第7話 9
「それにしてもハルカの親戚にフィンランド人がいたなんて驚きだよ。編入ってことは今まで何してたの? 働いてたとか?」
モモが戻ると、笑いが引いた様子のユカリが尋ねてきた。
「……ごめん。よく知らない。わたしも今日初めて会ったし、編入のこと知ったのも昨日だよ」
エミリオも嘘つきだが、ハルカも嘘をついた。
この時ハルカがなんとなく気にかかったのは、ハーフだということと生まれはロシアであることをエミリオが誰にも言っていないことだ。
ロシアでの記憶はエミリオの人生の中で、消去したい過去なのかもしれない。
◆
今日は火曜日なのでチヒロのカウンセリングの日だ。帰宅してからもテンションがどん底だったハルカは制服のまま明かりも点けずにベッドでダウンしていたが、結局起き上がり、今こうしてカウンセラー──チヒロと明るいリビングで向かい合っている。
チヒロはさっさから真剣に、ハルカが渡した中間試験の結果を見ながら、ノートパソコンのキーボードを叩いている。
チヒロの雇い主であるハルカの父親に頼まれたそうだ。ハルカの試験結果を詳細に報告しろと。つまりあと数日もすればハルカの父親はハルカに連絡してくる。
現代語のことや総合順位のことを問い詰められ、勉強しろと叱られるだけならまだいい。母親の悪口だけは聞きたくない。
チヒロの入力が終わると、ハルカはチヒロのシフトでハイコの部屋へ夕食を食べに行った。
またエミリオがちょっかいを出して来たが、ハルカは人形フェイスで完全無視に専念した。ちなみにエミリオは昨日から学園の寮に住み始めたが、寮の規則は緩く、門限の10時までに帰れば外出は自由だそうだ。
ハルカがハイコの部屋で発したのは、いただきますとごちそうさま、それから帰る時の一言のみ。
ハイコが作ってくれたのは、筍の炊き込みご飯、肉じゃが、サンマの塩焼き、なめことネギのみそ汁──という、この前のイタリアンとはまったく雰囲気の違う完全な日本食だったが、変わらずおいしかった。しかしハルカは半分以上残して箸を置いた。
食欲なんか最初からなかった。でもせっかく作ってくれたし、食べないのは申し訳ないと思ったのだ。
元気の無いハルカに気付いたのか、訝った様子のハイコが話し掛けてきたりもしたのだが、ハルカは何も言わず、伏し目がちに首を横に振るだけだった。
◆
総合順位が発表されてから2日後の木曜日。ハルカの憂鬱はまだ消えない。父親からの連絡は無く、まるで生殺しのようだった。
いつ来るのかいつ来るのか、待っているこの受け身の状態がかなりのストレスだった。
「はいみんなお疲れ様~」
教卓の前でハイコが、生徒達の労をねぎらうように穏やかに言った。
木曜日の1・2限目はロングホームルームになっている。大聖堂で全校集会があったり、講堂で学年集会や生徒総会があったりする。余った時間はそれぞれクラス単位で行事の詳細を決めたり、レクリエーションをしたりする。
「今日は生徒総会が早く終わってしまったので──」
言いながらハイコは軽く腕をまくり、腕時計を見た。
「後40分もあります。何かしたいことがある人~?」
ハイコが教室中を見渡すと、「はいはいはーい!」と元気よくリュウトが手を上げた。
「はいっ、ではリュウト!」
「はい!」
指されたリュウトはもぐら叩きのもぐらのようにぴょんと立ち上がり、
「席替えをしたいです!」
一瞬でクラス中が湧いた。リュウトを称えるように拍手が巻き起こる。もちろんハルカはノーリアクションだが。
ハルカのローテンションとは真逆に生徒達は盛り上がり、席替えが始まった。
方法は完全公平のくじ引きになった。くじを引く順番は早い者勝ちだったが。
「押すなよっ」とか、「前が押すんだよ!」とか、「割り込み禁止!」とか、くじ引きボックスを持った副担任──トモミがいる教卓の前は軽い乱闘騒ぎになっていた。
ハルカのように落ち着いて席に座っているのは、モモ、ユカリ、ケイタ、カズキ、エミリオ──という、ハルカの友人達だった。……席替えを希望した張本人──リュウトは大混乱の中にいたが。
興味なさげに頬杖をつき、冷めた目で窓の外を眺めていたら、隣の席にエミリオが無言で座ってきた。そしてハルカを真似るように頬杖をつき、無言のままじっと見つめてくる。
ずっと無視して窓の方を向いていたら、エミリオは人差し指でハルカの机をコンコン叩きだした。
コン。コン。コン。コン。
コン。コン。コン。コン。
コン。コン──
いい加減欝陶しくなってきたハルカはちらりとエミリオの右手を見て、一時その動きを観察した。そして何の前触れもなくすばやく両手で掴み、机を叩くのをやめさせた。するとエミリオはフッと笑い、小声で、
「猫みたい。にゃあって鳴いて?」
そのバカにしたような言葉にムカッとしたハルカはすっくと立ち上がり、もうくじを引いたらしい、男子達が大勢集まるリュウトの元へ駆け寄った。
さすがのエミリオでもここまで来てちょっかいを出して来ることはないと思ったのだ。
そのエミリオは、いらついたようにハルカの背中を睨んでいた。
そんな視線も露知らず、ハルカはリュウトに何気なく声を掛ける。
「席どこだった?」
「えっ?」
リュウトはハルカが話し掛けてきたことにかなり驚いているようだったが、気さくに答えてくれた。
「廊下側の一番前。最悪だよ……」
そんなにその席が嫌なのか、リュウトはげっそりとうなだれていた。
これは何らかの負のエネルギーが働いたに違いない。絶対にそうだ。
席替えが完了した教室で、リュウトは勝手にそう決め付けていた。そして怨念を込めて機械的に、ギギギと首を斜め後ろへ向ける。
窓際の一番後ろの席で頬杖をつき、ストレートの黒髪を陽に輝かせてクールに窓の外を眺めているのは──リュウトの好きな女の子、相澤ハルカ。
その右隣の席で頬杖をつき、ハルカの方を向いてハルカの髪を触っているのは──柔らかそうな真っ白い髪をした、男のくせに妙に綺麗な顔立ちの赤い目眼帯編入生、エミリオ・ペル──なんとか。
モモからの情報によると、エミリオとハルカは親戚同士といっても今まで一度も会ったことがないらしい。
(なのになんでっ……!)
