第8話 パーティー編14
エレベーターが故障でもしない限り誰も通らないということを見越して、この踊り場で休憩していたことも、突入開始時刻まで“持ちそうにない”から処分覚悟で脱走してきたことも、自分の正体のことも、全部忘れてしまっていた。
しかし、かろうじてまだ忘れていないことがあった。
それは、人間に復讐をすること。残酷な虐待をすること。
できれば人生の甘い部分しか知らない金持ちども──低能クズ男と尻軽バカ女に。
今こそ怨みを晴らすべき時なり。
「う゛ぅ゛ーー……」
獣のような低い声を出し、血走った目で“彼”はふらふらと立ち上がった。喉は壊れ、言語はもうとっくに出なくなってしまった。
両目から流れる血も耳から垂れる変な汁も、鼻血もよだれもそのままに、“彼”は非常階段の扉を開けた。
目の前に広がるのは──高級感漂う落ち着いた雰囲気の、1等客室通路。
◆
Dデッキへ出た時はホールの熱気で身体が火照っていたのに、今はもうすっかり全身冷え切ってしまっていた。けれど心の方は温かかった。それに軽い。とても安定している。
たくさんしゃべるのは苦手だったけれど、さっきは比較的落ち着いてしゃべることができた。
満天の星と、言いたくないことを訊いてこなかったエミリオのお蔭かもしれない。
時と場合と相手によるけど、誰かと会話をするのは精神衛生上とても良いこと──。そんなことを以前、カウンセリング中にチヒロが言っていた。
あれは本当だったんだ。
エミリオとの距離も縮まった気がする。
それは不快じゃなかった。
できるだけこの精神状態が長く続けばいいと願いながら、ハルカは足取り軽やかにエレベーターを降りた。その瞬間、せっかくの安定は一瞬で崩れ去ってしまった。
凍りつくように固まったハルカは、動けないどころか息さえ忘れる。
“それ”は、この豪華客船スリーピング・キャット号で一番豪華な造りの1等客室通路を、異様な空間へと変貌させていた。“それ”が発する存在感はそれほど強烈なものだったのだ。
見た目は白人で、ブラウンの髪の青年だった。上下共白っぽい囚人服らしきものを着ている。
体格に特筆すべき点はないが、首から上の様子がおかしい。両目からは赤黒い血が流れているし、耳からは魚肉ソーセージと黄色い絵の具をぐちゃぐちゃにミックスしたような変な液体が垂れているし、鼻血もよだれもだらだらだし、何より頭皮の一部が頭蓋骨が覗くほど深くえぐれていた。
肌が露出している両手や首には、青カビのような粉を吹いている部分や、皮膚が溶けたようにどろどろになっている部分もあった。そこからなのか、5メートルは離れているのにさっきからたまごが腐ったような不快な臭いが漂ってくる。
「ヒヒッ、ぐぁが……」
ずっと肩で荒く息をしていた“それ”が、ニタァと笑って低い鳴き声を発した。興奮してきたのか、息がさらに荒くなった。
これはハロウィンの仮装などではない。人間でもヴァンパイアでもない。ましてや酔っ払いなんかでもない。
“それ”が両腕を前へ伸ばし、よろよろと近づいて来た。
ハルカの心拍数はどんどん上がる。鼓動で身体が揺れてバランス感覚を失いそうだった。
逃げろ!
本能がそう叫ぶ。
正体なんてそんなのどうでもいい。とにかく、早く、目の前の“何か”から遠ざからないと。
ハルカはエレベーターを振り返った。しかし、エレベーターは2基ともずっと下の階へ行っている。
諦めたハルカはそのまま右の方の通路を──走り出そうとしたが足が縺れて俯せに転んでしまう。絨毯がふかふかだったので痛くはなかったが、手足が震えて上手く立てない。
“それ”の息遣いが背後で大きくなる。
たとえば、嫌いな害虫が今すぐ上から大量に降ってくるかのような、そんな気が狂いそうな悪寒をハルカは感じていた。
エミリオの言っていた“嫌な予感”とはきっとこのことだったのだ。
脱げたミュールもそのままに、ハルカは絨毯を蹴って立ち上がった。走りながら後ろを振り返ろうとしたら──真横を猛スピードで“それ”が通り過ぎた。発狂したように笑いながら。
ハルカがア然として立ち止まると、“それ”も立ち止まってこっちを向いた。間髪入れずに大股で近寄って来た“それ”が、ハルカの頭部を片手でガシッと掴んできた。硬い爪が頭皮にどんどん食い込んでくる。
「うっ……あ……あぁっ……!」
物凄い圧迫感と痛みに声を上げたハルカは、“それ”の指を引き剥がそうと試みながらしゃがみ込んだ。
どんなに引っ張っても指は剥がれない。頭は今にも割れそう。爪が食い込んだ部分から流れた血がこめかみを伝う。腕もそんなに太くないし、筋肉はむしろなさそうな体格なのに、異常な力だった。
意識が朦朧とする中、ハルカは“それ”の手首に爪を立てた。すると、ぼろっと肉が取れた。まるで乾いて硬くなったパンみたいな感触だった。
戦慄が走ったハルカが恐る恐る手の中を見ると、そこには緑色のパンのようなものがあった。そしてその中には──うごめく大量のうじ虫が。
「やっ! いやあっ!」
悲鳴を上げたハルカは千切れんばかりに手を振った。それでも取れないものは潰さないように気をつけながら、絨毯に擦りつけて落とした。見るのも嫌なのに、手につくなんてありえなさすぎた。
声に驚いたのか、“それ”がやっと頭から手を離した。五指についているハルカの血を舐めた“それ”がいやらしく下品に笑ったが、ハルカはそんなのよりうじ虫が手についていないかチェックすることで頭がいっぱいだった。落ちた黒薔薇のコサージュにもまったく気がつかない。
「はぁっ、はっ、はっ、はっ──」
過呼吸になり、半狂乱になりかけながらも右手を隅々まで見ていると、突然“それ”が雄叫びを上げた。びくっと震えて見上げた瞬間、“それ”が急に襲い掛かってきた。
「うっ……!」
肩を絨毯に押し付けられて息が詰まる。その間に跨がってきた“それ”が、左腕を掴んできた。汚らしいよだれを垂らし、骨付き肉のようにかぶりつこうとしている。“それ”には獣みたいな牙が生えていた。
まさか人間に生まれてきて食べられる恐怖を味わうことになるとは思わなかった。
「いやっ!」
引っ張ってもびくともしない。また引っ掻いて虫が出てきたら嫌なので、ハルカは右足を曲げて“それ”の腹部を思いきり蹴り上げた。体勢は崩せなかったが“それ”が腕を放した。
やった──と思ったのも束の間、“それ”はただ目標を左腕から右足に変えただけだった。
ハルカの右足の踵と膝の裏を掴んだ“それ”が、大口を開けた。
右足を高く上げられたのでハルカは上半身を起こすことができない。
(やだやだやだやだやだっ!)
