第7話 11
目の前が真っ暗になり、胸の辺りに嫌な予感が充満していたが、それでもハルカは通話ボタンを押した。
「……もしもし」
緊張に喉はからからだ。内臓が口から出そう。
『ハルカか』
父親の、冷たさを感じる程淡泊な声がハルカの左耳に入る。
「うん」
『中間試験──どうしたんだ?』
さっそく訊いて来た。ハルカは身構える。
『今までで一番悪いじゃないか。特に現代語は話しにならない。心が不安定だからじゃないか? また酷くなったのか?』
「大丈夫」
うんざりした気持ちで答えた。
そんなこと訊かないで欲しいのに。自分が病人みたいになるから嫌なのに。
「……引越して来てまだ慣れてないだけだよ。お母さんのことは関係無い。期末はちゃんとやるから」
言いながらハルカはベッドに腰を降ろす。
『本当にそうか?』
疑い深い父親は、続ける。
『ハルカは……あの女を庇う傾向があるだろう? 庇う必要がどこにある?』
また“あの女”って言った。最低だ。信じられない。
「……」
ハルカは黙り込んだ。怒っている時程無口になるのは相変わらずだった。
『ハルカ? 聞いてるのか?』
「聞いてる……」
父親の問い掛けに、ハルカは仕方なく口を開く。これが電話じゃなかったら無視してるところなのだが。
『人生は長い。いつまでも引きずるのは損だぞ? 前へ進むんだ。みんなそうやって生きているんだから。過去のことは早く忘れてしまいなさい。足を引っ張る思い出がなければ、勉強にも集中できるだろう? ……ハルカには父さんと同じように、東大に入って欲しいんだ』
東大──東京大学。進学校に通っている高校生でこの大学を知らない者はいない。現時点で日本の最高学府だ。
母親も最終的にはハルカを東大に行かせると言っていた。結局父親も同じだったという訳だ。
『ハルカは父さんの子だ。やれば出来る。2年になったら訊くから、塾か家庭教師、どちらがいいか今のうちに決めておきなさい。そしてそれまでには病気を治す──。分かったな?』
いちおう返事をしようと口を開きかけたら、父親はさらに付け足す。
『それから、もうあの女を母親呼ばわりするのはやめなさい。あの女は母親失格どころか人間のクズなんだぞ?』
酷い。なんて心無いことを言うんだろう。お母さんがかわいそうだ。
父親に怒りを覚え、子機をきつく握り締めるハルカだが、すぐに沈み、力が抜け、今度は逆に子機を落としそうになってしまう。
母親が悪く言われるのはすべて自分のせい。自分が悪い子だったのがいけない。
父親を責めるのは間違っている。
「……わたしにとっては、あの人は、ずっとお母さんだから」
酷いことを平気で言う父親だが、見捨てられるのは嫌だった。だから噛み付くような言い方はせず、しおらしく懇願するように言った。
父親にまで“いらない”と言われてしまったら、今度こそもう生きていけない。だからといって母親を人間のクズと肯定するなんて絶対に嫌だった。
父親は不機嫌そうにため息をつき、渋々了承するといった具合に、
『……まぁいいだろう。とりあえず今は心の病気を治すことに専念しなさい。牧野チヒロのカウンセリングはどうだ?』
「今までで一番いい」
『本当か? だとしたらもう少しましな成績になってると思うんだがな。過去最低になった原因は牧野にも少なからずあるだろう』
本当のことを言ったのに、父親はハルカを疑ってきた。
自分のせいでチヒロまで悪く言われてしまい、ハルカの心はズキリと痛んだ。
『もし期末でも10位以内に入れなければ、またカウンセラーを変えよう。いくらでも候補は用意してある』
ハルカにプレッシャーを与えたまま、父親は、また連絡するとだけ言って電話を切った。
期末試験は絶対に失敗する訳にはいかない。チヒロのように言わなくても分かってくれるカウンセラーなんて、他にいないと思うから。
◆
「やっぱにゃんこの方がロリっぽかったかなぁ?」
秋祭りがある神社へ向かうホワイト・リムジンの中で、ハルカの隣のモモが、着ている浴衣を触って悩んだように言った。
「フツー、かわいいかとか大人っぽいかとか気にするでしょ? なんなのよその基準は」
モモを挟んで向こう側に座るユカリが呆れたように言う。
「お嬢様、お戻りになりますか?」
そのよく通る落ち着いた声は運転手のものだ。彼はモモの家──特にモモ個人に仕える30代前半の若い執事で、モモのことは生まれた時から知っているらしい。
高級車もさることながら自分付きの召し使いまでいる──。数時間前、自宅という名のちょっとした宮殿に上がらせてもらった時から、ハルカは確信していた。モモが筋金入りのお嬢様だということを。そして倉田家はかなりのお金持ちだ。
「うーん」
モモは少し迷ったように言った後、
「いい。これで行くっ」
すっきりとした笑顔で言った。どうやら悩みは解消したようだ。
「かしこまりました。わたくしもそちらの方がロリっぽいと思います。萌えです、お嬢様」
運転手はバックミラー越しにウインクをしてきた。
ハルカはぎょっとする。
真面目なストイック系かと思いきや、なんというか──“モモの世界”の住人だった。
高級車は父親のものに乗ったことがあるが、さすがにホワイト・リムジンは初めてだった。それ故ハルカはさっきから緊張していたのだが、運転手のくだけっぷりに解けていった。
