第8話 パーティー編13
どんどん近づいてきて、ついにエミリオの吐く息を自分の唇で感じた瞬間、怖くなったハルカはぎゅっと目を瞑って両手を前に伸ばし、声を上げた。
「いっ、いやです!」
顔を背けて両手を伸ばしたまま、ハルカは恐る恐る目を開けてみた。突き飛ばしてしまったことを怒られるかと思ったら、エミリオはなぜか肩の位置で両手を上げ、淡々と、
「はい。ごめんなさい」
謝ってきた。
(……へ?)
ぽかんとならずにはいられない。
いったいなんなんだ──と混乱するハルカだが、ふと答えが浮かんだ。
「分かった」
落ち着いて宣言する。
両手を降ろしたエミリオは不思議そうな顔をして、
「何が?」
「エミリオがさっきから変な理由。お酒飲んだんでしょ? 途中でいなくなってたし」
絶対そうだと確信していたら、まるで気が抜けたようにエミリオが笑いだした。
「そうです。実は飲んでたんですよ。そしたら階段で転んで怪我して吐いたので、着替えてきたんです」
エミリオは帽子を取り、傷を見せてきた。左のこめかみ辺りに擦り切れたような痕があった。
「だ、大丈夫なの?」
かなり痛そうだったので怯え気味に窺うと、エミリオは白髪でこめかみを隠しながら、
「平気です。ヴァンパイアだから、ハルカが思っているほど酷くはありません。こんなのすぐ治ります」
「そ、そう……」
以前ハイコにもヴァンパイアはすぐ治るということを聞いていたので、ハルカはエミリオの言葉を信じることにした。
気を取り直してしゃべりだす。
「あのさ、イギリスはビールなら16歳から飲んでもいいみたいだけど、日本ではアルコールは全部、ハタチになるまでは飲ん……」
台詞はそこで止まった。
突然横に倒れてきたエミリオが、ハルカの膝を枕代わりにベンチに横になったからだ。さらにエミリオはハルカの──オオルリアゲハカラーのドレスの裾を幼い子供みたいに握って、気持ち良さそうにこんなことを言う。
「う~ん、酔った酔った」
誰かの頭が膝に乗るなんて初めての経験だったので、ハルカは理解が追いつかず数秒固まっていた。
やがて首を傾げたまま星空を見上げ、
(まっ、いっか)
気楽に考えた。そんなに重い訳でもないし。
人の頭というのは意外と温かく、じんわりと伝わってくる熱はカイロみたいだった。
こめかみの傷に触れないように気をつけながら、ハルカはエミリオの細くて柔らかい白い髪をそっと撫でた。
お酒を飲んだことは、ハイコ先生達には秘密にしてあげよう。
パーティー前、優しくしてくれたから……。
「……エミリオさ、最近なんか変だよね。……何か、あったの……?」
ずっと気になっていたので、そうっと控え目に訊いてみた。しかし、訊いた瞬間やっぱり不躾だったと思い、髪から手を離して慌てて、
「ごっ、ごめん! やっぱりなんでもない。言いたくないことくらいあるよね。わたしもあるし」
ハルカは若干怯えながら目を逸らした。
自分だっていちいちすべてを話している訳ではない。だから詮索するのは図々しいにもほどがあると思った。
「……僕は性格が悪いから、その質問には答えたくないけど、ハルカのことは全部知りたい」
ホントに酔っているのかと疑いたくなるくらいまともな口調で、エミリオがしゃべりだした。
エミリオは身体の右側を下にして外側を向いているし、左目は眼帯なので、どんな表情かまでは分からなかった。
「もう、無駄に傷つけないで済むように、ちゃんと知っていたいです。まずは生い立ちを聞かせてくれませんか? 考えてみれば、僕は何も知りません。……生まれたのも東京なんですか?」
「違うよ。長野県ってところだよ」
ハルカは快く答えた。
エミリオの生い立ちはだいたい知っているので、自分だけ教えないのはずるいと思ったのだ。それに、もう傷つけないで済むように──というので、エミリオの誠実さが伝わってきたから。
