第7話 8
ハルカはすべての教科をチェックしたが、採点ミスは無いようだった。その後片手で額を押さえて机に肘をつき、しばしフリーズ。
ありえない。
数学と英語と物理は100点だった。その他3教科も90点以上で、6教科は問題なかったのだが……。日本史が74点、国語が71点、現代語にいたってはなんと62点だった。
60点台を取るなんてハルカの記憶上初めてだった。こんなテストを持ってあの頃家に帰っていたら、母親は間違いなく包丁を持ち出していただろう。テーブルとハルカの心にまた一つ深い傷がつく。
もう離婚してしまったし、親権は父親にあるし、今は家に帰っても母親はいないのだが、低い点数を見ると、条件反射で気分が悪くなる。身体は冷たく重くなり、心は防御態勢を取り始め、吐き気が喉元に纏わり付く。
ハルカは自分自身の弱さに失望し、机の上の答案用紙を集めて引き出しにしまった。
落ち込むのは明日の総合順位を見てからだ。きっと酷い結果なので明日まとめて落ち込んだ方がお得だ。
次の日、ハルカの予想は当たった。教室に行く前、掲示板に張り出された上位30人までの順位表を見に行くと、そこに自分の名前はなかった。つまり30位以下という訳だ。こんな低い順位になるのも記憶上初めてだった。
目の前が真っ暗になったハルカがなんとか教室まで辿り着き、ホームルームが始まると、追い討ちをかけるようなことが。
「ハイコせんせっ。連れて来ました!」
前の両開き扉からご機嫌そうに現れたのは、ハルカ達の副担任──今井トモミだった。着ているものも容姿も普通だが、性格が個性的で、ハルカから見たらかなりの変人カテゴリーに入る人物だ。しかし今はそんなことはどうでもいい。
「では入ってくれ給え」
ハイコが言うと、
「ラジャー!」
自衛官のように足をビシッと揃えて敬礼をした副担任今井トモミは、両開き扉の向こうに、「入っちゃってくれ給え~」とふざけた明るい声をかけた。
ハルカは自分が転校してきた日のことをぼんやり思い出した。
すっかり忘れていたが、今日はエミリオが編入してくる日だったのだ。
しかしなぜこのクラスなのか。同じ時期に二人も補充しなければならない程G組は人数が少ないのだろうか。
……ああ、最悪……。
心因性の頭痛にハルカが額を押さえていると、見慣れ過ぎている白髪赤眼の少年が入って来た。
外国人ということと端整な顔立ちに目を奪われたのか、男子ばかりの教室にもかかわらずどよめきが巻き起こった。
お約束の自己紹介はハルカの時と違い、スムーズだった。ハイコは場違いな白い薔薇の花束など持っていないし。
「初めまして。エミリオ・ペルツァロッタといいます」
黒板の前に来ると、エミリオははにかみながら控え目に挨拶を始めた。
セント・エーデルワイス学園高等部男子の冬服は、紺のスラックスに白のブレザー、それから紺の細いリボンをするのが基本だ。ブレザーの代わりにセーターを着たりカーディガンを着たり、リボンは付けなかったりする男子もいるが、エミリオは基本をすべて守っていた。……故意か偶然かは謎だが。
「フィンランドから来ました。……えっと、日本語はできるんですけど、日本に来るのは初めてで、とても緊張しています」
初々しい、純粋な雰囲気を漂わせてしゃべるエミリオに、ハルカは辟易した。
なんて演技だ。緊張しているなんて絶対嘘に決まってる。
呆れていたのはハイコも同じのようで、エミリオのことを宇宙人でも見るかのように、一歩引いて珍しそうに見つめていた。
「文化が違うので失礼なこともしてしまうかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」
軽く頭を下げたエミリオが、今井トモミに指示された廊下側の後ろの方の席に着くと、ハイコは個人の総合順位が表記されたプリントを、一人一人出席番号順に配り始めた。
手の平サイズの小さなプリントを受け取って自分の席に戻ったハルカは、一旦エミリオのことを頭から排除し、緊張しながら自分の順位を見てみた。
隠していた指をゆっくり退けると──そこには2桁の数字が。
46。
3桁行きは免れたが、頭の中が真っ白になった。
なんだこれなんだこれなんだこれ。こんなの……こんなんじゃ、またお母さんに怒られる。痛いのは嫌。熱いのはもう嫌。嫌われるのは嫌。怖い怖い怖い──
(うっ)
強烈な吐き気に襲われたハルカは口を押さえて立ち上がった。
自分の順位を自分から大声で公表したり、他人の順位をしつこく聞き出そうとしたり、頑として見せようとしない者達で喧しくなった教室を、ハルカは小走りで出て行った。
幸い胃の中には何もなかったので、トイレに行くのはやめ、ハルカは誰もいない美術館のような廊下の壁に片手をつき、しゃがみ込んだ。
過呼吸気味になった呼吸を必死に整えながら、ハルカは自分への怒りと嫌悪で手に力を込めた。
どうして自分はいつもある日突然、叱られるような成績を取ってしまうのだろう。小学校も中学校も高校も、こんな妙な癖のせいで落ちた。……ここしばらくは安定していたのに……。