ハルカの隣のモモは満足そうに、自分の浴衣を見回していた。
そんなモモが着ているのは、淡いピンク地に苺柄のかわいらしい浴衣。苺の白い花や緑の蔦まであり、とても鮮やかだ。浴衣の柄としては珍しいし子供っぽいが、かなり似合っているし、モモ本人も気に入ってるようなので問題ないだろう。
その隣のユカリは白地に桔梗で、すごく大人っぽい。モモとは正反対だが、これもよく似合っていた。
そしてハルカの浴衣は、紺地に赤い蝶といった少し暗めのもの。モモいわく、“ミステリっ子萌え~”だそうだ。意味不明だが、あげるとまで言ってくれた人に突っ込みはできなかった。ちなみにハルカの浴衣は30万もするらしい。返さなくてもいいということは汚す心配をしなくていいということなので、ハルカはホッとした。……帯は少し苦しいが。
スモークガラスの窓の向こうを流れる街路樹は、LEDのイルミネーションに彩られ、夢みたいに輝いていた。もうすぐハロウィンなのでいくつかのコンビニや雑貨屋の窓ガラスには、オレンジのかぼちゃをモチーフとした飾りがいくつもあった。
ふとハルカは窓に映る自分の姿を見てみた。今日は、中学の時友達と遊び感覚でやった以来、久しぶりにメイクをした。クリアピンクのマニキュアもペディキュアもした。モモの母親の知り合いのプロにやってもらったのでおかしな所はないし、全体的に薄いので自然体だ。それでも妙に落ち着かなかった。恥ずかしい。誰にも見られたくない。
それは髪型も同じだ。アップにしてかんざしを挿して人前に出るなんて初めてだった。もちろん浴衣を着たのも生まれて初めてだしお祭りに行くのも。
初めてだらけの中で、ハルカはなぜか虚しさと罪悪感を感じていた。テンションは下がる一方だ。
でも、暗い顔をしていたら誘ってくれたモモ達に失礼なので、できるだけなんでもない顔をしていようと思った。
車で入れるぎりぎりのところに着くと、運転手は車から降りて扉を開けてくれた。
「ではお嬢様方。後ほどお迎えに上がります。楽しんでいってらっしゃいませ」
モモ、ユカリ、ハルカ、の順に降りると、運転手は恭しく頭を下げ、笑顔で言った。
歩行者天国になった道路を見渡してハルカが最初に感じたことは、プレッシャーだ。
カップルや親子連れ、小学生の集団が珍しげにこっちを見ている。「どこの金持ちだ?」と興味津々に雑談する者や、口を半開きのままぽかんとしている者もいる。小さな女の子なんかは舐めていたロリポップを落とした。
ものすごい注目の浴びようだ。まぁ無理もないかもしれないが。何の変哲もないごくありふれた下町の中規模神社付近にホワイト・リムジンが停まったのだから。
ハルカが逃げ出したくなるのをぐっと堪えていると、ユカリが恥ずかしそうにハルカとモモの腕を引っ張って、
「目立ちすぎだよ早く行こっ」
その意見には大いに賛成なので、ハルカは素直に従った。
リュウト達男子との待ち合わせ場所は、長い石段の上にある赤い鳥居の下だ。慣れない下駄で気をつけながら石段を上ってそこに着くと、男子達が笑顔で迎えてくれた。
ちなみにリュウトもケイタもカズキも、男子は皆私服だ。リュウトは活発スポーツ系、ケイタはかわいらしい個性的系、カズキはシンプル知的系──と、なにげにファッションセンスが良い。しかしこの際それは関係ない。
……ずるい。
そう思わずにはいられない。ハルカは今猛烈に、男に生まれればよかった──と思っていた。
「やっべ相澤さん超かわいい……」
夢見るように言ったリュウトは頬を染めながら、
「あっ、あのさ、俺から一つ提案があるんだけど」
「なぁにぃ?」
首を傾げたモモが訊く。
「8時の花火まで3組ずつの自由行動にしない? 小学生じゃないんだし大勢でぞろぞろ歩くのはダサいだろ?」
「いいよーう! モモは賛成!」
元気よく手を上げるモモ。ユカリもカズキもケイタも異議無しのようだ。
「ハルカは? やっぱこんな奴と一緒は嫌?」
「こんな奴ってなんだよ!」
ユカリの問いに、リュウトが憤慨する。
モモとユカリは彼氏といればいいし、大勢で行動するのは嫌いだし、別にリュウトと一緒にいることに嫌悪感は湧かない。なのでハルカは、
「ううん。わたしも賛成」
「いよしっ!」
気合いを入れるように小さくガッツポーズをしたリュウトが続ける。
「じゃあ8時にここ集合ってことでっ! 解散!」
リュウトの掛け声と共に4人は別れを告げ、手を繋ぎ合って石段を降りて行った。
石段の終わりから左右に延びる広い道路には様々な屋台が並んでおり、大勢の人達が行き交っている。ハルカとリュウトが今いる鳥居の下は高台になっているので、すっかり暗くなった下町がよく見渡せた。
遥か後方には闇に包まれた拝殿がある。
明かりは点いているので人はいるのだろうが、賑わいはまったく無い。灯籠に灯ったろうそくの炎はちろちろ不気味に揺れている。向かい合う二体の狛犬は今にも動き出しそう。境内に屋台は1軒も入っていないので誰もいない。鎮守の森の木の枝はまるで意思を持っているかのようにざわざわと蠢いている。おまけにどこからともなくシャンシャンと鈴の音が聞こえてくる……。
「なんか……出そうだね」
隣のリュウトの表情は、ご馳走を目の前に身を乗り出す子供のように、キラキラと輝いていた。




