第8話 パーティー編15
無表情で右足の指の間のうじ虫を左手で取ったハルカは、剥がれそうな二の腕の肉を右手でしっかり押さえ、暗い目でふらりと立ち上がった。
“それ”が四つん這いになった。
部屋はすぐそこだが戻れない。
ハルカは出来るだけ急いでエレベーターへ向かった。
左腕には赤い線が何本もでき、指先からは赤い雫が絶えず滴っている。鮮やかなブルーのドレスはどんどん悲劇色に染まっていく。
激しい眩暈に視界を奪われながらもなんとかボタンを押したハルカは、エレベーターに背を向けた。
“それ”が追って来ないか目を凝らしたが、辺りはしんとしていた。夢だったのではないかと疑いたくなるが、爪の食い込んだ頭皮の痛みと食べられそうになった二の腕の痛みが、現実だったことを主張していた。
エレベーターが来た。誰も乗っていない。通路から目を離さないまま乗り込んだハルカは、ボタンを押して扉を閉めた。
どこに行くかは決めていた。
エミリオの待つ、Dデッキだ。
そこまで行けば、なんとかなる気がした。きっとそこまで行けば、この痛みも消え、血も止まる気がした。根拠もなく。
エレベーターを降りてDデッキまでの通路を進んでいたら、さすがに人に会い、女性なんかには悲鳴を上げられた。
しかしみんなすぐに、大丈夫──とか、いったい何があった──とか、親切に接してくれた。
他にも何か言ってきたが、今のハルカに早口の英語を聞き取る余裕なんてなかったし、ほとんど耳が機能していなかったので意味がなかった。
もはやDデッキに出ることしか頭にない。
人が多くなってきたので、ハルカは最後の力を振り絞って通路を走った。振りきるように。
短い螺旋階段を下り、また通路を走って左に曲がると、やっと重い扉に辿り着いた。
もたれ掛かるように、ゆっくりゆっくり木製の扉を押し開ける。潮の香りが鼻孔をくすぐる。冷たい風が剥き出しの肌を刺す。
よろよろと数歩進んだあと、少し前までエミリオと座っていたベンチへ視線を向けると──そこにはエミリオと、ハイコとチヒロもいた。
(……あぁ……もう、大丈夫だ……)
安らかなまどろみを感じたハルカの全身から、力がすうっと抜けていく。瞼が勝手に下りていく──。
もう、大丈夫……。
ハルカを求めてホールを歩き回っていたハイコは、途中でチヒロを見つけたので、とりあえず一緒にDデッキへ出た。そしたらそこにいたエミリオがハルカはもうすぐここに来ると言ったので、雑談をして待っていた。
船内へ繋がる扉が開いた瞬間、姿も見えていないのに絶対ハルカだと思ったハイコは、恋する乙女のように胸をときめかせた。しかし、そこから出てきたハルカの惨状に、表情は一気に強張る。心は凍りついた。
ハルカは右手で左の二の腕の外側を押さえていた。右手も左腕も、前髪から僅かに覗く白い額もドレスも、真っ赤に染まっていた。まだ止まっていないのか、左手の指先からは鮮血が滴っている。
「ハルカ!」
最初に行動したのはエミリオだった。へたりこむハルカに駆け寄って背中を支える。
「ハルカちゃん!」
チヒロも駆け寄って膝をつく。
ハイコはあまりのショックに顔面蒼白になり、躓きながらゆっくりハルカに近寄って行った。
ハルカの編み込みはほどけていて、黒薔薇のコサージュもなかった。ミュールも履いていない。下を向き、震えながら荒く息をしていた。
「ちょっと見せてください」
短く言ったエミリオが、二の腕を押さえるハルカの右手をそっと剥がした。
それは、明らかに歯形だった。深く入った溝は、もう少しで食い千切られそうだったことを物語っていた。転んでこんな怪我をすることはまずない。
突然、ハイコは振り返ってきたエミリオに左胸のポケットチーフを抜き取られた。エミリオはそれでハルカの二の腕をぎゅっと縛りながら、余裕なさそうな口調で、
「どんな奴でした!? 今すぐ僕が殺してきてやります!」
ハイコは、物騒なことを言うエミリオを今だけは叱る気にはなれなかった。
「……っ……」
辛そうにエミリオを見上げたハルカが、何か言おうとした。薄い唇が微かに開く。しかし、ふっと、糸の切れた人形みたいに動かなくなってしまった。
「ハルカ!?」
頬を触って呼びかけるエミリオ。目を開けないハルカ。
「とりあえず医務室に運ぼう! 誰か一回行ったか?」
チヒロの問いにハイコは首を横に振り、エミリオは、「行ってません」と答えた。シフトで一気に行くことはできなくなった。
舌打ちをしたチヒロがハルカを抱きかかえようとしたので、ハイコはやっと言葉を発した。
「私が運ぶよ」
チヒロの答えを聞く前に、ハイコは意識の無いハルカを大事に大事に抱きかかえた。そしてエミリオが開けてくれた扉に入り、通路を駆け出す。
何事かと群がる乗客達は、チヒロとエミリオがどけてくれたので走り易かった。
この中にハルカを襲ったヴァンパイアがいるかもしれないと思うと、その心配そうな顔も傷ついたような顔も、全部嘘っぽく見えてしまった。
◆
(きゃあぁぁぁーーっ!)
