第8話 パーティー編6
「なっ……」
衝撃だったのか、エミリオは一度言葉を詰まらせた。そして責めるように続ける。
「なんのわがままですか? 服が気に入らないんですか? あんなにあるのに? というかいきなりそんなこと言って……。みんながどんな気持ちになるか分かってるんですか? 自己中なんですよハルカは。なんの為に来たんですか」
みんながどんな気持ちになる──。自己中──。なんの為に来た──。
エミリオの言葉はどれもまっすぐハルカの心に深く突き刺さった。
勝手に零れた涙は、きっとそこから流れた血だ。
パーティーに出ないなんていきなり言ったら、そっちの方がシラケさせてしまうことくらい普通に考えれば分かることなのに。どうして気づかなかったんだろう。エミリオの言う通り自分は本当に自己中だ。
苦手なことでもやってみようって勇気を振り絞って来たけど、壁に当たってどうすればいいのか分からなくなったら、また前みたいに全部投げ出してしまうなんて。
最悪だ。最悪だ最悪だ最悪だ。
でも、でも……。
全部投げ出してしまうほど、辛かったのも事実だった。悲しかった。虚しい気持ちが胸いっぱいに広がり、自分が惨めで哀れに思えてきた。
“普通の人”なら何の問題もなく着れるドレスを、自分は一着も着れないという現実が、切実に辛かった。その辛さが、心を閉じさせた。
エミリオに責められたことでプールの授業を毎回見学していた時の記憶がフラッシュバックした。なのでハルカはその時担任に言った台詞を、涙を拭いながらか細い声で言った。
「エミリオには、わかんないよ……」
ハルカは部屋を飛び出した。
グレーのワンピースを着た黒髪の少女がエミリオの横を擦り抜けて行った。
少女──ハルカは泣いていた。
エミリオは抱えていた羊の頭部をハルカの部屋に転がし、急いで追い掛けようとした。しかし、セシリアに止められる。
「待ってください!」
「なんですか」
「これ見てください。“全部”ですよ」
ソファーに掛けてあるレンタルドレスを一着持ち上げたセシリアが、こっちを見る。悲しげな表情で。
意味が分からず、エミリオは眉をひそめる。
「なにが“全部”なんですか?」
そこでセシリアが意外そうな顔をした。
「エミリオ君は知らないんですか?」
「なんのことです?」
右目で鋭く見つめながら訊くと、セシリアは急に困ったように目を泳がせ始めた。
「え、えっと……それは……」
そのあとエミリオがしたことは、セシリアを徹底的に問い詰めることだった。明らかにハルカが泣いた理由を知ってそうだったから。
つまりセシリアの話しはこうだ。
ハルカにはとても怪我や事故とは思えないような傷痕が背中にあるらしい。軽度だが度重なる火傷と、硬いブラシか何かで擦られて何度も皮膚がすりむけたような痛々しい爛れの痕が。以前ハルカを着替えさせた時に偶然見つけたそうだ。
セシリアは推測として、誰かにやられないとあんな傷痕はできないと言っていた。それもかなり長期的に。
そんなのもう決まってる。虐待だ。
ハルカの秘密はそれだったんだ。
でもそんなの言われなきゃ分かる訳ない。背中に傷があるから背中の開いた服は着れないなんて。
お蔭で“わがまま”とか残酷なことを言ってしまったではないか。
(僕が泣かせたんだ。謝らないと)
エミリオは誠実な気持ちのままハルカの部屋を飛び出した。
広い船内、第1候補のデッキでハルカを見つけた。ただし1等客専用のPデッキではなく誰でも入れるEデッキにいたので、シフトで直接降りて近づいたが。
みんなパーティーの支度をしているのだろう。Eデッキに人は数えられるほどしかいない。
ハルカは柵に両腕を乗せ、顔を半分埋めて伏し目がちに黒い水平線を見つめていた。エミリオが近づいても微動だにしない。
「今、セシリアが別の服用意してます。……背中の傷痕を見られるのが嫌だったんですね……」
話しかけても、エミリオが“知った”ことを“知って”も、ハルカは無反応だった。まるで人形にでもなってしまったみたいに瞬きすらしない。唯一生きてる証は、微かに広がる白い息だった。
「セシリアを軽蔑しないでください。事情を知ってそうだったから、僕が無理矢理訊きだしたんです」
まだ無反応。
エミリオはヴァンパイア検索をして、いちおうハイコやチヒロが近くにいないことを確認した。いないことが分かると、小さい背中を包み込むように、温めるように、後ろからそっとハルカを抱きしめた。
ハルカは若干ぴくっと頭を上げたが、それだけだった。何も言わない。拒絶もしてこない。
自分の頬をハルカの冷たい黒髪にぴったりくっつけて、エミリオは静かにゆっくりと囁いた。
「酷いこと言って、ごめんね? ハルカがパーティーに出ないって聞いて……ショックで。ちょっと暴走しました。ハルカは、ああいうわがままは、言わない娘ですよね。ごめんなさい……」
右目を閉じたエミリオは、ハルカの首筋に顔を埋めた。ハルカはいい匂いがする。女の子独特の柔らかい匂い。それもいいけど、もっといいのはおいしそうな血の匂い。傷ついて、嫌なことがあったから心に闇が広がったのだ。だからまた一段と血がおいしくなってる。
血はとりあえず我慢し、少し顔を離したエミリオは、気になっていることを控え目に訊いてみた。
「……背中、父親にやられたんですか?」
