第7話 5
「……だってさ、ものすごく辛いカレー食べたり、ブラックコーヒーとか飲んだりしてみたんだよ? ……普段はあんなの絶対食べないのに」
軽くいじけたハルカは椅子に座ったまま下を向き、両足をぶらぶらさせた。そしてエミリオを見上げて、
「ホントにまずくなってない?」
「もしかして前に渡したノートですか?」
「うん。あれの逆をやってみた。食べ物系だけ」
「たぶんストレスです。フィンランドに行ったりローマに行ったり。それに加えてテスト。さらに嫌いなものを食べたりしてたら、そりゃ血も益々おいしくなりますよ。基本的にストレスは血をおいしくするんです」
そ、ん、な……。それじゃ為す術ないじゃないか。
ため息をついたハルカは人差し指を鍵盤に置き、一つ高い音を出した。
「じゃあ、例えば毎日1リットルくらいコーヒー飲んでも、ストレスのせいで無駄になるってこと?」
「そうです。あとは体質ですね。ほんのひと口コーヒーを飲んだだけで2ランク下がる人もいます。それに比べ、ハルカはものすごく下がりにくい体質なんですよきっと。まぁ、僕にとっては好都合ですけど」
エミリオの右目が細くなる。
「どうして? アナの声は治ったし、もうトリプルSでいる必要なくない?」
「あります」
妙に力強く言ったエミリオがこっちをじっと見る。
「僕はおいしい血が好きなんです」
「……は?」
ハルカがぽかんとしていると、エミリオは突然腰を屈め、耳元で囁いてきた。
「毎日でも飲みたいな」
頬をぺろっと舐められた。突然のことだったのでハルカはかわせず、なんのリアクションも取れなかった。
離れたエミリオは何事もなかったかのように、
「僕の為にずっとトリプルSでいてください。その代わり僕は全力でハルカを守ります」
ギブアンドテイク……。しかしハルカは納得がいかない。エミリオ一人の欲望の為に自分の身を危険に晒すなんて。
嫌──と言って首を振ろうとしたら。
「……あ……れ……?」
エミリオが戸惑ったように、左目を覆う医療用の白い眼帯を触りだした。
痛みでも走ったのだろうか。心配になったハルカが、「……どうしたの? 痛いの?」と訊いてみると、
「……いや。痛いというか──なんか……奥の方が……うごうごしてる……みたいな」
「え?」
言ってる意味が分からない。
「虫でも涌いたかな」
なんでもない口調で言うエミリオ。しかしハルカにとってはなんでもなくなんかない。
ハルカは思わず顔をしかめ、椅子の上で身を引いた。するとエミリオが一瞬傷付いたような顔をした。ちょっと反省したハルカは、ゆっくり身体を戻し、「……大丈夫?」と静かに訊いてみる。
「ちょっと鏡で見て来ます」
そう言ってエミリオは防音室から出て行った。そして僅か1分後、すぐに戻って来た。
「元に戻るかもしれません。左目」
「えっ?」
いきなり告げられた朗報を、最初は信じられなかった。しかしすぐに気持ちが明るくなってくる。自分のことじゃないのに。
「ホントに? よかったじゃん。でもなんで今?」
「フフッ……」
腰を折り、エミリオはなぜか堪えるように笑い出した。なんだか妙に楽しげだ。
「……どっ、どうしたの?」
引き気味に様子を窺ってみた。
「いや? これでハルカは僕の為に絶対トリプルSでいてくれるなぁって思って」
「……なんで?」
「どうやらさっき舐めたハルカの血のせいみたいです。左目の奥の違和感は。虫なんかじゃありません。……まったく、トリプルSというのは予測不能ですね。眼球の再生までできてしまうようです。つまり、優しいハルカは左目の無いかわいそうな僕の為に、これからもトリプルSでいてくれるって訳です。それを確信したら笑いが止まらなくなってしまって……」
くくっと笑ったエミリオに、顎を人差し指と中指でくいっと持ち上げられた。その指をゆっくり払いつつ、ハルカは言葉に迷っていた。ア然として、何も浮かばない。
「ハルカー?」
髪を引っ張られて頭が横に傾いて、ようやく思いついたことは。
誰かを救えるなら──。
ハルカは決心を固めた。
「……分かった。しょうがないからこのままでいてあげる」
鍵盤の方を向き、冷たく、刺っぽく言った。エミリオの思い通りになったのが悔しいから。
「言っとくけど、ちょっと責任感じてるだけだからね? その左目、わたしも少しは関係してるかもって、思っただけだから……。……だから、操作された訳じゃないからね?」
横目でエミリオを見上げてみると、
「はいはいはい分かってます。だからこのままでいてください? 誰にも飲ませちゃダメですよ? ハルカは僕専用です」
エミリオはご機嫌だ。その笑顔に無性に腹が立ったハルカは、人差し指で低い音をちょっと乱暴に弾いた。
エミリオは目の治療の為ではなく、ただ単にトリプルSの血を一人占めしたいだけだ。きっとそうだ。絶対そうだ。
自分の欲望を叶える為にハルカの良心を利用したのだ。なんて性悪ヴァンパイアなんだ。
ハルカがぷりぷり怒っていると、屈んだエミリオが肩に腕を回し、顔を近付けてきた。
「ねぇハルカ? またなんか弾いてください。ペトルーシュカは弾けますか?」
「……弾けるけど……」
唇を尖らせながら言う。
「何怒ってるんですか?」
どの口が言うか。つんとそっぽを向くハルカ。
「少しくらい間違えても気にしませんから。ほら早く」