「避暑地にもなってて、冬には雪がたくさん降るところ。海はないけど、綺麗な川があって、星もよく見えた」
長野にいた頃もよく見上げていたオリオン座を眺め、自分の過去を思い出しながら、ハルカはぽつりぽつりと話しだした。母親にされたこととか、話したくないことは最初から話さないと決めて。
「長野にはお母さんの実家があったんだけど、わたしがそこにいたのは生まれて数ヵ月くらいで、ほとんどは町中の方に建てた一軒家で、お父さんとお母さんと3人で暮らしてた。小学校6年生まで。ホントは東京の私立に通うはずだったんだけど、落ちちゃったから……。中学も、ホントは東京のに通うはずだったんだけど、落ちちゃって……。でもそれには関係なく長野を引っ越すことはもう二人共決めてたらしくて、中学は千葉県の──国際空港の近くの女子中に通ってた」
「空港の近くというのには意味があるんですか?」
エミリオの質問に、ハルカは星空を見上げたまま穏やかに答える。
「うん。お父さんがほとんど海外で仕事してたから。……今もだけど。空港に近い方が、日本に帰って来た時なにかと便利だからだって」
「ふーん……」
微かな相槌を聞くと、ハルカは続きを始める。転機を迎えた2年前の話しを。少し視線を落として。
「中学2年の夏休み、お父さんとお母さんが離婚したの。親権はお父さんが取ったから、お母さんとは暮らせなくなった。お母さんは……今、長野の病院にいる」
“どんな病院”かまでは言えなかった。でもきっとエミリオは気づいただろうと思った。
「それまで住んでた一戸建ては売り払って、同じ通学圏内のマンションにお父さんと引っ越した。でもお父さんはほとんど帰って来なかったから、一人暮らしみたいなものだったけど」
ハルカは母親との思い出が残っている一戸建ての家にずっといたかったのだが、父親は当時のハルカのカウンセラーのアドバイスに従い、引っ越しを決断した。ハルカの意見を無視した訳ではなく、ハルカは自分の意見をまったく言わなかったのだ。あの時のハルカは、破滅的な無口だった。
「2年前ってことは、13歳で一人暮らしですか……」
エミリオが少し悲しげに呟いたので、ハルカは全然平気だと伝えるようになんでもない口調で、
「でも休みの日とかお昼まで寝てられるし、夜中にピアノ弾いてもケーキ食べても誰にも怒られないし、楽で気に入ってるよ?」
「夜中にケーキ……。そのうち太りますよ?」
「だ、大丈夫だよ……たまにしか食べてないし」
ぎくっとしたハルカが目を逸らして答えたら、
「じゃあ、今度食べる時は僕を呼んでください。ハルカが食べすぎないか見張りに行きます」
「えぇー?」
あからさまに嫌がるハルカは現実的な問題を指摘する。
「てゆーかルームメイトいるんでしょ? いなくなったら怪しまれるよ?」
「ル、ルームメイト……ですか……」
なぜかエミリオは怯えたようになった。ドレスの裾を掴む手に力が篭るのを、ハルカは感じた。
「あいつホモなんですけど」
「……」
またもや思考が停止するハルカ。
数秒後、「え?」と一言だけ発すると、
「この前バスルームにまで入って来やがりました。……いちおうできるだけ友好的に追い出しましたけど。学校ではそういうキャラなので。……でもそれが逆に“いい”みたいで、なんだか逆効果でした。新たな作戦を考えないといけません……」
重たいため息をつくエミリオ。
こんな悩みを聞いたのは生まれて初めてだったので、ハルカは非常に困ってしまった。
励ましたり応援したりするのは結局気休めにしかならないので、すぐにでも役に立つことを言ってみた。力になりたいとは思っていたので。
「ほ、本気で怖くなったら、夜中でもうちに来ていいからね?」
