14 聖女と氷の辺境伯
アレックスの訃報から二週間が経った。
朝食後、マリンとドロシーは洗面台の前に並び、互いの肩を押し合いながら丹念に歯を磨いていた。
異世界では長らく、聖女マノが対策に乗り出すまで口腔ケアは徹底していなかった。口から中華とアルコールを胃袋に流し入れても、夜、粉だか何だかで適当に歯を磨いて終わり。そして翌朝普通に出勤する。
日を跨いでも消えない、胃からせり上がってくる臭いを発しながら人と喋る。何という恐怖だろう。普通の感覚を持った女子には到底無理な振舞いだ。
マノの功績に大感謝。
大発明の音波振動の合間で、マリンは言葉を発した。
「――パンってさ、美味しいけど死ぬほど歯が汚れるよね。デニッシュ生地とか前歯狙って張り付いてくる」
「クッキー生地もいけません。水分を奪って奥歯に悲劇を齎します。――貴婦人の優雅な扇子が、きったない歯を隠して笑う為のアイテムと思えてきました」
「それだよ。男子の前で口利けないもん。百年の恋も冷める」
「ごちそうさまです」
「そういう意味で言ったんじゃ――そういう意味で言いました」
マリンは食卓を想起した。テーブル越しに対面するシオンの位置が気になる。
隣席のドロシーと席替え決定だ。
口腔ケアとメイク直しが済む頃合い、面会依頼が舞い込んで来た。
北の辺境伯である。
遠方と多忙故に国葬に間に合わなかったという北の一行が、本日王都での用事を終えた後、とんぼ返りの前に郊外の村に立ち寄りたいと神殿を通じて申し出てきた。
「聖女マリン様にご挨拶を――」
遠路はるばるの旅人達からそう請われては断り辛いマリンは「どうぞ」と答えるより他なかった。
出掛ける寸前のドロシーにも確認を取っておいた。
北の辺境伯は彼女の実姉の元婚約者だ。
気遣うマリンに対し、ドロシーは「わたくしは一切関係ありませんので」と興味なさげに答えた。
義兄予定だった相手が来るというのに随分とドライな反応だな、とマリンは目を丸めた。
午前十時。
銀色の詰襟を纏った騎乗の群れが小さな村に現れた。広大な畑を抜け、民家の間を悠然と通過していく。
狩猟館の正面まで来ると「全体止まれ」の号令がかかり、銀色の騎士たちは次々と馬から降り立った。
玄関先で物々しい集団を出迎えたマリンはちょっぴり腰が引けていた。
辺境伯と彼の側近だけを館内に通し、応接間に案内する。
ハーブティーの用意されたローテーブルを挟んで腰を下ろした辺境伯ことトライズ侯爵は、向かい合うマリンに精悍な面相を仄かに緩めて見せた。
「この度は突然の申し出にも拘らずお聞き届けくださり誠に有難うございます」
厳しそうな顔つきが親し気な雰囲気を醸し、マリンは幾分肩の力を抜いた。
「とんでもないです。大したおもてなしも出来ずに申し訳ありません」
「こうしてお会い頂けただけで充分です。しかし、良い村ですね――」
当たり障りのない世間話をする。
北の辺境から王都までは片道二週間近くかかると言う。大変な距離を馬で移動して来たのだ。騎士の体力とは途轍もない。
マリンの予習に拠れば、このトライズ侯爵も聖女エマの時代と同じく「氷の辺境伯」と呼ばれている。といっても家の当主に受け継がれていく伝統のような渾名に過ぎず、冷酷とか冷淡とかいう意味合いは無い。
しかも彼は「氷」の属性ですらない。
その点をマリンがチラッと言ってみるとトライズは苦笑に似た表情を浮かべた。
「我が領は王国一広大ですが深い雪で山道も街道も長く閉ざされる寒冷地です。氷など食傷していますよ」
氷はお腹いっぱいらしい。
これから復路を長旅をしなければならない一行の事情を知ったマリンは、ランチを振る舞う事をトライズに提案してみた。
「尤も、聖女エマのような凝ったお料理なんて作れないのですけれど」
「これは有難い。大変光栄です」
トライズも彼の側近も感激して目を輝かせた。
彼らの素直な反応を目の当たりにしてマリンは完全に肩の力を抜いた。
軍隊の群れだからと不必要に緊張し過ぎていた。
狩猟館には専属の料理人などいないので、大人数分となる昼食の支度は村の女性陣に助けてもらう事にした。
手芸店に出向いていたドロシーは正午前には帰って来た。
北の一行がまだ滞在している事に首を捻った彼女に、マリンは事情を説明した。
そうですの……、とドロシーは気のない相槌を打つ。
瞬くマリンに、彼女は横目を向けた。
「彼ら、あまり長居させない方がよろしいかと」
「やっぱドロシー、北の人たちがいたら嫌だ?」
「そこはどうでもいいです。ただ、北の辺境伯とて聖女を欲しいと思っている筈です。一応ご注意くださいませ」
「考えすぎだよ。だって私、魔法使えないんだよ」
使えない事を貫き通す。
マリンの意志をシオンとドロシーにだけ伝えてある。
「魔法使えない。発明出来ない。しかも狩猟館にひきこもってて聖職者業務すら放棄してる。引きニートだよ。こんな聖女に誰も用無いでしょ」
手芸業務も秘密裡だから現状マリンの聖女実績はゼロ。とんだ穀潰しだ。
ドロシーは顔に懸念を滲ませたまま「とにかくご用心を」と釘を刺した。
庭の芝生に白い椅子とテーブルを並べたささやかな宴会場で、客人達にホットドッグが振る舞われた。
「パンが最高!」と称賛されれば、マリンは「聖女マノに乾杯です」とグラスを掲げ、「ピリ辛のソースが最高!」と絶賛されれば「聖女マナに乾杯」とグラスを掲げた。
