第7話 14
背中に回されたハイコの手は、リュウトみたいに震えていなかったし、ひと回り大きかった。しかしリュウトと同じところもあった。
心音だ。
ドクンドクンドクン──
とても速い。
こんな子供に緊張するなんて。ホントにハイコ先生は変だ。もしかしてヴァンパイアには成長を促進する魔法があって、実はハイコ先生ってずっと年下だったりして。
そんなクレイジーなことをいつもの心拍数で淡々と考えていると、ハイコの静かな声が上から降ってきた。
「知っているかいハルカ? 楽しいことは誰かと共有すると、2倍にも3倍にもなるのだよ? そして辛いことを誰かと共有すると、半分になるのだ。……試してみないかい?」
ハルカの肩を掴むハイコの手に力が篭った。
「……話してよ」
後生だから──という切実な思いが込められているような囁きだった。
こんな自分なんかにそこまで本気になってくれるなんて……。どうして……そこまで……。どうして……そんなに優しいの……? ほっとけばいいのに……。本当はめんどくさいでしょ……? こんなの……いなくなって欲しいでしょ……?
「……っ」
ハルカの白い頬に涙が伝った。不安になった訳でも恐怖を感じた訳でもない。だからといって嬉しいとも悲しいとも少し違う。
ハルカにはこの涙の理由が分からなかった。
でも、一人じゃないということの本当の意味を、リアルに感じている気がした。
プロの心理カウンセラーとのカウンセリング中よりも、ハルカの中には“話したい。聞いて欲しい──”という気持ちが湧いてきていた。
あまのじゃくなことを言ってやろうという捻くれた発想は、不思議と生まれてこない。
外はまだドシャ降り。時々入り口の向こうがぴかっと光るので、ハイコはハルカの為に風の魔法──シュトゥルムを展開したままでいた。
そのハルカは、ハイコの胸で小さな細い肩を震わせ、静かに泣いている。
かんざしで纏めた髪を崩してはいけないと思い、ハイコは頭を撫でるのを我慢した。
「……て、……たら……」
ハルカが何か言った。「んっ?」と優しく言って耳を近付けると、ハルカはもう一度、か細い声でしゃべりだした。
「……お父さんにも、いらないって、言われたら、……どうしよう……」
ハイコの濃紺シャツのボタン部分を掴むハルカの白い手は、微かに震えていた。ハルカから少し身体を離し、その手をしっかりと掴んだハイコは、安心させるように背中を摩ってあげた。
「……中間、10位以内に入れって、言われたのに、よんじゅう、ろく位だった……。現代語の、点数も、最悪で、……このまま、期末もダメだったら、お母さんみたいに、お父さんも、……わたしなんか、いらないって言う……。……それだけじゃない……」
ハルカは弱々しくふるふると首を横に振って続ける。
「お母さんに、酷いこと言う……。今日、電話で、お父さん、お母さんのこと、人間の、……クズって言った……」
ぽろぽろと涙を零すハルカ。よっぽどその言葉を言われたのがショックだったのだろう。かわいそうに。きっとハルカは父親に何も反論できなかったのだ。怖かったのだろう。見放されてしまうのが。
ハルカは母親に捨てられたと思い込んでいるのだ。逆らったり、期待に応えられないことが続くことで、また同じことが起こってしまうのではないかと怯えている。
そして、ハルカは今でも母親のことを、健気に一途に愛している。
ハイコは、言葉に気をつけなければならないと思った。世間一般的にいうとハルカの母親は犯罪者だ。しかし、一番の被害者であるハルカはそう思っていないのが現状。これ以上ハルカを傷付けたくない。
「……お母さんは、悪くないのに、わたしが、ダメだから……。……わたしの、せいで、お母さんが、悪く言われるのは、……うっ……もうやだ……」
最後の言葉は、ハルカの心からの叫びのようだった。細く高い声は10にも満たない子供のようで、余計保護欲が湧く。
ハルカが、ほんの少しかもしれないが心を開いてくれた。弱音を吐いてくれた。ずっと長い間母親の暴力に一人で耐え続けてきたからだろうか。ハルカには自分の中に溜め込んで我慢してしまう傾向があるが、やっと助けを求めてくれたのだ。
ハイコは、また強くハルカを抱きしめた。悲しみも苦痛も不安も恐怖も、どうしようもない思いもなにもかも、すべてを包み込むように、愛を込めて。
つまりここ最近ハルカが沈んでいた元々の原因は、中間試験の結果だったのだ。
ちょっとメイク直すからあっち向いてて。
そんなことを恥ずかしそうに言ったハルカに微笑みながら背を向けたハイコは、一人考えていた。
浴衣姿のハルカはなんてかわいらしいのだろう。髪を上げ、軽くメイクをしているせいでいつもと雰囲気が違い、すごくドキドキする。それに……なんてミステリアスなのだろう。日本人特有の妖しさというか秘密めいた空気というか。とにかくいい。まるで、出会った人は皆幸運になれるという日本古来の妖精──座敷わらしみたいだ。……いや、座敷わらしは確か妖怪──モンスターだったっけ? しかも奥座敷からは絶対に出て来ない引きこもり? いやいや、お出かけ大好きかわいいかわいい妖精さんだ!
