第7話 12
ハルカの方は逆で、日本人の潜在恐怖を喚起させるような雰囲気の社に、怖じけづいていた。下駄を履いた右足をじりっと後退させ、眼下の明るい通りを振り返る。
なんてギャップだろう。まるで……ハルカと周りの皆の心のようだった。
石段の下は別世界。ハルカが今まで出会ってきた人達がみんないる。
希望がいっぱいで、いつも笑顔で、素直で、勇敢で──。ハルカには眩しすぎて見えない。
(わたし……は……)
ハルカの心に不安が充満した。
ストレスを感じる度に人と関わることを諦め、無関心になり、自分の世界に閉じこもる。
学生のうちはまだなんとかなるだろう。いじめられるかもしれないが、最終的には友達がいなくなるだけだ。
でも……社会ではやっていけない。あっさり解雇されれば、お金を稼ぐ術を失ってしまう。そしたら……自立できない。いつまでも父親の仕送りに頼る惨めな大人になってしまう。もちろん結婚なんかできないだろう。こんな煩わしくてめんどくさいお嫁さんなんて、絶対誰も欲しくないに決まってる。ニートになってしまう。その次は引きこもりだ。父親に多大な迷惑が掛かる。
そんなのって、生きてる価値あるんだろうか……。死んだ方がましかもしれない。
未来は……真っ暗だ。
「……っ」
痛い。胸が苦しくなってきた。呼吸が浅く短くなる。涙が勝手に溢れ出す。
ハルカはさりげなくリュウトに背を向けた。見られたくない。
「あっ、相澤さん!? えっ? お、お、俺なんかした!?」
酷く動揺した様子のリュウトがハルカを窺ってくる。
「……っ……ちがっ……っ……」
浴衣の袖で涙を拭きつつ、ハルカは首を横に振った。
リュウトはなんにも悪くない。言おうとしたのに、上手く言葉が出なかった。喉が痛い。息が苦しい。胸の辺りがぞわぞわする。涙が止まらない。
強い不安や恐怖を感じるといつもこうだ。薬を飲めば症状を軽減できるらしいが、ハルカは薬物療法が嫌いだった。いかにも“病気”みたいになるし、感情を操作されてるみたいで気味が悪いから。
対処法は知っていた。深呼吸をして、なんでもいいからとにかく自分自身に、“大丈夫だよ”と言い聞かせることだ。そして自分で自分を抱きしめる。そうすれば、次第に症状は治まっていく。
(大丈夫だよ。大丈夫だから。だい──!)
両方の二の腕を自分で掴みながら、必死に言い聞かせていた時だった。背後から突然抱きしめられ、ハルカの思考は停止した。どうしたのかと思い振り向くと、そこには頬を染めたリュウトが。
「えっ、あっ、そのっ」
リュウトはパニクったように手をふわふわさ迷わせた後、唐突に、「ごめんっ!」とはっきり告げて、今度は正面からハルカを抱きしめてきた。
ハルカの目の前にはリュウトの肩が。ハルカのそれとは異なり、太くてしっかりとしていた。
「……何があったか分かんないけどさ」
ハルカの左耳付近から聞こえてくるリュウトの声は、落ち着いていて静かだった。ハルカは両手を下ろしたままおとなしく聞く。まだ涙は止まっていない。
「相澤さんが泣いてると……なんか……やだよ……。理由……訊かないからさ、泣き止むまで、こうしてても……いい?」
背中のリュウトの手に力がこもるのが分かった。ほんの少し震えている。
きっとリュウトにとってはものすごく勇気を振り絞った行為なのだろう。こんななんの価値もない自分なんかにそんなことをしてくれるなんて……。
なんだか申し訳なく思ったハルカは、リュウトの厚意を大事に受け取ることにした。
答える代わりに、俯いてリュウトの胸に顔を埋めたら、そこから激しい心音がした。緊張しているのだろう。それなのに、泣いてるハルカの為に抱きしめてくれている……。
(……ありがとう、リュウト……)
控え目に、心中で呟いた。
リュウトはかっこいい。
その時ハルカは、素直にそう思った。
自分からも抱きつこうとも考えたが、それはちょっとずうずうし過ぎる気がするし恥ずかしいので、ハルカはやめてしまった。
辺りには誰もいない。微かに届くのは人々の喧騒とお囃子の音。
安心感に包まれたハルカの瞼は、だんだんと降りていった。
しばらくすると、涙は自然と止まっていた。リュウトの心音はまだ激しかったが、ハルカはそのことには触れず、俯きがちにゆっくりと離れた。
頬に残る涙を手の平で拭きつつ、ハルカは掠れた小さな声で、
「……メイク、直してくるから……ちょっと、待ってて」
「あっ、うっ、うん! わ、分かった!」
弾かれたように言ったリュウトの頬はシェルピンクに染まっている。そんなリュウトから離れ、明かりの漏れる拝殿の方に行こうとしたハルカだが──やっぱり怖くなり、回れ右してリュウトのところに戻った。
「とっ、途中まで、来て……」
俯いて言い、リュウトのシャツの裾を右手でほんの少しだけ掴んだ。
怖がりなのがばれたらどうしよう──と恥ずかしくなってきた時、リュウトに右手をそっと掴まれた。
「いいよ」
見上げると、リュウトはにこっと微笑っていた。屈託の無い笑顔にホッとする。……どっかの誰かだったらこんな時、きっとハルカをバカにする。
プロに言われた通りのやり方で直そう思っていたのだが──さすがプロお勧めの最新ウォータープルーフ化粧品。メイクにほとんど崩れは無く、このままでもいいくらいだった。元々薄かったし。