リュウトは悔しさに唇を噛んだ。
なんであんなに馴れ馴れしいんだ!? てゆーか何髪触ってんだあのやろう。遠い親戚&外国人だからって許されんのか!? ありえねぇ!! つーかずりぃ! 俺にも触らせろ!
興奮し過ぎのリュウトは思考の方向性を見失っていた。
隣同士になりたかったハルカとはまるで悪魔にでも仕組まれたかのように離れ離れになってしまったが、なぜかリュウトの友人達は皆リュウトの周りにぴったり集まった。左隣はケイタだし、その後ろはモモ、モモの右隣──すなわちリュウトの後ろはユカリだし、ユカリの後ろはカズキだし。
友人達に恵まれたのはいいが、カップルに挟まれているのでちょっと居心地が悪いのも事実だったりする。
席替え直後の浮き立った教室で、リュウトは一人不満たらたらの顔で机にだらんと突っ伏した。
このままではハルカをエミリオに取られてしまう。
……席替えやろうなんて、言わなきゃよかった……。
それが本音だった。
あさってのお祭りは気合い入れて行こう。かっこいいところを見せて存在をアピールだ。
これは何らかの負のエネルギーが働いたに違いない。きっとそうに決まっている。
席替えが完了した教室で、ハイコは勝手にそう決め付けていた。
ハルカが教卓から一番遠い、窓際の後ろの席になってしまった。しかも隣はエミリオだ。
エミリオはさっきからハルカの髪を、摘んでは放し摘んでは放し──を繰り返している。頬杖をついてぼんやり窓の外を眺めているハルカは──まるで人形みたいに無反応。
最近のハルカは様子がおかしい。一昨日くらいからだ。夕食はほとんど食べてなかったし、反応が極端に薄い。
何か思い詰めているのかもしれない。あの小さい身体に、どんな苦痛を抱えているのだろうか。
ハルカの黒い大きな瞳に答えを探してみたが、見つかるはずもなく……。
ハルカからは絶対に話してくれないだろうから、ハイコはこちらから訊いてみることにした。
本当はもっと遠慮なく頼って欲しいけど……。そういうのにはきっと時間が必要なのだ。
回収したくじ引きの紙をボックスに入れていると──
「ぬわーッ! あちッ!」
突然大きな声を上げたリュウトが勢いよく立ち上がった。反動で椅子はひっくり返る。
リュウトの左手の甲にはあってはならないものが躍っていた。
見覚えのあり過ぎる青白い色の炎。
それはハイコが確認すると一瞬で消え去った。
リュウトは不思議そうに、怖々と、「なっ、ななな、なんだ?」と言いながら左手の甲を見つめている。
(エミリオ君だ)
悲しいが、ハイコは何の迷いもなくそう思い、エミリオに視線を向けた。
エミリオは何食わぬ顔でハルカの方を見ている。ハルカはまるで軽蔑するようにエミリオを睨んだ後、なんと立ち上がって小走りにこちらに来た。そしてハイコの前をすっと通り過ぎ、リュウトの元へ駆け寄ると、「大丈夫?」と心配そうに声をかけていた。
その声は控え目な中にも強い慈愛が感じられるもので、ハイコは一瞬で酔いしれた。リュウトを羨ましいと思ってしまう。
「ビビったけど全然平気平気。あはは」
ハルカの優しさに照れたのか、頬を染めたリュウトは軽い感じに言っていた。今やクラス中が二人に注目している。
「見せて」
リュウトの左手を覗いたハルカはかなりのショックを受けたようで、今にも泣き出しそうな、悲しげな顔をした。……まるで自分のせいだとでも言いたげに。
「保健室行こう?」
まっすぐリュウトを見上げたハルカが、リュウトの右腕を両手で掴んで言った。リュウトはまだ頬を染めながら、戸惑ったように、けれどどこか嬉しそうに、
「うっ、うん。分かった」
そして二人は教室を出て行った。
あのクールなハルカが。目立つのを承知でリュウトのところまで行き、介抱するなんて。
素直に、優しいなぁ──と思う一方で、ハイコはちょっとリュウトに嫉妬した。
ハルカに優しくされたリュウトが、ハルカに触れられたリュウトが、羨ましい。最近の反応の薄いハルカにそんなことをされたことが、特に。
自分にもあんな風に、ほんの少しでいいから、積極的に触れて欲しいのに。
ハルカに腕を引っ張られたら……そこがどんな場所でも、必ずついて行くのに……。
深い所に落ち込みそうになっていたが、ハイコは少し厳しい表情でエミリオの元へ向かった。