どうしてもっとちゃんと出来ないのか。どうして、どうして、自分はこんなにもダメなのか。
お父さんに最低でも10位以内には入れって言われたのに。こんなんじゃ、またお母さんの悪口を言う。“あの女”呼ばわりする。お金はいっぱいあるくせに、慰謝料の話しを持ち出す。
わたしのせいで……お母さんが悪者にされちゃう……。
自分なんて大っ嫌いだ。離れていてもお母さんを苦しめる自分なんて、さっさと死んじゃえばいいのに。
今朝ニュースでやっていた通り魔に殺された女の人は、どうして自分じゃなかったんだろう。轢き逃げに遭って死んだ男の人は、どうして自分じゃなかったんだろう。
ハルカのマイナス思考がどん底までエスカレートした時、足音がいくつか聞こえてきた。ハルカは零れそうになっていた悔し涙を急いで拭う。
「ハルカッ。大丈夫かい? 気持ち悪いのかい?」
屈み込んで背中を摩ってきたのはハイコだった。ハルカがゆっくり振り向くと、後ろにはエミリオとリュウトとモモとユカリと──なんとほとんどクラス全員。
びっくりしたハルカはぽかんとする。みんな順位に夢中で、自分が席を立ったことなど誰も気付いていないと思っていた。
「……だい……じょうぶ……」
伏し目がちに消え入りそうな声で言ったら、「ダメだよ心配だよ。保健室行こう?」「そうだよ! 僕保健委員だからっ」と言う誰か数人に、保健室へ連行された。
保健医が出て行ったのを見計らって、ハルカは勝手に保健室から抜け出した。心配されないようにいちおうベッドの上に置き手紙を置いて。
教室に戻ると、ちょうど2限目と3限目の10分休みの最中のようで、賑やかだった。
3分の2くらいの生徒達が皆でエミリオを囲んでいる。どうやら質問攻めに遭っている模様。ちらっと見えたエミリオの表情は、たじたじといった具合だ。困ったように微笑んでいるが、決して引き攣ってはいない。
その初さも絶対演技だ──とハルカはこっそり疑いの眼差しを向ける。
目立ちたくないので出来るだけ自然に自分の席に向かい、静かに椅子を引いた時──後ろから誰かに肩を抱きしめられた。
心臓が止まりそうになるくらい驚いたハルカがゆっくり振り向くと。……怖いくらい優しそうににこりと微笑ったエミリオだった。
「心配しましたよハルカ?」
その声は騒ぎ立てる生徒達の声に掻き消されそうだった。
「なっ、なっ、なーーーっ!?」
リュウトなんかはわなわな震え、言葉にならない様子。
「なになにぃ? 二人はどういう関係なのぅ?」
モモは興味津々のようだ。両の拳を顎の下に持って来ている。
「僕とハルカは付き合っ──」
「遠い親戚の人」
淡々と言うエミリオにぎょっとしたハルカは、エミリオの腕を解いて口を塞ぎ、急いで言い繕った。……目立ちたくないのに。これで変な噂が立ったらどうしてくれるんだ。
イライラしていると、ハルカの手を口から剥がしたエミリオが、意外なことを言った。
「そうです。僕とハルカは遠い親戚同士なんです」
軽く微笑んでいるし、とても素直だ。気味が悪い。
ハルカがエミリオを見つめて呆気に取られていると、担当の教師が入ってきて、授業が始まった。
「秋祭り?」
昼休み、学食のリープ・シュテルンでテイクアウトしたチョコバナナクレープを教室で食べながら、ハルカはモモに訊き返した。
「そうそう秋祭りっ! 今週末下町の神社であるの。中間テストも終わったし、気晴らしにみんなでぱぁーっと遊ぼうよ!」
ミルクティー色のくるくるツインテールを揺らして両手を上げたモモは、笑顔が清々しいし、開放感に満ち溢れていた。
今日は女子3人だけで昼食を摂っているのだが、ユカリもすっきりとした顔をしていた。
二人共ハルカとは正反対だ。ハルカの方はまだ手に負えない程憂鬱で、噛んだバナナが上手く飲み込めないくらいなのに。
「モモでしょー? ユカりんでしょー? ケイタくんでしょー?──」
モモは指を折って数えるように名前を呼び出した。
「それからカズキくんとリュウトくん! ……エミリオくんは誘ってみたんだけど、大事な用があるから行けないって断られちゃった。ハルカたんは行けるよねっ?」
エミリオ断ったんだ……。大事な用ってなんだろう。
クレープを握りつつぼんやり考えたら、一つ浮かんだ。
エミリオは、ハルカはお祭りなんか絶対行かないと確信したのだ。だから自分も行かないことにしたのだ。本当に大事な用があるのかもしれないが、ハルカは8割方そう思った。
行動を読まれたことが癪なので、ハルカは行くことにした。本当は行きたくなかったが、少しやけになっていた。
行くことを告げるとモモもユカリもとても喜んでくれた。それは素直に嬉しかったのだが、同時に胸も痛んだ。
「女子はみんな浴衣着用ねっ?」
「え……わたし浴衣持ってない」
少し沈みがちに言うと、
「じゃあモモが貸したげるーっ!」
モモの笑顔には屈託が無い。右手を勢いよく振り上げたので、握ったフォークの先のフォアグラが放物線を描いて飛んで行き、窓に貼り付いた。
笑いながら取りに行くモモを見てユカリは、「すぽーんていったすぽーんて」と机を叩いて笑っていた。ハルカは──笑えなかった。