同じテーブルに着くトライズが逐一歴代聖女たちに乾杯するマリンに苦笑した。
「随分と謙遜されるお方ですね」
「料理上級者のエマの事ですから、きっとホットドッグと似たパンを開発している筈ですよ」
「私は先祖が齎した全レシピを把握している訳では無いので」
先祖と聞いてマリンは今更ながら気付いた。
現当主たるトライズは直系子孫。エマの血縁者なのだ。
――王室にはいないのに辺境にはいる。
とても不思議な気がした。
腹を満たした一行がわらわらと席を立つ。
出立の気配を見て取ってマリンも椅子から立ち上がる。
「ご馳走様でした」起立して頭を下げたトライズを見て頬が緩んだ。
「そのご挨拶って、エマが?」
「はい」
子孫であるトライズが誇らしげに笑む。マリンは感動した。
日本の作法が途切れる事無く何百年も受け継がれている。
それはどんな魔法や発明品よりも価値がある事と思えた。
館の正面門まで客人達を見送る。
敷地から出たトライズは颯爽と騎乗し、マリンを肩越しに振り返った。
「それではマリン様。またいつか――」
「皆様、道中お気を付けて」
左右に手を振るマリンの頭上に「お世話になりました」、「ご馳走様でした」の声が飛び交った。
綺麗な隊列を組んだ騎馬の集団が村の出口に向かってゆっくりと動き出す。
またいつか、と念じながらマリンは遠のいていく彼らの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
女性陣らの手を借りて宴会場の後片付けをしていたマリンは、黙々と作業をしているドロシーとシオンを見る。
同じ丸テーブルにいたのに二人共全然会話に入って来なかった。
ドロシーなど、素っ気なくトライズと挨拶を交わしたきり一切の口を噤んでいた。トライズもドロシーを気にする素振りはなかった。彼の方は気遣いからの敢えての無視だったろうからマリンは下手に突っ込まなかった。
にしたって、みんなで一緒に食事をした意味が無かった。
急に不満が込み上げてきて、マリンは手にしていた布巾をドロシーの腰の辺り目掛けて放った。べしっとヒット。
きゃーきたなーっと騒いだ令嬢は、憤慨しながら芝から拾い上げた布巾をマリンに投げ返す。
トレイでさっとガードして攻撃を回避したマリンは、一頻り笑った後に告げた。
「なんかずっと大人しかったね、二人して」
反撃が上手くいかず頬を膨らませたドロシーは、ぷいっとマリンから顔を背けた。
「別に。彼らと仲良くする義理などありませんもの」
確かにドロシーとトライズの予定されていた「義理」は消滅している。
やれやれとマリンはシオンにも目を向ける。
彼もドロシー同様、マリンから視線を逸らした。
「……私は本来、同席は勿論のこと侯爵閣下と気安く口を利いて許される身分ではありませんので」
ドロシー以上にやれやれという気分になってマリンは深く嘆息した。
「私、そういうの分かりません」
「……貴女は、聖女ですから」
「なんでもかんでも聖女。便利なんだか不便なんだか」
日本企業に入社して日の浅い外国人社員が、社長相手にうっかりタメ口を利いても許される感覚と似ている。
やれやれのまま後片付けを済ませて、料理から掃除まで請け負ってくれた村の助っ人女性陣にギャラを弾んで館内に戻る。
今日は手芸作品に一つも着手出来ていない。
自室に引っ込んで作業を進めるとマリンが告げると、ドロシーは「わたくしはシャワーを浴びます」と宣言した。
「誰かさんの所為で服がきったないので着替えついでに」
「そんな根に持たな、――ごめんってば。心底謝るから睨むのやめて」
般若の面みたいなドロシーをどうにか宥めてバスルームに送り出して、マリンは二階の自室に入る。マリンの後ろからシオンがついて来た。
部屋に入り、ドアの閉まる音を背中に聞いたところでシオンを振り返る。
正面から彼に抱きつくと、シオンが静かにマリンの薄い背に両腕を回してくれた。
鋼の感触にがっかりしながらマリンは胸元からシオンを仰ぎ見る。
「違ってたらごめんなさい、なんですけど」
「はい」
「侯爵閣下がいて、嫌でした?」
シオンの両眼が細くなった。
「面白くはありませんでした」
マリンはにいっと笑みを浮かべた。
「まさか嫉妬しちゃいました?」
シオンはマリンを引き寄せ、俯くようにマリンに額を寄せた。
少しスパイシーなハーブの香りが近付く。
「嫉妬しました」
「最初からヤダって教えてくれてたら私、ランチをご馳走するなんて彼らに提案しなかったのに」
「それはあまりにも大人げないし男らしくない」
「今の貴方は大人げがあって男らしい?」
「――もう黙って」
二人の唇が重なった。キスをするのは四回目になる。
私たちって変、とマリンは痺れた頭の片隅で思う。
まだ手を繋いだ事が無いのにキスは済ませている。
手より先に唇が直に触れている。順番が可笑しい。
唇の隙間で囁いた。
「シオンさん好き」
「――私の方が絶対に貴女を好きだ」
「ムキになって大人げない」
「黙って」
言われた通り黙った。五回目――。
この後バスルームから部屋にやって来たドロシーは、二人の醸す妙に余所余所しい空気を敏感に嗅ぎ取って「嫌ですわ、もー」と苦情を告げた。
「そういう事は夜になってから好きなだけなさって!」
「何の事やら」
マリンもシオンも白を切った。