「……」
無反応が続いたが、しばらくして反応があった。ハルカは微かに首を横に振った。
「じゃあ……母親?」
「……」
また無反応が続いたが、しばらくしてやっと反応があった。ハルカは一回だけ微かに頷いた。
その瞬間、エミリオの心は針を刺されたみたいになった。その痛みを和らげたくて、ハルカをぎゅっと抱きしめた。でも、強く抱きしめれば抱きしめるほど、なぜか痛みは増すばかりだった。まるでハルカ自体が茨でできてるみたいに。
「ハルカ。せっかく来たんだから、パーティー行こう? 背中が開いてない服もいっぱいあるって、セシリア言ってましたよ? 今年の主役はハルカなんですよ? 主催者が挨拶を依頼してきたらしいです」
ハルカから離れてしばらく待つと、ハルカはやっと柵から離れ、こっちを向いてくれた。
「……このこと」
「え?」
聞き取り難かったので訊き返す。
「……わたしが、部屋飛び出したこと、ハイコ先生達には、言わないで?」
下を向き、両手の爪をいじりながらしおらしく話すハルカは、エミリオの保護欲を一気に上昇させた。
かわいい。
そんなことを思ったりもした。だから再びぎゅっと抱きしめた。幼い子供がお気に入りのぬいぐるみを愛でるように。
今度は痛くなかった。温かい気持ちが湧いてきた。
「絶対言いません。言わないよ……」
顔を見られないのをいいことに優しく微笑みながら穏やかな声で言うと、ハルカが小さく頷くのが分かった。
◆
セシリアの持って来てくれたいくつかのドレスのうち、ハルカは鮮やかな濃い蛍光ブルーのドレスを選んだ。ノースリーブでハイウエストの膝丈ワンピースだ。
ハイコの使い魔──エリザベスの色に似ていたからこれにした。
でも着てみると、まるでオオルリアゲハの仮装をしてるみたいになった。Vネックや裾といったすべての縁に短い黒のフリルが施されていて、その黒と生地の青のコントラストがオオルリアゲハそっくりだったのだ。
ハイウエストを締めるように背中で作られたボリュームのある蝶々結びの黒いリボンは、余って下に垂れる部分がとても長く、まさにスワローテイル・バタフライだった。
リボンはスカーフのように軽くて薄いので、振り返ったり歩いたりするとふわりと舞った。
その行為を寝室の鏡の前で無駄に何度も繰り返していたハルカの心は、少し前と違って穏やかだった。気恥ずかしさと幸せが半々くらいで、そこに絶望は存在しない。
少し前、エミリオと手を繋いで部屋に戻った時、セシリアが背中の傷痕に治癒術をかけてみようかと言ってきた。古いので完全には消えないが薄くはなると言っていた。でもハルカは断った。
これは、わたしにとっては大切な思い出なんです。だからこのままでいいんです。
そう言って断った。迷いはまったくなかった。すんなり言えた。
ハルカはまた鏡の前で振り返った。一瞬遅れてリボンがふわっとついてくる。そして視線はリボンから背中へ。
背中の傷痕は隠すことにしたけれど、そこに刻まれた思い出を消し去りたい訳じゃない。胸を締め付けるだけでも、忘れたくない思い出だってある。
ハルカを痛め付ける時、たまに母親は泣いていた。終わったあとも、ハルカに助けを求めるように、縋るように、謝りながら泣いていたことがある。
母親の淋しさや苦しみを知っているのは自分だけ。
そんな思い出を消していい訳がない。
たとえこの先、それでまた自分が傷つくことになっても。
その時、ドアがノックされた。
「ハルカさん? できましたか?」
「はい」
返事をしてドアを開けに行くと、すっかりドレスアップしたセシリアがいた。透けた生地が何枚も重なった花柄のインフォーマルドレスを着ていた。全体的に白く淡く、さながら花の女神といった具合だ。ヘアメイクもナチュラルだった。
その後ハルカはセシリアに軽くメイクをしてもらった。本当に軽く。それからマニキュアとペディキュアも。派手じゃないやつを。ほんのりと、爽やか系の香水もつけた。
髪型は、あまりいじるのは好きじゃないと言ったら、左側の一部に編み込みを入れ、そこに黒薔薇のコサージュを飾るだけにしてくれた。
最後にオレンジのミュールを履き、生まれて初めてのパーティーへ行く準備は調った。
緊張気味に寝室から出ると、ソファーであぐらをかき、つまらなそうに半眼でテレビを見ているエミリオが視界に入った。……足の間には例のめちゃくちゃ怖いリアルな羊の頭部が居座っている。
「それホントに被るの?」
てゆーかどこから持って来たの? という質問は、なんとなく怖くてできなかった。
エミリオはハルカを見ると右目を丸くして固まった。急に恥ずかしくなってきたハルカは、「あ、あんまり見ないでよ」と言ってセシリアの後ろに隠れた。
「は? 見てませんよ。自意識過剰なんじゃないですか?」
エミリオはテレビを消し、リモコンをソファーにぞんざいに放りながら言った。
ちょっと前まで気持ち悪いくらい優しかったのに、今は氷のように冷たい……。
「……そんなに似合ってない? ……どうせ小学生だもんね……」
ドレスの裾を両手で広げ、それを見下ろしながら、ハルカはしょんぼりと言った。いじけた訳ではなく、諦めだった。
今の自分はどうがんばっても見る人によっては小学生に見えるのだ。日本人は実年齢より幼く見られることが多いので、尚更だった。




