第7話 1
(……うーん……)
……集中できない。
右手でシャーペンを握りつつ、左手で額を押さえたハルカは心中で唸った。……昨日エミリオに頭突きされた部分が僅かに疼く。
中間考査初日。現代語の長い文章問題にハルカは躓いていた。
PTSD患者は集中が困難になることが多いというが、今の状態はそれとは関係ないとハルカは思う。そして額の疼きも関係ない。
ここ1週間の濃い体験のせいで、きっとまだ脳が混乱状態にあるのだ。なにしろたった24時間前にはイタリアのローマにいたのだから。いろんな整理がまだきちんと出来ていない。ストレスも溜まっている。
とりあえずハルカは文章問題を飛ばすことにした。
ハイコやチヒロは言っていた通り朝方帰国した。そしてすぐにハルカのマンションに結界というものを張ってくれた。その後ハルカは自分の部屋で身支度をし、モノレールで登校したのだ。今日はチヒロが、ヴァンパイア達に荒らされて乱れたハルカの家を、使い魔の社長と一緒に綺麗にしてくれている。
モノレールにはいつものようにリュウトがいた。試験期間中は通学時間が若干変わるので、車内は空いていた。クロスシートに向かい合って座り、二人で問題を出し合ったりした。そしてそのモノレールにはエミリオも乗っていた。護衛の為だそうだ。近付いては来なかったが、つばが下を向いた黒い帽子を目深に被って腕を組み、席はいくらでもあるのに起立して窓に寄り掛かっている姿を見て、ハルカはただならぬプレッシャーを感じた。
なんとなく、こっちを睨み、怒っているように思えたのだ。しかし原因が分からない。むしろ怒るのは自分の方だと思う。
結局自分が悪いのかもしれないが、勉強中に寝てしまったのをエミリオは起こしてくれなかったし。頭突きの痕が痣になったし。
心中でため息をついたハルカは、無意識に首筋を掻いた。今朝から何回掻いたかもう分からない。そこには小さな赤い痕がある。これも集中できない原因の一つだ。
内出血のようだったが思い当たる節がない。ハルカはすぐに内出血説を考え直し、虫に刺されたのだと判断した。するとその時を境に急に痒くなってきたのだ。
得体の知れない謎の虫がひと晩中自分の首筋を這いずり回っていたことを想像したハルカは、卒倒しそうになった。虫嫌いなハルカにとってはある意味拷問だ。
いちおう虫刺され用の痒み止めを塗って来たのだが、まったく効果がない様子。むしろ気にしすぎてさらに痒くなってきた。あまり掻いていると血が出てきそうなので、ハルカは意識的に掻くのをやめて無理矢理問題に集中した。
しかし今度は別の思考が邪魔をする。
今現在、たくさんのヴァンパイア達が自分を探している──。もし捕まったら……
──生きたまま指や腕を食べ、汗を舐めたりするんですよ?
ローマで言っていたエミリオの言葉が鮮明に蘇る。同時に軽い吐き気に襲われたハルカは、シャーペンを離し、机に突っ伏して目を閉じた。
(……気持ち悪……)
重たい気持ちのまま、ハルカは思った。
どうしてわたしの血なんかが、ヴァンパイアにとって一番おいしい血なんだろう。もっと──例えば、朝ごはんを毎日食べ、偏食せず、正しい食生活を送り、素直で明るくて、無邪気で好奇心旺盛で、マイナスなことは一切考えず、悩み事はプラスの力に変え、よく笑い、積極的で、部活は運動部なんかに入ってて、みんなに頼られてて、その上背が高くてスタイルも良くて──。
そんな人間の方がおいしいに決まっているのに。どうして正反対ともいえる自分の血なんかがおいしいんだろう……。
(あっ)
そこでハルカはあることに気付き、ぴくっと顔を上げた。
ヴァンパイアはおいしい血に興味がある。ハルカ自身ではない。ならば血をまずくすればいいのだ。
もうエミリオの目的──妹のアナの声は戻ったし、ハルカがトリプルSでいる必要はない。
時計台でエミリオに貰った小さな赤いノート──。あそこには、血の味を保つ為にやった方が良いことや、やってはいけないことがたくさん書いてある。やってはいけないことばかりをやってみよう。
でも……。
そのやってはいけない項目には、さっき上げたことが書いてあったように思う。笑いすぎや、楽しいことを考えすぎるのは良くないとか。
つまり、よく笑い、プラス思考で日々を送れるようにならなければ、血はおいしいままという訳だ……。
ハルカは再び机に突っ伏した。
(……そんなの無理だよ……)
やる前からさっそく後ろ向き思考なハルカにとっては、試験よりも難しい問題だった。
血の味というものは簡単に変わるものなのだろうか。今度エミリオに訊いてみよう。
◆
やっぱりそんなに簡単に血の味なんて変わらないんじゃ……。
消極的になりながらも、ハルカはノートに書いてあったことを実行してみることにした。ただし、笑顔やプラス思考は性格上今すぐにはまず無理なので、今すぐにでも手軽に出来るものをチョイスして。
ちょうど昼休みなので、食べ物系を試してみることにした。すっぱいもの、苦いもの、辛いもの──といった、いわゆる刺激物は血をまずくするらしい。
自分はそういったものが嫌いで、まったくと言っていい程食べないことをハルカは思い出した。そして逆に、血をおいしくするらしい甘いものは、毎日食べていることも……。
