第7話 6
「違うよチヒロ先生。脅されてなんかないよ。エミリオは……、わたしが少しでも痛くないように、注射器使ってくれたし、それに、目が治るかもしれないって分かったから、良かったんだよ」
「目……?」
不思議そうにこっちを見るチヒロ。ハルカは頷いて、
「わたしの血で、左目が元通りになるかもって……」
自信なげにハルカが言うと、チヒロはエミリオの方を見て、
「おーい。ホントに?」
エミリオは立ち上がり、眼帯の上から左目を触って、
「本当です。治癒術でも不可能な眼球の全再生──」
言いながらエミリオがこっちに歩いて来る。
「それすら可能にしてしまうのがトリプルSの力のようです」
突然ハルカの背後にシフトしてきたエミリオは、ハルカの頭に手を置いて、
「ヴァンパイアを滅ぼすキリストが悪魔なら、ヴァンパイアを救うハルカは天使です。そしてこの天使は、僕専用ということで」
エミリオがハルカの頭上でにこっと微笑った。そしてシフトしようとする気配。それをハイコも感じ取ったのか、慌てたように、
「ちょ、ちょっと待ち給え。今日はハルカとプリンを食べようと思って来たのだ──」
紙製の白い箱を掲げたハイコが続ける。
「エミリオ君の分もあるから、いろいろ話し合おうではないか。もちろん目は治って欲しいと思うよ? だけど知っているかい? 15歳は献血ができないのだよ? ハルカはまだ15歳だ。しかも小柄だから体重が軽い。そんなハルカから無計画に血を取ったらどうなるか分か──」
「分かってますっ」
まだ話しの途中なのにもかかわらず、エミリオが強めの口調で遮った。
「ちゃんと調べました。それにハルカから許可も貰いました。ハルカは自分の意思で血を提供してくれるんです。ねっ? ハルカ」
いきなり振られてびくっとしたハルカは、つっかえながら答える。
「う、うん。でっ、でも、目が治ったらすぐまずくするから」
「えぇっ?」
想定外というように頓狂な声を上げたエミリオは、ハルカを引っ張ってハイコ達から距離を取り、こそこそと耳打ちしてきた。
「なんでそうなるんですか? 守ってあげる代わりにずっとトリプルSでいてくれるって言ったでしょう? 僕の欲望はどうなるんですか」
「そんなの知らないよ」
ハルカは普通の声量で反論する。そして訝しげにこっちを見つめるハイコ達の元へ戻り、訊いてみた。
「一瞬で一気に血の味が落ちて、しかも二度と戻らない方法、何か知ってる?」
ハイコ達は面食ったような顔をしていた。ハルカは目を逸らして、
「血がおいしいから狙われるんでしょ? ……エミリオの目が治ったら、すぐにでもまずくしたい。……ホントに二度と戻らないなら、できそうにないことでも、嫌なことでも、がんばってみる……から……」
だんだん俯きながら、
「……だって、そうすればみんなに迷惑かけなくて済むと思うし……。ハイコ先生もチヒロ先生も、わたしばっかり構ってる訳にもいかないでしょ? 仕事、大変でしょ?」
足元に巨大な三毛猫──社長が絡んできたので、ハルカはしゃがんで伏し目がちに背中を撫でた。
ハイコもチヒロも、ハルカに会うまではそれぞれの生活をしていた。なのに最近は自分の為に時間を使い過ぎているのではないかと、ハルカは心配になった。この間はローマにまで来てくれたし。しかも自腹でだ。
わたしが二人の生活をぐちゃぐちゃにしてる気がする……。わたしの血のせいで……。
申し訳なく思いながら、ハルカは誰かが口を開くのをじっと待っていた。社長のお蔭で手持ち無沙汰にならずに済んだことを感謝しながら。
最初に口を開いたのはエミリオだった。
「ハルカのこといかがわしい目で見るのはやめてください」
しかしそれはまったく予想外の言葉だった。
(いか……?)
