「……私と会ったことは、神官には言わない方がいいでしょう。旅の方、私のことは忘れてください」
穏やかで、諭すような口調だった。
きっと聡明な人なのだろう、とサブリナは思う。囚われて地に堕ちようと、高貴さを失わない神のようだった。
だが神であろうとなんだろうと、遠慮するサブリナではない。
「ご忠告痛みいる。きっと忘れるから、君が何者でここで何をしているのか教えてくれないか?」
そう言って微笑みかけると、彼は眉を寄せた。警戒は解けないらしい。
「知ってどうするんですか。知らない方が身のためだと言っているんです」
問われると、サブリナにも迷いはあった。ただ一時訪れただけの村の事情に深入りするのは望ましくない。
けれど、サブリナは無性に苛ついていた。鎖に縛られた彼の姿が、自由を制限された様子が、かつての自分と重なって見えたのだ。
だから、一歩踏み込んだ。
「……その翼、あなたは竜人だろう。この国にいるとは思わなかった」
彼は、口の端で笑ったように見えた。
「ご存じなんですね」
「会うのは初めてだけどね」
どこか遠くに竜人の国があるらしい、とは聞いたことがあった。竜の翼を持ち、人間よりもずっと長寿で強靭な種族だと。
サブリナが事情を察していることに、彼は気づいたのだろう。諦めたように口を開いた。
「村人もあの神官も、竜人なんて人種のことを知りません。ただ、古くから土着の神として竜神を祀っていた村です。だから突然現れた私のことを、現人神として祀りあげているのです」
「神だとしたら、ひどい扱いだな」
彼の悲惨な姿を一目見れば、その扱いは想像できた。異質な見た目を畏れられ、崇めながら遠巻きにされているのだろう。
「私は三年前、あの神官に命を救われました。恩があるのです」
「恩返しに神代わりになって、信仰と上納金を集める餌になっていると?」
サブリナは、つい咎めるような口調になる。
彼の目に、深い悲哀の色が見えた。低い声で唸るように呟く。
「この村では、かつて子どもが竜神への生贄にされていたそうです。私がやめさせました。でも、もし私がいなくなれば、また……」
サブリナは、やるせなさに眉を下げた。
「自分を犠牲に、村の子たちを守っているのか」
彼は自嘲気味に笑う。
「いえ、ただの自己満足です」
「翼の鎖と脚の怪我も、神官が?」
そう訊くと、彼は答えなかった。しかし遠くを見るような瞳が、彼の諦念を表していた。
どこかで鳥の羽音がした。
サブリナは肩を震わせた。
「なぜ。なぜ怒らないんだ。人格を無視され、尊厳を傷つけられ、自由も未来も奪われたんだぞ。すべて君のものなのに」
きつく拳を握り込んで、爪が手のひらに食い込んだ痛みで、我に帰った。
サブリナが顔を上げると、彼は穏やかに微笑んでいた。
「ありがとうございます。あなたは私のために怒っているんですね」
勢いをなくしたサブリナは、弱々しくかぶりを振った。深く深呼吸をして、平静さを保つ。できているかは分からなかった。
「悪かった。癇癪を君にぶつけただけだ。ぶつけるべきは君ではないのに……。私には、君のような忍耐力が足りないね」
サブリナは立ち上がった。ここまで立ち入った話を聞いて、それでもやはり関わるべきではないと思い知ったのだ。
サブリナが、つ、と手の中の鉄線を引くと、翼の鎖が小さく音を立てた。サブリナのこれも、きっと自己満足なのだろう。
彼に顔を寄せ、小声で囁いた。
「……鎖は切っておいた。手品は得意なんだ」
彼は目を丸くする。そのきょとんとした顔は、初めて歳相応に見えた。
サブリナは思いを断ち切るように踵を返した。
「話してくれてありがとう。……どうか元気で」
彼はサブリナの背中が扉の向こうに消えるまで、じっと見つめていた。




