第7話 10
教室は、先程の謎の炎と、ハルカとリュウトのやり取りの話題で持ち切りになっていた。
「エミリオ君」
エミリオの机に軽く触れ、見下ろし、静かな声で話し掛ける。エミリオは紺のスラックスに両手を入れ、無表情で目を逸らした。
しょうがない子だなぁ──とため息をついたハイコは、腰を折ってほんの少し屈み、エミリオの肩に手を置いて、「放課後、職員室においで」と囁く。
炎を使うのは、髪を引っ張ったりするいたずらとは訳が違う。なぜリュウトを選んだのかは不明だが、ちゃんと叱らないと。
◆
「なんであんなことしたの? リュウト、エミリオになんかした?」
放課後、誰もいない西校舎3階の吹き抜け回廊で、ハルカはエミリオに問い掛けた。逆ギレされて殴られたら嫌なので、きつくならないよう気をつけながら。
リュウト本人には不思議がられる為謝れないにしても、友人に火傷を負わせたのだから、ハルカはせめて自分には謝って欲しいと思っていた。
リュウトの火傷はたいしたことなかったし、放課後までに謝ってくれたら何も言わず許すつもりだった。
それなのに……。エミリオは何も言って来なかった。
ヴァンパイアのエミリオにとっては軽い気持ちのいたずらでも、人間のハルカやリュウトにとっては冗談にもならないし笑えない。
エミリオが不機嫌そうにため息をついた。
怒鳴られるかもしれない。殴られたらどうしよう──。
不安になったハルカが身を固くしていると、
「それは私も聞きたいな」
回廊の死角から、プラチナブロンドを後ろで一つに束ねたハルカ達の担任──ハイコが現れた。
「職員室においでって言ったのに中々来ないと思ったら……。同じことでハルカに呼び出されて──」
「なんかしたのはハルカの方です」
ハイコがしゃべっているのもお構いなしに、エミリオはハルカに詰め寄って来た。ハルカが後退って壁に背中を付けると、エミリオはハルカの顔の横に左手を付いて、
「なんであんな奴と仲良くするんですか。あいつハルカのこと好きなんですよね? 優しくしたら付け上がるだけですよ。時計台で言ったこと忘れたんですか? ああいう奴はどうせハルカの顔と身体が目当てです。ただステータスが欲しいだけですよ」
どうしてエミリオが、リュウトがハルカのことを好きというのを知っているのかは謎だが、この際それは関係ない。
自分の友達をバカにされた。
それは紛れも無い事実だった。
カチンときたハルカは、ハイコに左手を下ろされているエミリオを上目遣いで睨み、言い返す。
「そんな訳ないでしょ? リュウトのこと何も知らないのにそんな風に言わないで」
エミリオの右目が丸くなった。
「……もしかして、ハルカはあいつのことが好きなんですか?」
何を言い出すのかと思ったら。
すっかり呆れたハルカは伏し目がちにため息をつき、疲れたように暗く呟いた。
「もう知らない」
ここ最近のストレスは、他人と向き合うことをハルカに放棄させた。
これ以上言い合うことを完全にあきらめたハルカは、壁から背を離し、黒髪を翻して、速足で歩き出した。
リュウトを傷つけたことを謝って欲しかったのに。もうしないって言って欲しかったのに。逆に怒られるなんて。しかも見当違いなことを言われるなんて。
もうエミリオなんて知らない。大っ嫌いだ。
ハルカの後方では、イライラしたように壁を蹴るエミリオを、ハイコが叱っていた。
困却したようなハイコがハルカの背中を何度も見つめてきたが、ハルカは一度も振り向かないで角を曲がった。
◆
間接照明のみで照らされた薄暗い防音室。ハルカは虚ろな双眸で鍵盤を見つめ、右手だけで適当に、楽譜を無視してショパンの別れの曲を弾いた。
お祭りなんて行く気分じゃない。今日のカウンセリングもサボりたい……。
でも、電話をすることすら疲れる……。
席替えがあった日から、ハルカの精神状態はさらに悪くなった。心の壁は分厚くなり、もう自分でもどうしたらいいのか分からない。
きっといつの間にか重要な看板を見落としてしまったのだ。
悪いのは自分。
そもそも中間試験で悪い成績を取らなければ父親の連絡に怯えてストレスを溜めないで済んだのだ。そしたらエミリオへの対応ももっと寛大に、ましに出来ていたはず。
そしたら……こんなぐちゃぐちゃな気持ちになんてなってなかった。
指を止めたハルカは鍵盤に突っ伏した。
この世の終わりのような音がする。
絶望に包まれていて、僅かな希望をも奪っていく──暗黒の重低音。
そんな時、インターホンのチャイムが鳴った。きっとチヒロ先生だ。
出たくない。お祭りにも行きたくない。
でも、両方無視したら、明日から気まずくなって、罪悪感に吐きそうになって、修復に労力を使わなければいけなくなって……。
憂鬱なため息をついたハルカはゆっくり立ち上がった。
明日を平和に生きるには、今日努力しないといけない。
そんなめんどくさいこの世界のシステムを作ったのはどこのどいつだろう。今すぐひっぱたいてどこかに閉じ込めてやりたい。
「今日はお休みにしようか?」
チヒロをリビングに招き、対角線上に座ってほんの数分のことだった。そんなことを言われるとは思ってなかったので、ハルカは純粋に驚いて顔を上げた。
「今日のハルカちゃん、まるで不発弾だよ? 俺は怖くて何も訊けないよ」
