第7話 13
せっかく2層構造なので、少しくらい濡れてもいいから上の層へ行こうと思い、ハルカは軽く腰を浮かせた。しかし入ってきた人物を見てまた腰を降ろす。
透き通った碧い瞳。目鼻立ちの整った顔。長いプラチナブロンド。細長く赤いリボン。
紛れも無く、ハルカの担任のハイコ先生だった。
「おやっ? やっぱりハルカも雨宿りしていたのだね。いやぁ~、いきなり降ってくるものだから驚いたよ」
声のトーンは明るいし、笑顔も自然だった。ハルカの気分とはまったく違う。オーラの摩擦で火花が見えそうだ。
ハイコの長い前髪からは絶え間なく雫が滴っていたし、濃紺の長袖シャツは白っぽいインナーに張り付いている。今までずっと外にいたのかもしれない。
「あれっ? そういえば──みんなは?」
不思議そうに訊いてきたが、ハルカは斜め下を向いて無言。説明するのがめんどくさい。
ハイコは無視されてイライラした様子もなく、ハルカから一人分離れたところに座った。ハルカは黙ったまま伏し目がちに自分の爪先を見つめる。
「チヒロから聞いたよね? さっきまで検索をしていたのだよ。と言っても、私はエリザベスに力を与えることしかできないのだけどね」
苦笑したハイコは続ける。
「ちなみにエリザベスは、少し離れたところで検索を続けているよ。だからハルカは安心してね?」
ハイコがこっちを窺うのが分かる。しかしハルカはまだ下を向いたままでいた。
別にハイコが嫌いな訳でも無視したい訳でもないのだが、今は人並みの反応が取れなかった。ここに雨宿りに来たのが知らない人ではなくハイコ先生でよかった──という思いも、口に出せずにいた。
小さな入り口の向こうがまた光った。ハルカは反射的に両耳を塞いで目をぎゅっと閉じる。
3……2……1……。
(……?)
いつまで経っても聞こえてこない雷鳴に訝ったハルカは、ゆっくり恐る恐る目を開けた。
(……!)
思わず目を見張った。さっきまで薄暗くて湿気だらけだったペンギン滑り台の内部が、爽やかな微風とエメラルドの光りに包まれていたのだ。
キラキラ光る砂粒のようなエメラルドの光りは、空間全体を程よい密度で満たしており、上から雪のようにゆっくりと降り注ぐ様は、まるでスノードームの中にいるみたいだった。
自分の両手の平に落ちる光るエメラルドスノーを見つめていたハルカは、ふと右隣のハイコに目をやった。
どうして音が消えたの? この光りはなに?
それが訊きたかった。
入り口から見える外はまだドシャ降りだ。それなのに雨音がまったく聞こえない。雷鳴も聞こえない。……おかしい。まるで消音にしたテレビを見ているような。
「風を操るというのはね──」
ハルカの疑問をテレパシーでキャッチしたみたいに、ハイコが笑顔でしゃべりだした。
「空気を操るということなのだよ。賢いハルカになら簡単に分かるよね? 音は何で伝わるか」
そんなの賢くなくても分かる──とも思ったが、ハルカは素直に答えた。
「……空気振動」
「そう! 大正解!」
大袈裟に褒められた。
「つまりこのペンギンさんの周囲の空気を固定したのだよ。無振動の膜みたいなものだね」
言いながらハイコは天井を見上げた。
(……ペンギンさん……)
ハルカは呆れた。
大人なのに。男なのに。そんなことを言うなんて。やっぱりハイコ先生は変だ。こんな大人……見たことない。
「この光りは、ただの副産物さ」
手の平に光るエメラルドスノーを受けたハイコが続ける。
「それから、空気を操ってこういう便利なこともできるのだよ?」
手の平に当たると約2秒程で光りを失ってしまうエメラルドスノーを見つめていたハルカは、ふとハイコを見た。するとその瞬間エメラルドの粒子が渦を巻いてハイコの周りを回り始めた。
だんだん回転が遅くなり、周囲にぱぁっと霧散していくと、ハイコが口を開く。
「何が変わったか、分かるかい?」
「……乾いた?」
ハイコを見た後ハルカは自信なげに答えた。
ハイコの前髪からはもう水が滴ってなかったし、服も張り付いてなかった。
「Fantastisch!【ファンタスティシュ/すばらしい!】さっすがハルカ。クレバーだよ」
また大袈裟に褒められた。しかもドイツ語で。だが不思議と腹は立たなかった。
「ハルカも少し濡れてるね」
そう言ったハイコが前髪に触れてきた。ハルカは反射的に身を引く。どこかの少年のせいで、髪を触られることはそれすなわち引っ張られることと同義になってしまったのだ。
「……風邪をひいたら大変だから、乾かしてあげようと思ったのに……──嫌かい?」
手を浮かせたままのハイコが捨てられた仔犬のような目で見てきた。なんだか今にも泣き出しそうな。
それが妙に可笑しくて和んでしまい、ハルカは自分の中の分厚い心の壁が、一枚剥がれていくのを感じた。
「別に。引っ張られると思っただけ」
「まさか! そんなことしないよ」
ぎょっとしたように目を丸くしたハイコは手を引っ込め、穏やかに、
「ちょっとだけ目を閉じていてくれ給え。乾いちゃうからね」
言われた通りに目を閉じると、身体全体が優しい風に包まれていくのをすぐに感じた。
「はい。もういいよ」
ハイコの声にゆっくり目を開けると、ちょうどエメラルドの粒子が霧散していくところだった。