エミリオは気が抜けたように軽く笑い、
「緊急避難場所ですか。まぁ、いちおう──いや、すごくありがたいかも」
機嫌の良さそうなエミリオは、仰向けになって右手でハルカの左頬をぺちぺち叩いてきた。
「ハルカ、続き。東京へはいつ引っ越して来たんですか?」
赤眼に見つめられた途端、ハルカは急に緊張してきた。「え、えっと……」と目を泳がせ、結局星空に視線を固定した。
「こ、今年の夏休みだよ。それまでは千葉県の、マンションから近い女子高に通ってた。ホントは東京の──エーデルワイスより偏差値の高い高校に通うはずだったんだけど、落ちちゃったから。それなのになんで今東京に住んでるかっていうと、それはお父さんの都合で」
「空港に近い方が便利だからって、その街にしたんじゃないんですか?」
「それはそうだけど、今住んでるマンションの経営者が、お父さんの会社の上司の家族だから。あのマンション、真ん中へんはけっこう埋まってるんだけど、上の方はほとんど埋まってないんだよ。だから“助ける為に”だって。こういうのもいちおうお父さんの都合でしょ?」
「ふーん。なるほど」
いちおう納得したらしい。
「なんか、ハルカもいろいろ大変なんですね……。何かある子だとは思ってたけど、基本は温室育ちだと思ってました」
何かある子……。温室育ち……。
エミリオが自分に対して思っていたことがなんだか意外で、ハルカは面食らっていた。
そんな時、やっとエミリオが起き上がった。
「寒くないですか? 炎属性の魔法は暖房代わりになるんですけど、自分以外に使う場合は人間の血をそれなりに消費するんで……。ハルカも知っての通り、僕今あまり飲んでないんで使ったらちょっとまずいんですよ」
珍しく申し訳なさそうに話していた。
今のエミリオはハルカの血だけを、ほんの少しずつ分けて飲んでいる。人間の血はヴァンパイアにとって活動エネルギーそのものらしく、いくらハルカの血が上物でも、量が少ないので魔法も考えて──つまり節約して使わなければいけないそうだ。
エミリオの思いやりがなんだかむず痒く思えたハルカは、立ち上がってロングジャケットを脱ぎながら、
「そ、そうなんだ。これありがと。自分のコート取ってくる」
ジャケットを渡し、船内へ繋がる扉の方に足を向けて、
「ついでに着替えて双眼鏡も取ってくる」
立ち去ろうとしたら、「双眼鏡?」と訊かれたので足を止め、
「うん。ちょっと天体観測しようと思って、持って来たから。東京じゃこんなの見れないし」
言いながら星空を仰ぐと、エミリオが急に真剣な口調で警告してきた。
「ハルカ。なんかさっきから嫌な予感がするんです。気をつけてください」
赤眼は鋭い。ハルカを脅かすつもりで言っている訳ではなさそうだった。
突然言われてぽかんとしていたハルカは、とりあえず、「う、うん」と返事をし、なんとなく胸に留めつつ小走りで船内へ向かった。
◆
囚人服のようなアイボリーの上下を着た“彼”は、高層階の非常階段の踊り場で寝転がり、時々唸ったり時々笑ったり、理性とはかけ離れた行動を取っていた。
死ね! 死ね! 死ネ! シネッ! 死ネ! うひゃア!
みんな死ねっ! 消えろっ!
腹減った! 食いもんよこせ! 死ねっ!
あ゛ぁー頭いてぇ! うわっ、目から血が出たぜヒャッホウ! オレこんなでけー船乗るの初めてだせ緊張すんなぁオイ。パパー? どうしてお船は浮いていられるの? それはね、ウミガメが背負っているからよ。ウヒャヒャヒャ! 最高だ! ママー。耳から脳みそ出たー。食べていい?
“彼”の頭は本格的におかしくなってきていた。言葉の度にテンションが変わり、瞳に虚無の狂気が宿っていく。
どれくらいここにいるのか“彼”にはもう分からなくなっていた。