チヒロは微笑んでいるが、困っているような顔だった。
不発弾……。つまりチヒロにとって今のハルカは、出来るだけ刺激を与えたくない危険物という訳だ。よく分かっている。
「……すごいね……。チヒロ先生は」
ハルカは伏し目がちに、暗い声でぽつぽつゆっくりしゃべり出した。
「今までの人なら、こういう時でも、お構いなしにいろいろ訊いてきた。……最後には、“死にたい?”とか、“今先生を殺したいと思った?”とか……」
「……それは……。酷いな……」
チヒロは本気で軽蔑しているようだった。ハルカはなんとなく安堵する。
チヒロは違う。今までのカウンセラーとは根本的に違う。だからもう少ししゃべることにした。
「……わざと、“うん”って言ったら、なんか……急に生き生きした顔になって、パソコンにいろいろ打ち込んでて、……気持ち悪かった……」
「カウンセラーの中にはたまにいるんだよ。クライアントの異常思考に興奮する腐った奴が」
流し目で目を逸らし、吐き捨てるように言ったチヒロは、空気を変えるように少し明るく微笑んで、
「それより、ハイコから聞いたよ。今日お祭り行くんだって? しかもハルカちゃんお祭り初めてなんだって? 大丈夫? 行ける?」
「無理──でも行く」
「どうして?」
興味深げに訊いて来たチヒロだが、すぐに、失敗した──というような顔になって、
「あぁっ、ごめんっ。質問しないって言ったのに」
ハルカは特に気にせず、「別にいいよ」となんでもない口調で言ってから質問に答える。
「行かない方が、もっとめんどくさくなるから……行くだけ」
「そっか」とソファーに背中を預けたチヒロは天井を見上げて、
「だよねぇ。人生──っていうか、他人とのコミュニケーションてめんどくさいよね。自分勝手してたら後で必ず返ってくるし……。常に明日の平穏を意識して今に無理して気を遣う──。誰がこんなめんどくさい仕組みを作ったんだろうね」
ハルカはチヒロの台詞に驚いていた。チヒロは自分と同じことを考えている。
「──って俺の愚痴はどうでもよくてっ」
首を下ろし、自分の膝を軽くぱしっと叩いたチヒロは、
「ハルカちゃんが行くなら俺もハイコと行って、周辺を検索しとくよ。怪しいヴァンパイアがハルカちゃんに近付かないか、ちゃんと見張っとくから、その辺は安心して行っておいで?」
そこでチヒロの表情が固くなった。
「いい機会だから言っておくけど、実はヴァンパイア検索っていうのはね、一度肌に直接触れてしっかり記憶したヴァンパイアのみ、検索が可能なんだ。だから、ハルカちゃんを狙って来るすべてのヴァンパイアが俺達に分かる訳じゃないんだ。……まぁ、向こうも俺達に気付かないけどね。つまり俺が言いたいことは、どんなことを言われたって、知らない人にはついて行っちゃダメってこと。ヴァンパイアかもしれないからね。子供だろうと老人だろうと障害者だろうと、例外はないよ?」
ハルカが緊張しながら頷くと、チヒロは明るくにこりと微笑って、
「うん。いい子いい子。これならすぐ出口が見つかるよ」
「……出口?」
きょとんとして訊く。
「こういうこと言うとハイコみたいでキモいけど──」と、ハイコにとても失礼な前置きをしたチヒロは、穏やかに続けた。
「ハルカちゃんは今真っ暗な迷路で迷子になってると思うんだ。原因は成績とお父さん関係、それとあの問題児──エミリオのせいかな? でも、他人の話しをちゃんと聞けるなら大丈夫。未来【あす】に気を遣ってるなら大丈夫。もうすぐ周りは明るくなるから、辛くても、怖くても、ちゃんと耳を澄ませて、目を開けておくんだよ? ハルカちゃんは一人じゃないからね?」
ハルカは何も言わず表情も変えなかったが、誠意を見せるように、素直にこくりと頷いた。
「あーっ。カウンセリング以外でも会う人にこんなマジトークは恥ずかしーっ」とかそんなことを、両手で顔を覆いながら言ったチヒロは、やがて落ち着きを取り戻し、「じゃ、気をつけてね。あんまり遅くなっちゃダメだよ?」と言って帰って行った。
居留守をしないで良かった。思ったより全然楽だった。終わってしまえばなんてことはない。
物事を悪い方ばかりに考えていると、たいしたことない事まで大事に思えてくる。だからといってハルカには明るく考えることなんてすぐにはできない。
つまりこれからお祭りに行くに当たってハルカに唯一できることは──何も考えないことだ。
待ち合わせは神社ではなく、モモとユカリが車でハルカを迎えに来てくれることになっている。そしてそのまま田園調布にあるモモの家へ行き、3人で浴衣に着替えて神社に行く──という予定だ。
モモもユカリも寮住まいだが一人では浴衣を着れない為、せっかくだから皆同じ場所で──ということになったのだ。なんでも、一流のスタイリストとヘアーメイクアーティストを用意しているらしい。モモの母親のツテだそうだ。そして浴衣は30着以上も用意したとか。
トゥルルルル──
出掛ける準備をしていたら電話が鳴った。ベッドの上の携帯電話ではなくその横の小机の上の子機だ。
子機を取ってディスプレイを見たハルカは── 一気に巨大なプレッシャーに襲われた。
ついに来てしまった。父親からの電話が。