──という逸れた思考は置いといて。ハイコは伏し目がちに、真面目に考えた。
ハルカの父親はハルカの試験結果が悪いことを、どうやらトラウマのせいにしている。ハルカのトラウマは母親が原因なので、結果的に母親が悪者扱いされる訳だ。ハルカはそれをかなりのストレスに感じている。
自分の至らなさのせいで大好きな人が悪く言われる──。
ハイコは自分に当て嵌めて考えてみた。もしも自分のせいでハルカが悪く言われてしまったら……。
(……っ)
ずきりと胸が痛む。
きっと自分の価値を否定するだろう。大好きな人を苦しめる自分なんて、いなくなった方がいいと思うだろう。
考えただけでも胸が潰れそうなのに、ハルカはずっと一人で耐えてきたのだ。誰にも言わずに……。我慢して……。
なんて言葉をかければ良いのだろう。でも、どんなことを言うにしても、ハルカの前で母親を責めてはいけない。それではハルカの父親と同じになるだけで、意味が無いどころかハルカをもっと苦しめてしまう。
「……もういいよ」
背後から聞こえた控え目なハルカの声に、ハイコは木製ベンチの上で捻っていた身体を元に戻した。そしてハルカの方を向き、温かい目で見ながら、
「メイクなんてしなくてもハルカは十分かわいいよ?」
「……それって遠回しに、変だからやめろって言ってる?」
軽く睨まれた。どうしよう!──と焦るハイコ。
「いっ、いやっ、そういう意味ではなく! ハルカは何もしなくてもかわいいという訳で──」
「無駄な努力はするなってこと?」
妙に突っ掛かってくるハルカだが、本気で怒ってはいないようだった。視線に鋭さはなかったし、声に刺々しさもない。
ツンツンしてるハルカもかわいいなぁ。さっきまでか弱く泣いてたのに。
こんな時なのに幸せな気分になってしまったハイコは、いつもの癖が出た。
「違うよ! ハルカのかわいさは宇宙一さっ。そのミルキーウェイを旅する誰も知らないシューティングスターのような──」
自分の世界に入ったハイコは目を閉じ、光るエメラルドスノーが降る空間で、手を使いながら情熱的に続けた。
「まばゆい煌めきに彩られた不可侵さをも醸し出す天使の瞳に映る為なら、たとえ何億パーセク離れていようとも、たとえそれがうたかたに消える悲しき叙情詩のようなかりそめの逢瀬でも、誰もがその時を──」
「早くやまないかな……雨」
ハイコの声質とハルカのそれには明らかな温度差があった。ハルカの声には色が無く、抑揚も無い。いつの間にか小さな入り口の傍にしゃがんで頬杖をつき、興味なさげに半眼で外を眺めているし、素っ気ない感じだ。
ハルカはまったく聞いていなかった模様。
激しくがっかりしたハイコはうなだれ、なよなよした声で、
「ハルカァ~。そんなに冷たいと先生泣いちゃうよ~?」
「……泣けば?」
ガーン。
こっちを一切見ないで冷遇するハルカに、ハイコの心は高度1万メートルから地表に叩き付けられ、めり込んだ。しかし次の言葉にまた空高く舞い上がる。
「先生が泣いたら、今度はわたしが、抱きしめてあげるよ」
暗くて、静かで、自信なげな声だからこそ、ハイコはそれがハルカの本心であることに気付いた。
幸福すぎて卒倒しそうなハイコに、ハルカが付け足すように一言。
「……鶴の恩返しだから」
自分の言葉を真似してくれた。ハイコは目を丸くした後締まりの無い笑顔で、
「そっ、そっかぁ、恩返しかぁ」
先程の衝撃的な台詞に恋愛感情は無いのだと分かっていても、気持ちは高ぶってついデレデレしてしまう。しかし、自分が幸せになっても意味がない。ハイコはハルカに幸せになって欲しいのだ。
ハルカを喜ばすのは難しい。月並みの言葉では愛想笑いどころか皮肉の感謝さえもしてくれない。
でも、それはそれでいい。本気で向き合ってくれているようで、嬉しいのだ。
今までハイコが付き合ってきた女性は、明らかにハイコの容姿と親の財産だけが目当てという者もいた。わざと気持ちを込めないで言った褒め言葉にも、リハーサルをしたみたいに、慣れきった様子で喜んでいた。ハイコに好かれる為に必死なのが見え見えなのだ。ハイコの正体を知った時は引き攣った表情で逃げて行き、行方をくらますのに……。
冷静さを取り戻す為、ハイコは真面目な話しをすることにした。せっかく良い雰囲気になってきたのだし、ハルカが泣きながら話してくれたことについてはあえて触れず、軽く爽やかにスルーするのもいいが、それではハルカに、“勇気出して言ったのにハイコ先生は何も言ってくれない。話さなければよかった”──と思われてしまう。
あまり重くならないように、少しでいいから、ハルカの進む道を明るく照らしてあげようと思った。
「ハルカのお父さんは、ハルカをいらないなんて言わないよ?」
いつの間にか稲光がなくなった屋外を、しゃがみながら猫みたいに見上げるハルカに、ハイコは話し掛けた。振り向いたハルカの顔が素直に聞いてくれそうなものだったので、ハイコは穏やかにしゃべり出す。