家の冷凍庫にはスーパーで見つけた業務用のボックスアイスが大量に入っているし、学食で頼むのはいつもデザートだ。
普段は、いちごとバナナにバニラアイス付きの生クリームたっぷりクレープや、チョコチップアイス付きのベルギーワッフル、それからいちご牛乳やアイスミルクティーを注文するところだが、今日は辛いもの苦いものを意識して、一部の男子の間で大人気の、激辛ハバネロカレーなるもののレベル1と、ブラックアイスコーヒーを、高等部エリアに一つだけある、相変わらずヨーロッパ貴族のダイニングルームのように豪奢な食堂──ドイツ語で“かわいい星”こと“リープ・シュテルン”で、頼んでみた。
「相澤さんもハバネロ食べるの!? しかもブラック!? いつもと違くない?」
今日は友達のケイタとカズキがそれぞれ彼女と一緒に食べると言ったので、久しぶりに大好きな相澤ハルカと二人きりで昼食を採れると思い、テスト期間中にも関わらず舞い上がっていたら。そのハルカがいつもの甘いものとはまったく違う、レベル1とはいえ激辛ハバネロカレーとブラックアイスコーヒーを頼んでいたので、リュウトは驚いた。
「ちょっとね。実験」
よく分からないことを言うハルカに首を傾げつつも、リュウトはカウンターで、いつもの激辛ハバネロカレー・レベル3と、ウーロン茶を頼んだ。
お金をカードで支払い、食事の乗ったトレーを持って重厚な円形の木製テーブルに落ち着くと、ハルカがもう一度立ち上がった。リュウトが、「どうしたの?」と訊くと、
「氷取って来る」
ハルカは小走りに行ってしまった。
(氷……?)
中空を見上げながらぼんやり反芻していると、ハルカが戻って来た。ワイングラスに氷をたくさん入れて。
そしてそれをカレーへイン。ぐるぐる掻き混ぜる。
「ええぇぇ!? カレーに氷入れんの!?」
ぎょっとしたリュウトは半分腰を浮かせてハルカのカレーを覗く。
「……だって熱いんだもん」
言い訳しながら混ぜるスピードを緩めたハルカは、なぜか少しだけしょんぼりとしていた。
きっと相澤さんは猫舌なんだ。食べるのに時間が掛かったら俺に迷惑だと思った。だから氷を入れたんだ。なんていじらしい。
勝手にハルカの行動をプラスに解釈したリュウトは、元気に、
「じゃあ食べよっか? いただきますっ」
「うん。いただきます」
ひと口食べては、「辛っ」とか「ありえねー」とか「死ぬぅ~」を繰り返してウーロン茶を飲むリュウト。傍から見たらアホだが、それがいい。それが楽しい。だから舌が痺れても涙が出ても汗が出ても、また明日頼んでしまう。明日はレベル4に挑戦してみよう。確かC組の坂田とかいう奴はレベル10を制覇したとか言ってたし。負けらんねぇ。
リュウトが激辛レベル制覇に燃えていると、ふとハルカが口を押さえてスプーンをそっと置いた。
「……相澤さん?」
食べる手を止めて訊くと、ハルカはこっちを見ながら舌足らずの涙目で一言。
「……からい」
直後リュウトは慌てて立ち上がった。
「えっ!? だっ、大丈夫!?」
「リュウトっていつもこんなからいのたべてたの? すごい」
好きな人に尊敬されてしまったリュウトの心はときめき、そして緊張した。
「ちょ、超嬉しいけどっ、今はそれどころじゃねぇ! とりあえずコーヒー飲んでみるとか!?」
リュウトが差し出したコーヒーを飲んだハルカは──
「……うっ、……にがい」
今度は細い声で吐きそうな顔をした。普段クールで抜目のないハルカが、今は年の離れた世話のかかる妹のように見えてきた。今日のハルカはなぜかいつもと違う。
「こっ、こうなったら水だ! ちょっと待ってて!」
席を立ったリュウトはカウンターに向かい、ミネラルウォーターを注文して急いで戻った。500ミリリットルのペットボトルだったのでコップについであげ、「はい! 飲んで!」とハルカに渡す。
ハルカは両手で受け取り、ごくごくと飲み始めた。
しばらくすると落ち着いて来たようで、少し恥ずかしそうにお礼を言ってきた。
「……ありがと」
「いやいや」
なんだか照れてきたリュウトはへらへら笑いながら、自分の茶色い頭を掻いた。
「もう平気? 別のもの頼みに行く?」
訊いてみると、ハルカは困ったような顔でカレーを見下ろし、
「……でも、これこんなに残したら怒られるかも……。それに氷入ってるし」
「そんなの大丈夫。俺が──」食べてあげるよ!
台詞は途中で遮られた。周囲に突然集まって来た大勢の男子生徒達によって。
「僕! 僕が食べてあげる! カレー大好きなんだ!」
「俺一度でいいから氷入りカレー食べてみたかったんだよ!」
「俺なら3分で食べれるよ?」
皆おしくらまんじゅうの如くぎゅうぎゅうになりながら手を上げ、自分を必死にアピールしている。集団心理が働いてか、皆妙にテンションが高い。
そんな光景にリュウトは引いたが、無理も無いと思った。この学園はほとんど男子校のようなもので、女子は20人しかいない。最新の情報によると、その中で彼氏がいないとはっきりしているのはハルカだけなのだ。その上ハルカは20人の中で一番と言ってもいい程の容姿を持っている。下手なアイドルなんかより抜群に美少女だ。




