第7話 4
最初の音を弾こうとした時、「毛布ありがと」そんな言葉が部屋の隅から微かに聞こえた。びっくりしたが、ハルカは何も言わず、代わりに演奏で返した。
鍵盤を弾く指は、まるで自分の意識を離れて勝手に踊っているようだった。なんだか軽い。とても滑らかだ。気分が乗ってくる。驚いたことに、ほとんど間違えずに弾けた。
最後の音の余韻が響く中、ハルカは突然背後にエミリオの気配を感じた。振り向こうとすると──肩を抱かれた。そして首筋に吐息と歯の生暖かい感触。
「なっ!?」なにするの!?
全身を一気に悪寒が走り抜け、ハルカの心臓は止まりそうになった。
「いやっ」
抵抗しようとしたら、意外にもエミリオはあっさり離れていった。そして何食わぬ顔で顎に手を当て、
「うーん。やっぱり頸動脈はまずいですよねぇ。止まらなくなったら死にますし。その前にハルカは痛いの嫌ですよね?」
立ち上がったハルカは鍵盤を背後に、状況を理解していないにもかかわらず、とりあえず何事も痛いのは嫌なので、こくこく頷いた。まだ心臓が激しく脈打っている。呼吸は荒いまま。
エミリオはにこりと微笑い、
「そうだと思ってさっき病院から“いいもの”盗って来ました」
ジーンズのポケットに手を伸ばすエミリオ。「じゃーん」と言って出したのは──
「注射器です。これならナイフより50分の1、噛まれるより100分の1の痛みで済みます」
そう言いながら注射器の包みを破ったエミリオは、
「でも、採血用のくせにかなり小さいので時間がかかるかもしれません。はい座って──」
されるがまま、ハルカは鍵盤を左手側にして椅子に座った。エミリオはハルカの正面に来て、鍵盤の蓋を閉じ、ハルカの黒のワンピースの袖をまくって、蓋の上に白い腕を乗せた。そして──たぶんそれも盗んだのだろう。ゴムチューブの先に金具が付いた血を止める為の器具を、ハルカの腕に巻き付けた。
エミリオが注射針の蓋を外したところで。
「ちょっと待って」
やっとハルカに落ち着きと言語が戻って来た。
「つまり、今エミリオはわたしの血を飲もうとしてるの?」
「……」
そうですよ──などとあっさり言うと思ったら、意外にもエミリオはその場に手を付いてしゃがんでしまった。下を向いているので表情は分からない。
なんだか心配になってきたハルカは、躊躇いがちに声を掛けてみた。
「……エミリオ?」
ゆっくりと顔を上げたエミリオは、ハルカの膝に両腕と額を乗せ、突っ伏したようになった。
「……どう……したの?」
困惑したハルカは静かに訊いてみた。エミリオを気遣かって両足を1ミリも動かさずに。
「……飲みたいんです。どうしても」
篭った小さな声がハルカの膝でする。時々かかる息がくすぐったい。
「僕は結局、ヴァンパイアなんです……。ドイツの奴らと中身は違っても、結局同じヴァンパイアなんです……」
ハルカのワンピースの裾を握ったエミリオが、ゆっくりぽつりぽつりとしゃべり出す。
「血が飲みたくてしょうがないんです。ヴェインリッヒ達のように顔の見えない誰かの平凡な血じゃなくて、……僕は、ハルカの血が飲みたい。世界で一番おいしい、ハルカの血が……どうしても、飲みたい……」
エミリオには珍しく、本気で懇願しているような声だった。
そんなこと言われても……。どうしよう……。
ハルカの心は揺れた。
本能からくる欲望には本人ですら逆らえないのかもしれない。人間だってそうだ。精神を持った生き物にとって、本能はいつだって決して抗うことのできない恐怖の一つだ。
エミリオは無理矢理ではなく、ちゃんと訳を話してくれた。だから──。
「……いいよ──」
小さな声で言い、膝の上のエミリオの髪を一撫でした。真っ白な髪は細くて柔らかくて、きっと天使の羽根もこんな風にふわふわなんだろう──とハルカは思った。
「少しだけなら」
それを言った瞬間、立ち上がったエミリオに抱きしめられた。ちょっと肩が痛かった。エミリオは何も言わない。ただ、頭をたくさん撫でてくれた。気持ち悪いはずなのに、なぜかホッとする。温かい手の平が髪を滑る度、思い出す。あの人を。
ハルカは目を閉じた。
(お母さん……)
今は会えないけど、いつかきっと会える。1日でも早く、会えますように……。小さい頃のように、優しく髪を撫でてくれますように……。
……また外した。これで何回目だろう。
初めてなのか、エミリオは採血がものすごく下手だった。始めの頃は、ハルカが痛いと文句を言ってはエミリオが舌打ちをして謝る──という流れが出来上がっていたが、もうそれすらない。
ハルカは痛みにいちいち言葉を発するのがめんどくさくなってきたので、エミリオが外しても黙っていた。エミリオの方も、外しても何も言わなくなった。
麻薬常習者のように針穴だらけになった腕を見て、ハルカは、こんな生殺し状態が続くならむしろひと思いにナイフで手首を切られた方がましかも──と思い始めていた。
「今、“下手くそ──”とか、“ナイフで切られた方がまし──”とか思ったでしょう?」
ぎくっ。エミリオの鋭さにハルカは一瞬震える。
「思ってないよ」
目を逸らしてぎこちなく答えたら、
「だいたいハルカの血管が細いのがいけないんです。僕のせいにしないでください」
エミリオが不機嫌そうに怒りだした。
