第6話 17
「あぁ、それはただ感化されただけです」
ハルカの切迫さとは対照的に、エミリオはあっさり即答した。
生クリーム入りのプリンをぱくっと一口食べ、
「キリストの血とトリプルSのハルカが異常接近し、一種の共鳴現象みたいなものが起こったんです。そんなに思い詰めたり深く考えたりする必要はありません。ほら──」
銀のスプーンを振りながら、
「霊に乗り移られた人間がその霊の記憶や感情を共有してしまうのと同じで、一時的なものです。ハルカはピエタの前にいた時だけ、マリア──もしくはキリストの、残留思念か何かに触れたんですよ。それから血の涙も、いわゆる科学では説明できないことではありますが、その時だけの現象なので気にすることはありません。現に今までも、バチカンから帰ってからも、血の涙が出たことなんて一度もなかったでしょう?」
エミリオはハルカを見ながらまたプリンを食べた。ハルカは伏し目がちに何か考えているようだったが、やがて納得したのか、安堵したようにため息をついて、
「よかった。変な病気にでもなったかと思った」
ハルカはエミリオに背を向け、シャーペンを走らせ始めた。
(アホだ……)
エミリオはハルカの背中を疑いの眼差しで見つめた。またスプーンからプリンが落っこちたことに気付かない。
普通は、自分のことを怪奇現象を起こす呪われた人間だと恐れたり、もしくは人間じゃないのではないかと苦悩したりするはずなのだが、ハルカが重点を置いていたのは自分が病気かそうでないか──だったのだ。
やはりハルカは変なところで天然らしい。そして何かが根本的に、致命的にズレている。いったいどんな親に育てられたのか。気にはなる。
しかし、ハルカの不安が減ったのならそれでいい──とも思っていた。
それからしばらくエミリオもハルカもしゃべらなかった。ハルカがシャーペンを走らせる音やページをめくる音だけが静かに響く。
エミリオはハイコのベッドに横になり、とりあえず今日は使わないというハルカの数学の教科書を片手でぱらぱらめくった。成績上位には入れないかもしれないが、この程度なら入学はできるだろうと思った。
問題は、まだ読めない漢字がたくさんあるということだ。問題文が読めないと解ける問題も解けない。しかし絶対エーデルワイスに入ってみせると意気込んだ。入れなかったら恥ずかしいし、ハイコやチヒロに憐れみの目で見られるのには耐えられない。
エミリオは仰向けになり、数学の教科書を、今度は両手で1ページ目から読み始めた。
(……ん?)
いくつか暗算で問題を解きつつ、半分くらい読んだ時だった。ふと気付いたらハルカがシャーペンを走らせる音が聞こえない。半身を起こしてみると。ハルカはテーブルに突っ伏していた。肩が一定のリズムで僅かに上下していることから、どうやら眠っているらしかった。
現在日本時刻は深夜1時を回ったところ。しかしローマで生活していたハルカにとってはまだ夕方くらいの感覚のはず。しかもあれだけやりたがっていた試験勉強ができているのにその最中に寝るなんて。これはもうローマであまり眠れなかったに違いない。
エミリオは近距離シフトでハルカに近付いた。そして傍にしゃがみ、清潔で艶のあるまっすぐな黒髪をふわりと撫でた。
きっと日本に帰って来て安心したのだろう。ハルカはまったく起きる素振りを見せない。
起こさなかったことを後で怒られるかもと思ったが、エミリオは慎重にハルカを抱きかかえ、さっきまで自分が寝転がっていたハイコのベッドにそっと寝かせ、グレーの布団をかけてあげた。
部屋の照明を落とした後ベッド脇の床に座り、シーツの上に腕を乗せ、ハルカを眺めた。
2~3分眺めていると、“あの感覚”を感じた。“渇き”だ。喉が渇いた。しかし水が飲みたい訳じゃない。もちろん清涼飲料水でもコーヒーでもミルクでもアルコールでもない。人間の血だ。
ハルカが飲みたい。
人間を殺すことはやめたが、ハルカから直接血を飲むことをやめた訳ではない。結局ヴァンパイアは人間の血を飲み続けなければならないのだ。だったら“持ち主”の痛がる顔も見ないで済むリスクのない血液パックに“逃げる”より、肌から直接飲む方が狡くない気がした。現実に向き合うことは大切だ。