無我夢中で両足を動かしたが、右足はがっちり掴まれていてどうにもならないし、左足は“それ”がほとんど座っているようなものなので、意味がなかった。
為す術もなくただ無意味に首を横に振っていたら、ふと編み込みを縛っているヘアゴムが目に留まった。同時に右足に生暖かくて固いものが当たる嫌な感触。力が込められる前に、ハルカは急いでヘアゴムを外し、立てた右手の親指の腹に引っ掛け、左手で摘んで狙いを定め──ようとしたら右足に痛みが走ったので、そのまま目を瞑って離した。
ハルカの放ったヘアゴムは、“それ”の右目に当たった。狙いを定めていたらそんな良いところには当たらなかったかもしれない。
“それ”が怯んだ一瞬の隙をついて右足を引き抜いたハルカは、俯せになって腕を立て、“それ”から脱出した。
それからは全力で走った。腕を振って唇を噛んで頭皮から流れた血を拭って、裸足で絨毯を蹴り続けた。本格的に噛まれる前だったらしく、右足はちゃんと動いてくれた。血すら出ていない。
自分の部屋へ行ってフロントに電話しよう。それしかない。
しかし。自分の部屋が見えてきたのでカードキーをポケットから取り出そうとした瞬間──真後ろから物凄い力で突き飛ばされた。耐えられるはずもなく、ハルカの身体は絨毯に叩きつけられる。
「……けほっ!」
絨毯にへばり付く格好で咳をした時、ついにハルカの運は尽きた。
“それ”がハルカの左腕を持ち上げ、背中に腰掛けてきた。ほどなくして二の腕に経験したことのない痛みが走る。生暖かくて赤い液体が左肩の下にどんどん溜まっていく。
「う……あぁ……」
高く細い弱々しい声を上げることしかできないハルカ。
“それ”が、噛んだハルカの二の腕の肉を引き千切ろうとするかのように、首を横に振ってきた。まさに獣の食べ方だ。
(死ぬ、のかな……わたし……)
当然の如く、ハルカは死を悟る。穏やかでも冷静でもなく、少し怯えていた。身体は小刻みに震えている。
なんだか分からないのに食べられて、死ぬのかな……。
最後に、一度くらいはお母さんに会いたかったな……。声でもいいから、聞きたかったな……。お母さん……──。
「ぐっ、ぐるあ゛っ! あ゛ぁ゛あああ゛ぁぁあ゛ぁ゛ーーーっ!」
痛みに失神寸前のハルカの耳に、目覚まし時計の10倍くらいの絶叫が響いた。解放されたハルカの左腕は、ぽてっと絨毯に落下した。とりあえず二の腕から先はくっついていたが、食べられそうになった部分の肉は今にも剥がれてしまいそうだった。
“それ”が立ち上がったので、ハルカは様子を窺う為に二の腕をかばいながら身体をねじって表を向いた。
(っ!)
息を飲んだ。
白目を剥き、血色の泡を吹いている“それ”は、自分の喉を狂ったように掻きむしっていた。爪は皮膚の皮を剥き、肉を削ぎ落としている。
喉は──例えるなら沸騰だった。次から次へと気泡が現れ、割れては消えてまた現れる。
そのグロテスクな沸騰現象はやがて頬、胸、腹へも現れた。……消化器官を辿るように。
服の前を破って開いた“それ”は、胸や腹も掻きむしり始めた。青カビみたいな部分を掻く度に皮膚がボロボロ剥がれ落ち、中にぎっしり詰まったうじ虫が見えた。
それにハルカが顔を背けた時、不快な水音が耳をつく。同時にハルカの右足にどろどろとしたおぞましい感触。
“それ”が血を吐いた。ハルカの右足は赤い靴を履いたみたいになった。
しかしよく見ると赤だけではない。白い粒々も混じっている。ご飯粒かと思いきや──それはうじ虫だった。一匹一匹が指の間や甲の上でぴくぴくうねうね動き回っている。
「いやっ! やぁぁっ!」
発狂寸前に後退り、必死で絨毯に右足を擦りつけたが、指の間に入ったものが取れない。
“それ”はハルカの部屋の前でまだ吐き続けている。醜悪な臭い。小山状になるうじ虫──。
「……」
その時、ハルカの双眸からついに光が消えた。呼吸も整い、脈拍も落ち着いていく。
やっと人形フェイスが発動した。