他人の指を勝手に鍵盤に乗せるエミリオ。ハルカはその手を払おうとしたが、次の言葉に思い止まる。
「ハルカの音綺麗だから気に入っちゃったんですよ。だからお願いします」
「……しょうがないなぁ」
やる気なさげに無愛想に言ったのは、ピアノを褒められたことが照れ臭かったから。まだ素直に感情を表すことができない。
短時間でいろんな方向に散らばった心を拾い集める為、ハルカは指を踊らせた。感情に任せて劇的に弾いたのは久しぶりだった。
満足そうに微笑って離れたエミリオは、部屋の隅のソファーに寝転がった。
ストラヴィンスキーでペトルーシュカ。第1楽章ロシアの踊り。ストラヴィンスキーはエミリオの生まれた国──ロシアの作曲家だ。速い部分の多い曲なので、ハルカにとっては気分が乗らないとあまり弾かない曲。それにかなり難しい。しかし難しくて速い曲は嫌いじゃない。
弾くことに集中すると、やがて音が洪水のように溢れて聴覚を支配する。雑念が消え、何も考えられなくなる。現実からの脱出【エスケープ】。音の世界への跳躍【ダイブ】。それが好きだった。結局勉強も同じだ。数学の問題は難しければ難しい程良い。
しかし……。逃げてばかりいてはいけないことも、同時に分かっている……。
ペトルーシュカは跳びはねるようなかわいらしい部分の多い曲だが、この曲のラストは悲劇になっている。魔術師に魔法をかけられ、まるで人間のような心を持った人形──ペトルーシュカは、やがて同じ人形のバレリーナに恋をする。散々心を打ちのめされた後、最後は恋敵のムーア人に殺されてしまう。
エミリオがこの話しを知っていたのかは分からないが、ヴァンパイアにもなんとなく似てると思った。
何者かに呪いをかけられ、人間の血を飲まなければならなくなったヴァンパイア。罪悪感に気は滅入り、心の傷は増えるばかり。最後は……。
そこでハルカの胸が痛む。クレッシェンドが無意味に強調される。
もしも何かの拍子に、世界中にヴァンパイアの存在が明るみに出たら、人間は……ヴァンパイアを殺すのだろうか……。戦争みたいになって、見た目人間と何ら変わらないヴァンパイアを、自分達の害になるからと言って、理解しようともせず、化け物扱いして、たくさんの銃で殺すのだろうか……。ムーア人がペトルーシュカを殺したみたいに、人間もヴァンパイアを殺すのだろうか……。
その後ハルカは溢れそうになる涙をせき止めるように、夢中になって弾いた。
弾き終わると──なぜか拍手が。しかも部屋の隅からではなく、すぐ横の扉の方から。二人分。
驚いて振り向くと──そこには微笑んでこちらを見つめるハイコとチヒロが。使い魔のエリザベスと社長もいる。
「ブラボー! ハルカ!」
「すごい上手いじゃん! びっくりしたよ!」
二人共笑顔で称賛してくれたが、ハルカは動揺に言葉が出ない。
聞かれた聞かれた。恥ずかしい恥ずかしい。
「ハルカ、ピアニストみたい!」
エリザベスがピアノの上に舞い降りた。
「おまえにしてはまぁまぁいいと思うぜ?」
社長までもが褒めてくれた。
「いっ、いつからいたの?」
誰とも目は合わせず、どきまぎしながらやっと答えた。まだ指は鍵盤に乗ったまま。
「少し前かな。インターホンにエミリオ君が出てね。ハルカは今手が離せないからと言って開けてくれたよ?」
ハイコのその言葉に愕然とする。
全然気付かなかった……。二人と二匹が来たことだけではなく、インターホンが鳴ったことも、エミリオがこの部屋から一旦いなくなったことも。
ハルカは急いでエミリオを見た。エミリオはソファーの上で半身を起こしている。
「なんで言ってくれなかったの?」
ちょっと怒ったように言ったら、
「言ったら弾くのやめたでしょう?」
そんなに自分の演奏を聴きたかったのか──と思うと、ハルカはさらに恥ずかしくなった。体温が上がる。この場から去りたい。一人になりたい。
ゆっくりと無言でピアノの蓋を閉じたハルカは、ハイコとチヒロの間を擦り抜けて部屋を出ようとした。しかし、急に立ち上がったのが災いしてか、激しい眩暈がした。目の前が銀色にチカチカ光って、どうしようもなくなる。
額を押さえ、倒れそうになったところで誰かに支えられた。
「ハルカ! 大丈夫かい?」
本気で心配しているような声だった。ハルカはハイコの腕に仕方なく掴まり、またおとなしくピアノの前に座った。するとチヒロが突然ハルカの背後に回って来て、「ちょっとごめんね」と言いながらハルカの髪を退かして首筋辺りをチェックしだした。その後手首を裏返したり腕もまくって見たりした。ハルカはとりあえずされるがまま。
そしてチヒロはついに発見した。血が滲む、針穴だらけのヵ所を。
大きなため息をついたチヒロは、
「嫌な予感が当たった……。ちょっと早めに来てみれば……」
今日は土曜なので夕方からカウンセリングだ。まだ3時なので確かに少し早い。
片膝を立て、そっぽを向きながら座るエミリオを厳しい目付きで見たチヒロは、続けた。
「おい。そこの少年A。俺この前言ったよな? ハルカちゃんを脅して言うこと聞かせようとするなって」
チヒロの声は凄みが効いていた。自分に言われている訳でもないのにハルカは少し怯えてしまう。
別にエミリオを弁護したい訳ではないが、ハルカは怖ず怖ずと割って入った。