鳥肌が立つほど衝撃的な光景に、幼き少年ヴァンパイア──ユアン・クロスは心中で少女のような悲鳴を上げた。
(あぁわわわわわ──)
がたがた震え出したユアンは無意識に口に手を当て、壁に背中を押し付けた。
豪華な装飾が施された1等客室通路には、会いたかったけれど会いたくなかった目標がいた。
目標──エンプティーE4201は、四つん這いになりながらゲロゲロ吐いていた。うじ虫が混じった血を。いや、血が混じったうじ虫を? どっちにしたってありえないくらい気持ち悪い。
ユアンは、見つけたら私に報告に来なさい──というジェックス先生の言葉を思い出した。
見つけたから報告に行こう。
戻ろうとしたユアンだが、もう一度E4201を振り返って、「あのー……」と怖ず怖ず声をかけた。
「もどりませんか? エンプティーさん……?」
その時、E4201がこっちを向き、「ギャア゛ッ」と怪鳥のような鳴き声を発した。血とうじ虫の涙を流す目は白目を剥いている。完全にホラーだ。
「ヒィッ!」
上擦った声を上げ、飛び上がるユアン。
「やっ! やっぱりいいです! そこでずっとそうしててくださいぃぃいぃぃ」
今度こそ戻ろうとE4201に背を向けたら、背後からバリバリメキャメキャという尋常じゃない音が聞こえてきたので、また振り返った。
近くの客室の扉に大穴が空いていた。怪力エンプティーからしたら木製の扉なんて紙同然なのだろう。
穴の中からガラスが割れる音がした。
吐瀉物を踏まないように気をつけながら扉に近づき、暗い部屋を覗くと、E4201はちょうどベランダを降りたところだった。
ユアンは部屋に入ってベランダまで行き、下のデッキを見渡したが、E4201の姿は見当たらなかった。
「中々戻って来ないから心配した。何があった?」
ジェックスのいる海中へ戻り、ユアンはあったことを全部報告した。ホール近くのデッキで何人かの乗客に姿を見られたかもしれないことも、ちゃんと話した。
「……そうか。とりあえず怪我はないな?」
ジェックスは特に怒ったりはせず、ただ淡々とそう訊いてきた。「はいっ」と頷くと、
「ならいい。ユアン君は魔法陣製作作業に戻りなさい」
「えっ? いいんですか?」
ちょっと驚いて訊くと、
「話しの様子だと、E4201は完全にレベル4以上になっている。危険だから、まともに魔法が使える別のヴァンパイアに頼むことにする」
ジェックスは胸ポケットから手帳を取り出し、それを眺め始めた。
“まともに”魔法が使える別の──。
ショックにくじけそうになったユアンだが、おとなしく最初の持ち場に戻った。
船底の巨大魔法陣は完成間近だった。隣の先輩達の話しでは、遠隔爆破魔法陣の設置も開始されたという。
その魔法陣は、通信アンテナやブリッジ、船底に数個作る予定になっている。乗務員にどうしても姿が見られてしまうので、何人かは強制シフトで拉致するらしい。そしてその役はドイツからシフトしてきた検索されない身分の高い大人達がやることになっている。
◆
広々とした医務室には個室がいくつかあった。現在ハルカは一番左の部屋で治療を受けている。
ハイコとチヒロとエミリオと使い魔の2匹は、その部屋の扉が見えるソファーの周りで、ただひたすら待っていた。
治癒術が使えるヴァンパイアは少ないので、ハイコ達の友人──セシリアもボランティアとして治療に参加していた。そのセシリアは5分前に一旦出てきて、ハルカの様子をハイコ達に教えてくれた。
現在ハルカは輸血と、治癒術の使えるヴァンパイア達の増血魔法を同時に受けており、運び込まれた時よりは容態は安定してきているそうだ。二の腕の傷はまだ半分しか塞がっていないが、頭皮の傷は治癒術で完治したという。
ちなみにこの船の乗務員は船医も含めて全員、ヴァンパイアかヴァンパイアに理解のある人間なので、治癒術を堂々と使っても驚かれたりはしない。
セシリアの報告で少しは落ち着いてきたハイコだが、まだ気が気じゃなく、バトラーに出されたレモネードにも口をつけず医務室を行ったり来たりしていた。チヒロはソファーに腰掛けて腕と足を組み、黙って目を閉じている。その横にはすっかり耳の垂れた三毛猫の社長が座っている。社長の背中には空色の小鳥のエリザベスが乗っている。
壁に寄りかかり、さっきから物騒なオーラを放っているのはエミリオだ。そのエミリオが突然、寄りかかったまま背後の壁を拳で叩いた。無言で一度だけだったが、穴が空くんじゃないかというくらいの凄まじい音だった。
「壁に罪はないぞ」
エミリオの方は見ず、低い声でチヒロが叱った。
「どうして牧野はそんなに落ち着いていられるんですか! ハルカは殺されかけたんですよ?」
語気を荒げてチヒロを睨むエミリオに、チヒロはゆったりとレモネードを口に運びながら、
「へぇ。落ち着いて見えんのか。腹ん中じゃちょうど犯人の内臓生きたまま引きずり出してる最中なんだけどなぁ……。ふふっ、ははっ」
暗い笑いに合わせてチヒロの肩が揺れる。長めの黒い前髪が両目を覆い、余計ダークな雰囲気を醸し出していた。
「チ、チヒロ? なんか怖ぇぞ」
怯えたように言ったのは社長だ。
チヒロはそんな社長を持ち上げて膝の上に乗せ、ぎゅっと抱きしめながら、
「冗談だよ。それくらい許さねぇってこと」
表情も口調も真面目だったが、前髪から覗いた双眸にはちゃんと光が宿っていた。