だから僕は逃げたくない。
自分がヴァンパイアだということを常に実感する飲み方を選択したい。
しかし、ハルカの血を飲んだら絶対ヴェインリッヒや牧野に軽蔑される。せっかく信用してくれたのに……。
葛藤したエミリオはベッドに突っ伏して横を向いた。なんとなく、ちゃんと元に戻った爪をいじりながら、しばらく考えた。
ハイコ達の信用を大事にするか、自分のスタイルを貫き通すか。
ハルカは親しくなったヴァンパイアに直接血を吸われることをどう思っているんだろう。
不意にそんなことが浮かんだ。
例えば、もしもハイコにどうしても飲みたいと懇願されたら、どんな反応をするのだろうか。
最終的には許してしまうのではないか。
そんな気がしたら、なぜかハルカをかわいがりたくなった。冷たいようでいて優しいハルカを、もっと大事にしたくなった。
膝立ちになったエミリオは片足の膝だけベッドの縁に乗せ、覆いかぶさるように、ハルカの細い両肩の脇に両手を付いた。
ベッドがゆっくりと軋んだ音を立てる。エミリオは屈み、後ろの水槽が発する青い光を微かに受けて余計ミステリアスに見えるハルカの顔を、至近距離で見つめた。
一瞬魔がさして白い首筋に噛み付きたくなった──がしかしなんとか自制を効かせ、唇を重ねようとした──がしかし。それすらも自制した。別にキスくらいで血の味ランクは落ちないが、やはり唇は特別な感じがするので。
数秒真上からハルカを見下ろしたエミリオは、額の冷却シートに軽く触れ、囁くように──しかしちゃんと誠意を込めて、
「ごめんね……?」
柔らかい首筋に口を付けた。頸動脈の温かい脈動がエミリオを陶酔させる。喉が鳴る──が噛み付くのは我慢した。
しばらく肌を吸い、口を離すと、目論み通り小さなキスマークが出来た。
陶器のように一点の曇りもない白い肌に、自分のしるしが刻まれた。
満足感に、エミリオは思わず口の端を吊り上げた。ハルカへのちょっとしたいたずらは成功だ。しかし恐らくハルカはこれがキスマークだとは気付かないだろう。星空の下、フィンランドの庭で額にしたキスを、“不発デコピン”と勘違いしたくらいだから。その鈍感さは破滅的──いや、むしろ一種の犯罪だ。
次は唇にしよう。もちろん本人が起きている時に。嫌でも気付くよう貪るようにしてやろうか。それとも舌を入れてやろうか。
邪な構想を練りつつゆっくりと静かにベッドを降りたエミリオは、自分とハルカが一緒に寝ていたら、はたしてハイコとチヒロはどんなリアクションを取るだろう──とも思ったが、そんな子供じみた実験はやめ、おとなしくソファーに移動することにした。数学以外の教科書も読んでみたいし。
布団を軽く直した後、エミリオはもう一度ハルカを見つめ、前髪をそっと撫でた。
いつも冷めた目で世界を見つめていて、あらゆることに心を乱されたりしなさそうなハルカだが、オーロラにすごく興味があって、普通にゴーストが怖くて、荒らされた部屋を気持ち悪いと感じて、脇腹が弱点で──。
ハルカは冷静で淡泊で、あまり人間味を感じないが、深く付き合っていくとそんなことはないと分かる。本当はきっとすごく臆病なのだ。不安の塊を胸に抱いて生きている。いつも強がってそれらを隠している。自分のことを知られたくないのだろうか。自信がないから? 他人を信じれないから?
隠してる本当のハルカをもっと見てみたい。誰も知らない本当のハルカを見てみたい。もっと。
立ち上がったエミリオは対面キッチンカウンターへ歩いて行き、冷蔵庫からペットボトルのコーラを取り出して飲んだ。一気に半分くらい。
ハルカの血を飲むことを諦めた訳ではない。飲むことはもう決めた。たとえハイコ達に軽蔑されても構わない。
だって、自分はヴァンパイアなのだから。
理由はそれだけで十分だ。
テスト中に貧血になったらかわいそうなので、せめてテストが終わってから美味しく戴くことにした。
◆第6話◆
◆END◆




