第7話 3
「だって、いきなり親しいとみんな不思議に思うでしょう? それにその方がハルカを守り易いし」
エミリオの右手がハルカの左頬に触れる。
「それならものすごぉく遠い親戚とかにすれば良いんじゃないの?」
手を払いつつ真面目に答えたら、チヒロが吹き出すように笑った。そしてハイコは無言で立ち上がり、ハルカに迫るエミリオの襟首を後ろから掴んで、
「セクハラはやめようね? エミリオ君?」
その顔はむしろ神々しい程眩しい笑顔なのだが、なぜか怖い。ハルカは口を半開きのまま固まる。エミリオは警戒するようにハイコに目をやり、ゆっくりハルカから離れていった。そしてその後不機嫌そうに小さく舌打ちしたのを、ハルカは聞き逃さなかった。
元々敵同士だったので仲良くやっていくなんて無理なのは分かっていたが、二人が不仲だと、なんとなくすっきりしない。
「そうだハルカ。昼休み気分が優れないようだったけれど、大丈夫だったかい?」
いつの間にかエミリオと席を代わったハイコが話し掛けてきた。そんなこといちいち覚えていたなんて──と驚いたハルカは、引っ掛かりながら答えた。
「えっ、あっ、うん……。大丈夫」
「それは良かった。でも、何かあったら一人で悩み過ぎないで、誰かに相談するのだよ?」
答える代わりにハルカがこくりと頷いた──その時。誰かに足を蹴られた。位置的にチヒロは斜め向かいなので不可能だ。犯人はどう考えたってエミリオなのだが、当の本人は何食わぬ顔でピザを食べている。
「どうかしたかい?」
不思議そうに訊いてくるハイコ。
エミリオが蹴った。なんて言ったら、ハイコはハルカを1ミリも疑ったりせずエミリオを叱るだろうけど、なんだかそれはぶりっ子が告げ口してるみたいで嫌だった。別にたいして痛くなかったし、ハルカは、「なんでもない」と答え、我慢することにした。
すると調子に乗ったのか、また蹴ってきた。しかし今度のは蹴られたというより押された。膝を踵でぎゅうっと。それでもハルカは何も言わず、顔にも出さないで我慢していた。そしたら。
「無視するなんていい度胸ですねハルカ」
軽く睨まれた。
ハイコとチヒロは何がなんだか分からない様子。
「ただいまー」
ハルカをシフトで送りに行ったチヒロが戻って来た。さっそくハイコは、チヒロと一緒に“例の件”をエミリオに訊いてみることにした。
「そこの白い少年。訊きたいことがあるんだけど」
怪しいくらい爽やかな笑顔でソファーのエミリオに近付いたチヒロが、テレビの音量を消した。ハイコは対面キッチンカウンター前に置いてあるシックな丸椅子に座り、二人の様子をはらはらしながら見守った。
エミリオは胡散臭そうな顔で肘掛けまで後退り、
「なんですか?」
「おまえ昨日ハルカちゃんになんかしただろ? ハルカちゃんの首筋にキスマークらしきものがあったんだけど。俺達の気のせいかなぁ?」
チヒロはエミリオの肩に腕を回したが、欝陶しそうにかわされてしまった。
「そうだと思います」
その声はいつもより高く、顔は笑顔だ。純真無垢という言葉がよく似合う。左目を純白の眼帯で覆っているからか、余計儚く、汚れなく見えた。
初めてこの笑顔を見る者は、まさかこの少年が女の子の髪を引っ張ったりするなんて、思いもしないだろう。
しかし、その笑顔に騙される者は生憎この部屋にはいない。
「気色悪い演技すんなっ」
チヒロが冷たくあしらうと、エミリオはあっさり笑顔をやめ、いつもの声で、
「ちょっといたずらしただけです。別に深い意味はありません」
立てた片膝を抱いたエミリオは、ふいっとそっぽを向いた。それを見て呆れたようになったチヒロはうなだれ、
「ちょっといたずらしただけって……」
その後怒ったように顔を上げ、
「まさか殴るとか言って脅して、押さえ付けて無理矢理──なんてことないよな?」
すると間髪入れずに、エミリオがらしくない危機迫ったような表情で、
「そんなことしてません! ……勝手に眠ったから勝手にいたずらしてみただけです。ハルカは一切不快な思いはしてません」
「ホントかぁ?」
疑わしげにエミリオを見つめたチヒロは、真面目に説教するように、
「あのな、いい機会だから言っておくけど、ハルカちゃんはエミリオみたいに暴力を振るう他人に、逆らえなくなる時があるんだよ。だから、簡単に従順になるからって力で支配しようとするな? ヴァンパイア能力を使って脅すなんて論外だぞ? 分かったか?」
すっきりしない表情のエミリオは、
「なんで逆らえなくなるんですか? ハルカって昔何かあったんですか? 滅多に笑わないことと何か関係して──」
「それはおまえには関係ない」
はっきりとした口調でチヒロが遮った。この部屋でハルカの悲しい過去を知らないのは、エミリオだけだった。
エミリオは唇を尖らせた。
「……僕だけ仲間はずれですか」
チヒロは困ったように笑い、
「いや別にそういう訳じゃないよ。ただ他人に簡単に話すようなことじゃないってだけだ。だから落ち込むなって。なっ?」
頭に乗るチヒロの手を払ったエミリオは、急に開き直ったように立てていた足を投げ出して、
「あぁそうですか。そうですよね。どぅせ僕はすぐ手が出る問題児ですよね。こんな僕には何も教えられませんよね。でもしょうがないじゃないですか。ハルカを見ると虐めたくなるんだから」
そこでソファーから立ち上がるエミリオ。
「先に帰ります。散歩してから帰るので遅くなります」