前髪や巾着、浴衣の袖等をぎこちなく触ってみると、さらさらしていた。さっきまでしっとりとしていたのに。
普通の女の子ならこういう時、黄色い声を出して笑顔でありがとうとかすごいとか言うのだろうが、ハルカにはそんなことできない。
もちろん感謝の気持ちと嬉しい気持ちはあったのだが……。
「ちゃんと乾いたかい?」
「うん……」
俯いて答えた。
最悪だ。なんでもっとまともな受け応えができないのだろう。こんなんじゃ、そのうち愛想を尽かして離れて行ってしまう。
「どうして、消してくれたの?」
俯いたまま、ハルカは小さな声でゆっくりとしゃべり出す。
「──音。ハイコ先生も、雷、嫌い?」
足を組み、両手で片膝を掴んだハイコは、目を細めながら軽く首を横に振り、柔らかく上品な声で、
「ううん。外が光った時耳を塞いでいたからね。ハルカが嫌なことは私が消してあげたいと思っただけだよ。この前も言ったけど、ハルカに会えてから本当に毎日が楽しいんだ。充実してる。──あっ……」
そこでハイコはまずいことを言ってしまったような顔になり、一瞬伏し目がちになる。
「ごめん……。ハルカは私に会ってしまったから怖い思いをしているのに……。楽しいなんて、不謹慎だよね……。でも──」
手の平に光るエメラルドスノーを受けたハイコが、僅かに微笑んだ。
「この間ローマで、ハルカはこの光りが綺麗だと言ってくれたよね?」
ハイコの碧い瞳と目が合ってしまった。事実だったので、ハルカはこくりと頷いた。ハイコはにこりと微笑う。そして降ってくるエメラルドスノーを見上げながら、まるで泣きそうな呟き声で、
「あれは本当に嬉しかった……。今までも何人かに言われたことはあるけれど、あの日ハルカに言われたのが、今までで、一番、嬉しかった……」
ハイコがまたこちらを向く。
「ありがとう、ハルカ」
ハイコの微笑みは慈愛に満ちていた。ハルカが恥ずかしくなってしまう程に。
よくそんな風に他人と会話ができるものだ。自分にはきっと一生かかっても無理だ。
気後れしてしまったハルカは下を向いた。
自分は感謝されるような人間じゃない。ハイコ先生は人を見る目が無いのだきっと。……バカだから。
心の壁は──まだ厚い。
「臆さずに血を飲めるようになったのも、ハルカのお蔭なのだよ? 今までは、チヒロや他のヴァンパイア達によく叱られていた……。でもあの日。エーデル祭があった日の夜。あの日のハルカの言葉で、変われたのだよ? ハルカといると、気兼ねなく、本当の自分を出せるのだ。……ハルカのお蔭で……。ハルカがいたから……。だから……」
ハイコはなぜか感情的だ。ハルカはどうしたのかと不思議に思いながらも真面目に聞いていた。
「今度は私が、私にとってのハルカになりたいのだ」
胸に手を当て、真剣な顔つきで言ったハイコだが、すぐに自信なげな、不安そうな顔になって、
「……あ、あれ? 日本語おかしかったかな? 意味通じたかい?」
おどおどしているハイコに、ハルカは台詞をよく咀嚼してから、口を開いた。
「……つまり──恩返しってこと?」
「そうっ! それだよ! 鶴の恩返し!」
ハイコの表情が一気に明るくなった。
(鶴……)
また訳の分からないことを──と反応に困るハルカだが、不快な感じはしなかった。早くどこかに行って欲しいとも思わない。……もう少し、話していたいかもしれない。
「最近のハルカは──」
落ち着いたのか、ハイコの声が普段の調子に戻った。
「いつもより悲しい目をしてるね。夕食もほとんど食べてなかったし……心配だよ。何があったか、話して欲しいな。……力になりたいんだ」
今のハルカと比べると、ハイコの方がよっぽど悲しい目をしていた。
どうしてハイコはそこまで自分を気にかけてくれるのか。いくら恩返しといったって……。
そういう信念なのか。性格だからか。担任だからか。実は暇なのか──。ハルカには分からない。
でも、心が広いのは分かった。それはもうきっと宇宙みたいに。つまり──“バカ”みたいに。
「私は……ハルカはもっと幸せになるべきだと思うな。今のハルカはまるで……羽根を身体ごと包帯で巻かれた、傷だらけの天使だよ? その上暗い地下室の鳥籠に閉じ込められてる」
そこまで言う?──とさすがにショックを受けたハルカは、そっぽを向いて呟く。
「大袈裟だよ……」
しかしハイコに肩を掴まれた。こっちを向いて聞いてくれ──といった具合に。
「私は真剣だよ? 絶対にハルカを助けてあげるから、希望を捨てないで? ……信じて? 私はハルカの味方だよ?」
──助けてあげるから──。
今まで何人ものカウンセラーに言われた、ごくありふれた、聞き慣れた言葉だ。それなのにハイコが言うと、初めて聞いたみたいに新鮮に聞こえた。深く心に響き、不可能を可能にする魔法みたいに強く。
ハイコの気迫に負けたハルカがハイコの方を見た時、
「ハルカの笑顔が……見たいんだ」
ふわっと、引き寄せられるように抱きしめられた。ハイコの胸に左のこめかみを軽くぶつけたハルカは、バランスを保つ為、ハイコの濃紺シャツのボタン部分を片手で掴んだ。
男の人の間では、不意打ちをかけるように抱きしめるのが流行っているのだろうか──と思いたくなった。鳥居の下でのリュウトもそうだったし、どっかの白髪少年もそうだ。