いかがわしい……? 意味がまったく理解できず、ハルカがぽかんとしていると、チヒロがエミリオをやんわり壁際に押しやり、まるで脅すように低い声で言った。
「見てねーよ。大人からかうなコラ」
チヒロを睨み上げたエミリオは軽蔑するように、
「むきになるってことは牧野は本当に思ったんですか……」
目を逸らしてため息をついたエミリオは、今度は吐き捨てるように、「……最悪」と言った。
「そういう他人を小バカにした態度やめろ」
「ま、まぁまぁ、二人共落ち着いて」
困ったように微笑ったハイコが仲裁に入ると、エミリオが、ハルカが撫でていた社長を足で掬うように蹴飛ばし、
「なんでいちいち訊いたんですか。あのノートにも書いたし、時計台でも念入りに言ったでしょう? 忘れたんですか? 一瞬で一気に血の味が落ちて、しかも二度と戻らない方法──それはアレ以外ありません」
「……アレ?」
きょとんとしたハルカは小首を傾げてエミリオを見上げる。エミリオは脱力するようにため息をつき、しゃがんでそっと耳打ちしてきた。
「──!」
ハルカははっとした。普段まったく聞かないその言葉を聞いた途端、記憶が甦った。そうだ。確かにエミリオはあの日時計台で言っていた。ノートにも書いてあった。絶対にやってはいけないこととして。
この微妙な空気の原因が自分のド忘れのせいだと思ったら、ハルカは急に穴にでも潜りたくなった。
なんて恥ずかしいことを訊いてしまったのだろう。
とりあえずそろーりとカーペットを後退ったら、ピアノの角に後頭部を強打した。殺人的な音が脳に響く。
い、痛い。おまけにまたもや恥ずかしい。しかも涙まで出てきた。
後頭部を押さえて縮こまったら、
「だっ、大丈夫かいハルカ!? すっごい音したよ? い、痛いかい?」
どうしたらいいか分からない──といった具合のハイコの声が聞こえる。
「ハ、ハルカ? 私は迷惑だなんて思ってないからね? 仕事は確かに大変だけど、ハルカに会ってからはむしろ毎日楽しいよ? だからその楽しさをくれたハルカを守るのは、当たり前のことなのだよ? ……だから──その……、嫌な思いまでして味を変えようなんて、しないでいいのだよ? ハルカはありのままでいればいいのだよ。私達が守ってあげるから。間違っても、さっきエミリオ君に言われたことを安易にしてはいけないよ? 確かに味を確実に大幅に下げるにはそれしかないけれど……──」
そこで一旦黙ったハイコは、突然感情的に、
「絶対に絶対に絶対にそんなことダメだからね!? 約束だよ!?」
続いてチヒロの熱の篭った声も入ってきた。
「そうだよハルカちゃん! いくら味を落としたいからって、やっていいことと悪いことの区別はつくよね!? 大丈夫だよね!?」
貝のように黙って膝を抱え、ぎゅっと縮こまっていたハルカは、だんだん落ち着きを取り戻してきていた。
こくりと頷き、顔を上げてしゃべり出そうとしたら──頭に誰かの手。気付いたら大理石の玄関ホールに座っていた。背後にはエミリオがいる。
シフトされた──。そんなことをぼんやり考えていたら、どたばたと二人分の足音。
「エミリオ君っ!」
廊下を猛スピードで曲がって止まり切れずに転びかけたハイコが叫ぶ。続いてチヒロも社長もエリザベスもハルカの視界に入る。
「待てコラッ。どこ連れてく気だ!」
「ハルカっ。今夜のディナーは何がいい?」
ハイコの台詞はいまいちズレている。
汚れ一つ無い、世界中で人気のメーカーの、ネイビーブルーのスニーカーを履いたエミリオは、甲にストラップが付いた白くて丸いハルカの革靴を拾い、「貧血なハルカの為に水分補給に行って来ます」と言ってシフトした。
◆
──嫌な思いまでして味を変えようなんて、しないでいいのだよ? ハルカはありのままでいればいいのだよ。私達が守ってあげるから。
あの台詞は自分が言うはずだったのに。まったくヴェインリッヒはいちいちむかつく男だ。
エミリオは怒りに任せ、130キロの硬球を力いっぱい打ちかました。キィン──と突き抜ける快音が新宿のバッティングセンターにこだまする。ボールはホームランエリアに入った。
「キャーッ! すっごぉーい! ホームランじゃん!」
「ここ130の硬式だよ!? マジかっこよくない!?」
背後でする黄色い声。……これがハルカだったら──なんて夢想するが、よく考えるとそんなハルカは気味が悪い。
「ねぇねぇ、外国人でしょ? 今ひとりー?」
「うちらの言ってること分かる? 遊ぼうよぉ」
後ろのネットの向こうから軽々しく甲高い声で話し掛けて来るのは、黄色人種のくせに小麦色の肌の少女2人組。年は──恐らくエミリオと同じくらい。まだ30分しか経ってないのにこれで3組目だ。カラオケ店に隣接しているせいか、こういう奴らが妙に多い。バッティングする気がないならとっとと帰ればいいのに。
バットとヘルメットを置いてネットに近付いたエミリオは、目の前に少女らがいるにもかかわらず、キョロキョロしてハルカを探した。少し前は、渡した飲み物代を使おうともせず、すぐそこのベンチでつまらなそうにしていたのに。
「何探してんの? あっ、もしかして警察? その左目ってなんかヤバイことに巻き込まれた時のなの?」
「それか不法滞在してるとかぁ? なぁ~んか怪しげぇ。うちらが匿ってあげるからさっ、早く遊び行こっ?」
勝手に憶測を付けては盛り上がる少女たち。本当に危険な目に遭ったことが無いからこそ危険な匂いに惹かれるのだろう。毎日が退屈で、常に新しい刺激を求めては街をさ迷う。あげく怪しい外国人──しかも知らないとはいえヴァンパイアに話し掛けてしまうとは。
(あ。いた)
ハルカを見つけた。前の部分だけU字型に白いブラウスと白いリボンが覗く、清楚なお嬢様っぽい膝丈の黒ワンピースを着た小柄な色白少女──ハルカは、ずっと向こうにある自販機の前で、20代後半くらいの男と何か話している。男はハルカの生足ばかり見ている気がするし、目は据わっていて少し異常だし、まさに怪漢だった。知り合いという線は消えた。
まったく何やってるんだあのバカは。
やきもきとした気持ちになったエミリオは2人組の少女たちを無視し、小走りでハルカの元へ向かった。
近くで見る男は──なんというか暴力的な匂いがした。がたいが良い訳じゃない。切れ長の目が狡猾そうで、他人を痛め付けるのが好きなタイプに見える。中央で分けた不潔そうな黒い髪はワカメのようにだらしなく耳まで伸びている。不健康そうな色白で、手足が長めだ。
「帰りますよ」
男を睨みつつハルカの腕を掴む。そして引っ張って出口へ向かう。ハルカは振り返りながらしばらく男を見ていたが、やがて前を向いた。