「なにそれ」
痛くてイライラしていたので、ハルカも負けじと応戦する。
「エミリオこそ他人のせいにしないでよ。自分の腕で練習してくれば良かったんじゃないの? ヴァンパイアも身体構造は人間と同じなんでしょ?」
「嫌ですよ。痛いじゃないですか」
堂々とした文句にハルカは開いた口が塞がらない。
「それにこの僕がハルカの為にそんなめんどくさいことすると思いますか?」
それもそうだと妙にすっきり納得してしまったハルカは、「思わない……」と答えて力尽きたように下を向いた。疲れた──。早く終われ──。そんなことを考えていたら、故意か偶然か、エミリオがまた刺してきた。痛いなぁ──と思っていたら、
「きたっ」
エミリオが声を上げた。
「えっ?」
ぴくっと顔を上げると。ずっと空っぽだった注射器の中には鮮血が泉のように湧き出していた。エミリオはゆっくり注射器を引きながら、もう一方の手で、血を止めていたゴムチューブをハルカの腕から取った。
やがて注射器いっぱいに血が溜まると、本体と針を外し、針の方の接続部から溢れる血を指で塞ぎながら、片手でピアノの上の小さなペットボトルの中に採血した血を噴射して入れていた。そしてまた本体と針を繋ぎ、血を抜く。
刺されることはもうないようなので、ハルカはホッとした。
「血ってすぐ固まっちゃうんじゃないの?」
ペットボトルに少しずつ溜まっていく自分の血を見て、ハルカはなんとなく訊いてみた。
「大丈夫です。僕の血を一滴入れておきましたから。ヴァンパイアの血はこういう時便利なんですよ。固まらなくなるんです」
「ふーん」
適当な相槌を打つ。
「どれくらい採るの?」
「3リットル」
ぎょっとするハルカ。
エミリオは笑いながら、
「そんなことしたらハルカ死にますよ。まぁ、僕としては何リットルでも飲みたいところですが、今日は100ミリで我慢します」
とりあえず落ち着いたハルカは、
「ヴァンパイアって1週間に1回くらい血を飲むのが普通なんでしょ? また1週間後に100ミリ?」
エミリオは急に元気がなくなったようになって、
「本当はそうしたいんですけど……いろいろ調べてみたんですよ。日本の献血事情を」
「え?」
きょとんとするハルカ。
「知りませんでした。15歳は献血できないんですよ。ハルカはまだ15歳ですよね?」
こくりと頷く。
「献血は16から可能で、例えば200ミリ採ったら4週間待たないといけないんですよ。400の場合は16週間もです。しかも年間採血量には限度があって、ハルカの場合はたったの800ミリなんです。さらに体重が軽すぎてもできません。つまり、日本赤十字社が定めた内容によると、僕はやってはいけないことをハルカにする訳です」
「う、うん」
なんとなく気圧されて相槌を打った。
そんなに調べていたなんて。驚きだ。ハルカの身体をエミリオなりに気遣かってくれているということだろうか。
「毎週100ミリ採っていたらハルカは──」
生唾を飲み込むハルカ。
「たぶん死にます」
がーん。ショックだ。でも全然絶望は感じない。
「だから今は1ヶ月に100ミリで我慢します。そしてハルカが16歳になったら200に増やします。年間採血量を大幅に上回るのが心配なので、ハルカの体調を見ながらですが」
「それで足りるの?」
1回にどれくらい飲めばいいのかなんて知らないが、気にはなる。
「足らせます」
エミリオは妙に意気込んでいる。
「ハルカには分からないだろうけど、一度ハルカの味を覚えたら、ハルカ以外からはノーサンキューなんです」
言いながらエミリオは、ハルカの腕に刺さる針を消毒液で濡れた脱脂綿で押さえ、まっすぐゆっくり抜いた。最後の血液をペットボトルに噴射して入れると、キャップを閉め、高く掲げて満足そうに見上げていた。
(大事に飲んでね……)
たくさん開いた針穴を脱脂綿で押さえながら、ハルカは胸を痛めていた。改めて思うとなんだか悲しい。
人間の血を飲まないと死んでしまうなんて……。
どうしてそういう運命になってしまったのだろう。ヴァンパイアの中には人間の血を飲むことを拒んでいる者もいる。それでも飲まなければ死んでしまう。
いったい、今まで何人のヴァンパイアが苦悩のうちに命を落としたのだろう。何人のヴァンパイアが自分を化け物と思って嫌悪したのだろう。
その辛さの本質は、人間のハルカなんかには分からないのかもしれない。
それでも分かりたいと思うのは、所詮理解者を気取りたいだけなのだろうか……。
苦しみが和らげば、それでいいのに……。
「あれ……」
指についたほんの少しの血を舐めたエミリオが、意外そうに呟いた。
もしかして、この前ひと口だけど激辛カレーを食べたのと、ブラックコーヒーを飲んだのが効いて、血がまずくなったのか──と思ったハルカは、エミリオには悪いがちょっと期待した。
「前よりおいしくなった気がする……」
がーん。ハルカは10本の指すべてを同時に目の前の鍵盤に落とした。そして隣のエミリオを見上げて呟く。
「う、そ……」
「なんでそんなにショックを受けるんですか」
不思議そうに言ったエミリオは、「あーやばい飲みたい。でもこれでひと月やり繰りしないとなぁ……」と、ペットボトルを見ながらよだれらしきものを拭きつつ、ぶつぶつ言っていた。