それでもいちおうファンデーションだけ軽く直して巾着にしまうと、ハルカはリュウトを振り返った。リュウトは賽銭箱の下にある短い石段で、ハルカに背を向けて座っている。
「もういいよ」
屈んで静かに声を掛けると、リュウトは照れたように微笑って振り返り、立ち上がった。
「じゃ、行こっか?」
すっと自然に差し出されたリュウトの左手を、ハルカは反射的に見つめた。“あっちむいてホイ”で指された方向を向いてしまう時のように。猫が動くものを見つめる時のように。
握ってもいいのかな。だって差し出して来たんだし。いや、でも、当たり前のように握ったら気取ってるって思われるかもしれない……。それはやだな……。どうしよう……。
いつまでもぐずぐず迷っていたら、リュウトはすっと手を引っ込めてしまった。
「……さすがに調子乗り過ぎか、俺」
諦めたように苦笑して頭を掻くリュウトだが、傷付いているように見えた。
短い石段を降りて行くリュウトの淋しそうな背中を見つめたハルカは、
「そんなことないよ」
リュウトの左手を捕まえるように両手で掴み、彼を見上げた。リュウトは目を丸くした後頬を染め、ホッとしたように、「ヘヘヘッ」と照れ笑いをした。
せっかく手を繋いだのだが──結局すぐに離れることになってしまった。鳥居の下の長い石段を降り、人ごみに入った時だ。
小さな神輿の登場によって生まれた人の波に押し流され、手が解け、ハルカはリュウトの姿を見失ってしまった。あまつ背の高い人達に囲まれ、何度もぐるぐる回転しながら流されたので、来た方向さえも見失ってしまった。
人の話し声や熱気、様々な食べ物の匂い、それから屋台の発電機からくる振動音と排気に、ハルカはあっという間に酔ってしまった。頭がくらくらして吐き気がする。早く人気の無い静かなところに行きたい。
ふらふらになりながらもなんとか路地に抜けたハルカは、巾着から携帯電話を取り出した。リュウトに掛ける為だ。
二つ折りを片手で開いてさっそく電話帳を呼び出そうとしたら。なぜかブラックアウトしたまま。
壊れたのかと思ったハルカだが、電源ボタンを長押ししたらすぐに起動した。しかし、僅か2秒でバッテリーの充電を促すメッセージが表示され、また画面はブラックアウト。
つまり──電池切れだ。
がっかりしたハルカは緩慢な動作で携帯電話をしまった。そしてまた自身を嫌悪する。バッテリー残量の確認もできないのか自分は──と。
ため息をついたら、追い討ちをかけるかのように雷鳴が轟いた。雷が嫌いなハルカにとってこの状況は軽いいじめだ。
民家の塀に背中を押し付けて空を窺っていると、今度は雨が降り出した。パラパラと屋台の屋根を打っていたと思ったら、一気にバケツをひっくり返したようなドシャ降りに。
他の人達と同様に、ハルカも慌てて駆け出した。どこか雨宿りできるところはないかとキョロキョロしていたら、小さな児童公園を見つけた。公園の真ん中には、まるで守り神のように神々しく佇む、巨大なペンギン型の滑り台があった。クチバシから舌のように滑走路が伸びており、階段は両脇の羽根の部分に付いていた。
その巨大ペンギンの白い腹部に穴を見つけたハルカは、小走りで駆け寄り、腰を屈めて入り込んだ。
ペンギン内部はほぼ空洞だった。そして誰もいない。入り口は狭いくせに天井はけっこう高く、ハルカではジャンプしても届きそうにない。天井の上はちょうど滑り台の待機場所になっているのだろう。つまり内部は2層構造なのだ。
丸い部屋の壁に沿って備え付けられている木製のベンチに座り、ハルカはまたため息をついた。鼻緒を擦った親指の付け根が痛い。下駄の上で少し足を引いて見てみると、赤くなって皮が剥けていた。
外は雨音と雷鳴が酷いが、ここは静かだった。下駄を動かすとコンクリートを擦る音がよく聞こえる。
今日は10月としてはかなり暑い──いわゆる異常気象なので、浴衣でも寒くなかった。それが唯一の救いだ。
小さな入り口の向こうが、まるで昼間みたいに明るく光った。ハルカは急いで両耳を塞いで目を閉じる。その直後、お腹に直接響く、まるで空が割れたんじゃないかと思う程強烈な雷鳴が轟いた。耳を塞いでいてもあまり意味はなく、聞いてしまったハルカはびくっと震えた。
雷は、見えない誰かに怒られているみたいで嫌なのだ。
閃光は存在すべてを否定する冷たい言葉。雷鳴は息ができない程の激しい暴力。
そんな風に脳内変換してしまうハルカにとって、雷は本当に苦痛だった。
ハルカなんかもういらない! 産まなきゃよかった!
母親の叫び声が聞こえてくる。壁に頭を叩き付けられたことまで思い出してしまう。
自分はいらない人間。生まれて来なければよかった。
究極の消極思考に沈み込んでしまったハルカは、下を向き、頭を抱えるように耳を塞いで目を閉じた。
ハルカちゃんは一人じゃないからね?
チヒロが言ってくれたその言葉さえも、ハルカの深い闇には霞んでしまう。
もう一度鳴った猛烈な雷鳴にハルカが震えた時、雨とは違うバシャバシャとした水音が近付いてきた。
誰かが来たのだ。きっとハルカと同じように雨宿りだろう。
一人でいたかったのに……。入って来なければいいな……。
しかしここはハルカの家ではない。そんなことを言う権利はない。