エミリオがシフトしようとしているので、ハイコは椅子から立ち上がって真面目に、
「エミリオ君? ハルカに変なことしたら許さないからね?」
エミリオは脱力するように笑った。
「あの無い胸をどうやって揉めっていうんですか」
「なっ……!?」
衝撃的な台詞に動揺して言葉に詰まってしまったハイコだが、頬を染めながらもなんとか反論する。
「げ、下品な言い方をするのは、やっ、やめ給え!」
「冗談です。たとえハルカの胸が大きくても、僕は何もしませんよ」
ジーンズのポケットに親指を引っ掛けてしゃべるエミリオの表情は、穏やかだった。まるで何かを達観したかのような。
「まさか──!」
突然目を丸くして口に手を当てたチヒロが、憐れむように──しかしどこか楽しんでるっぽく、
「おまえもしかして恥ずかしい病気とか……? ごめん知らなかったよ。そういうの診てくれるヴァンパイア紹介しようか?」
「そんな目で見ないでくださいっ。違いますよ」
チヒロにからかわれたと思ったのだろう。エミリオは憤慨したように言って背を向けてしまった。そしてなぜか突然、暗く影のある雰囲気になって、
「……むしろ病気にはなりたいくらいです。……あいつらの同類になんて……絶対になりたくないから……」
その台詞を最後にエミリオはどこかにシフトしてしまった。残されたハイコはチヒロと顔を見合わせる。
「……あいつらって、誰だろう?」
「さぁ……?」
顎に手を当て、チヒロはなにやら真面目に思案している模様。
「……でも、エミリオもあれでいろいろ抱えてるんだよ。きっと」
◆
昨日でやっと中間考査が終わった。セント・エーデルワイス学園は私立だが、週5日制を採用している。よって本日土曜は休みなのだが、ハルカは休んでいる気分になれなかった。
原因は白髪赤眼の少年ヴァンパイア──エミリオにある。彼は昼過ぎになると突然現れ、ハルカのピアノが聴きたいと言い出したのだ。家にピアノがあることも弾けることも言ったことはないのだが、なぜかばれていた。この前、ローマから帰って来た時にでも見たのだろうか。
エミリオはちゃんと1階からエレベーターで来たので、その誠意に免じ、ハルカは黒のグランドピアノがある防音室にエミリオを案内した。
ピアノを弾くのは久しぶりなので、まずは指慣らしの為に簡単なJ-POPを弾いた。するとエミリオに後頭部を平手で叩かれた後真面目に怒られた。クラシックを弾いてください──と。
ハルカもクラシックの方が好きだし、指慣らし云々の言い訳をしてまた叩かれるのは嫌だったので、黙ってクラシックを弾くことにした。その後エミリオは部屋の隅の低いソファーに寝転がり、文句を言わなくなった。
最初はショパンのノクターンを演奏した。澄んだ綺麗な水が流れる誰もいない森。月光の下で妖精が楽しそうに踊っているような──。ハルカは勝手にそんな風に解釈している。
次は、序盤の哀愁漂う静穏な雰囲気から一変、一気に悲しみが激情となって押し寄せる、ハルカの一番好きな曲──別れの曲を弾いた。
ショパンは好きなのだが、そればかり弾いていて文句を言われたら嫌なので、シューベルトやラフマニノフも弾いた。
あれから約1時間。曲は間違えまくりだが、エミリオは何も言って来ない。まぁ、将来ピアニストになる訳でもなく、ただの趣味で弾いているたかが15歳のハルカなんかに超絶技巧を求めてくる訳もないが。
ふとハルカが身体を曲げてピアノの向こうのエミリオをそーっと覗いてみると、なんとエミリオは寝ていた。低いソファーに俯せになって力尽きたように。
どうしようかおろおろ迷った揚句、ハルカはいちおうあるベッドしかない父親の部屋へ向かい、毛布を1枚引っ張って来た。そしてそれをエミリオにかけようとした時── 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
気付いたらカーペットで俯せになっていて、背中で両手を一つにされていて、首には冷たいペティナイフの感触があって──。
「……なんだハルカか」
そんなことを抑揚のない眠そうな声で言ったエミリオは、立ち上がってペティナイフをベルトの後ろの方に隠すようにしまっていた。
ハルカは4分の1くらい身体を起こしつつ、ぽかんとしてエミリオを見上げた。
“敵”だと思ったのだろうか。寝ている時でもあんなに早く対応できるなんて。エミリオは今までいったいどんな過酷な毎日を送って来たのだろう。ハイコやチヒロのようなヴァンパイアを“敵”としていたのなら、当然報復のようなこともされて来たのだろう。寝込みを襲われたりもしたのだろうか……。だから気配に敏感なのかもしれない。
そして今日ここで寝ているのは、もしかしたら現在の居候先──チヒロのマンションでは落ち着かないのかもしれない。
「はい」
エミリオが手を差し出してきた。ハルカはそれを緊張しながら掴む。
「もっと聴かせてください。別に眠気を誘う曲じゃなくてもいいです」
何事も無かったかのようにまたソファーに寝転がったエミリオは、ハルカが持って来た毛布に包まり、右目を閉じた。ハルカは煮え切らない表情のまま、「う、うん」と言ってピアノの前に戻った。
次は雰囲気を変えて、ブラームスのパガニーニにした。目の覚めるような躍動感に溢れた華麗で叙情的な曲だ。速い曲なので難しいが、そういう曲を無心になって弾くのが好きだった。




