第6話 16
「だからダメだって。まだなんの情報もないんだから」
「いいよ」
下を向いたハルカが唇を尖らせた。
「一人で行ってくるから」
言うか言わないかでハルカが駆け出した。エミリオはぎょっとしつつも慌ててハルカの細い腕を掴み、引き止めた。
「何考えてるんですか!」
「放してっ。勉強しなくちゃいけないの。時間がないのっ。お願い」
ハルカが必死そうに懇願してくる。そんなハルカはらしくない。ということは、ハルカにとって試験勉強はそれほど重要という訳だ。フィンランドでのオーロラみたいに。
エミリオは迷った結果、
「ハルカと離れる訳にはいきませんので、一緒に行きましょう。まぁ、ヴァンパイアに遭遇したらすぐにシフトすれば済みますしね。ただし、時間は短い方がいいのでできるだけ急いでください?」
落ち着いた様子のハルカが目を逸らし、しおらしく静かな声で言った。
「ありがと」
エミリオの右手は勝手にすっとハルカの頭に伸び、勝手に優しく撫でていた。もう一人のエミリオが、シフトする為には相手の身体に触れなければならない。だからこれは当たり前の行為──と脳内で言い訳をしていた。
中々シフトしないのを訝ったのか、ハルカがしゃべり出した。
「ね、ねぇ、早く行こう? 夜の学校って、なんか……」
そわそわしながらそこで言葉を切るハルカ。エミリオはすぐにピンときて、「うわ、意外。ハルカってゴーストが怖いんだ?」とからかう。
「そ、そんな訳ないでしょ? いーから早く連れてって」
ハルカは強がっている模様。図星だ。エミリオは我ながら子供っぽいと思いながらも、ハルカがおもしろいのでもう少し遊ぶことにした。
ハルカの左肩を指差し、早口で、
「あっ! 肩に半透明の白い手が!」
「いやっ」
ハルカは悲鳴と同時に、左肩を払うような仕草をした。
「まっ、まだいる?」
なんとハルカは涙目だ。
(ほんとハルカって……)
自分の嘘を簡単に信じ、本気で怖がっている様子が、エミリオには堪らなく愛おしく見えた。まるで皆から好かれる小動物が自分にだけ懐いてくれた時のような──。優越感と満足感、それから保護欲と支配欲が同時に湧いた。
「最初からいないし。なに本気で信じてるんですか? ほんとハルカって、バァーカ」
最後だけ半眼で見下し、間延びした声で言う。
「──!」
ハルカは言葉にならない様子で唇を噛み、上目遣いで恨めしげにこっちを見つめてきた。そして、「やっぱり一人で行く」と捨て台詞を残し、両開き扉を開け、教室から出て行ってしまった。しかしすぐにこそこそ戻って来た。
頬を微妙に染めたハルカは恥ずかしそうに扉に背中をくっつけ、少し困ったようにそっぽを向いて、
「……やっぱり、一人じゃダメ、かも……」
恐らく廊下に出た途端、前方に続く闇を見て心細くなったのだろう。
思わずエミリオは声を上げて笑った。ハルカの行動や表情がツボに嵌まったので、遠慮なく、心底おもしろがって。
(ほんとハルカって……おもしろっ)
ハルカのマンションの部屋には無数の足跡があった。部屋も荒らされている。引き出しは手付かずだったが、扉やクローゼットはすべて開いた状態にあったし、布団は、これでもか──というくらいにめくられていた。“何か”ではなく“誰か”を探したみたいだった。高そうなテレビやパソコンは動かそうとした形跡すらないし、どう考えても物取りの仕業とは思えない。
つまり、“来た”のだ。あいつらが。
ハルカの家は物が異常に少ない。さぞかし部屋やクローゼットを探すのに手間取らなかったことだろう。
そんなことを思いながら、エミリオは乱雑に布団のめくられた自分のベッドを無表情に無言で見下ろすハルカに声をかけた。
「だいたい分かってたことでしょう? 早く取るもの取ってヴェインリッヒの家に行きますよ?」
「…………」
しばらく反応がなかったが、煮え切らない表情のハルカは小さな声でやっと、
「……うん」と頷いた。そしてテキパキと机の上の本やノートをバッグに入れ始めた。
「そういえばハルカは一人暮らしなんですか?」
エミリオはハルカのベッドに腰掛け、天井を見上げながら何気なく訊いた。
「まぁ、そんな感じ」
抑揚のないハルカの答えは曖昧だ。だとするとたまに帰ってくるのだ。
完全な一人暮らしだったら学園の寮はやめ、ここに住むことをこっそり考えていたエミリオだったが、あえなく消えた。まぁ、どうせそんなことハイコやチヒロが許しはしないだろうけれど。
ハルカが不満顔で振り返った。
「ここ気持ち悪い。早く行こう?」
なんとなく分かる気がする──。そんなことを思ったが、エミリオは無言で立ち上がり、そっとハルカの左頬に触れ、右目を閉じ、ハイコの部屋へシフトした。
ぐぅぅ。
腹筋するように頭の後ろに両手を敷き、ハイコにしては意外とシンプルなベッドで仰向けに寝転がっていたエミリオは、自分のお腹の底からしたみっともない音にがっかりした。
「……ハルカお腹空かない?」
半眼でもそりと起き上がり、試験勉強をしているハルカの華奢な背中に声を掛ける。
「……」
また無視だ。どうやらハルカは勉強に集中すると周りの音が聞こえなくなるらしい。
ローマで朝食を摂っていたとしても、もう7時間以上は経っている。ハルカはお腹が空かないのだろうか。
エミリオはベッドから降りてハルカを後ろから抱きしめてみた。
「……」
なんとこれでも無視だ。さすがに気付いているとは思うが。今度は脇腹を人差し指で突いてみた。すると。
「やっ」
短い悲鳴を上げたハルカは瞬時に脇腹を押さえ、激しく横に倒れた。ネイビーブルーのシンプルなシャーペンがハルカの右手から離れ、フローリングの床を転がる。
「なっ、なにするの?」
起き上がりつつ睨んでくるハルカ。
「話し掛けてるのに無視するからです」
「してないよ」
ハルカは引っ掛かりもなく即答だ。
「しました」と断言しつつエミリオは呆れた。ハルカは本当に気付いてなかったようだ。なんという集中力だ。
「用はなに?」
ハルカが警戒心剥き出しに後退る。
「たいしたことじゃないんですけど、お腹空かない?」
「別に。空かないけど?」
他人のことなどどうでもいい──。そんな言い方の冷めたハルカにムッとしたエミリオは、四つん這いで近付き、頭突きした。ごつっ──という篭った音が、ハイコの広い長方形ワンルームにこだまする。
頭突きは自分も痛いので手加減した。それなのにハルカは仰向けに倒れた後しばらく動かなくなってしまった。
「うぅ、いたた……」
額に手を当て、眉間に皺を寄せて目を細めたハルカが、痛そうに唸って半身を起こした。
「ごめ、なさい……」
まだ額を押さえながら、ハルカが突然謝ってきた。
「なんで謝るんですか?」
エミリオは少し驚いて瞬きをする。
「だって、わたしの何かに怒ったんでしょ……?」
ハルカは叱られた子供のようにしゅんとしている。
「まぁ、そうだけど──別に謝る程のことではないと思いますよ? それより見せて?」
額を押さえるハルカの手を剥がしてみると──。
(うわぁ……。やばっ)
エミリオの顔は引き攣る。そこには見事なたんこぶが出来ていた。これをやったのがばれたらヴェインリッヒや牧野にうるさい文句を言われる。説教はもうたくさんだ。
ハイコ達が来るまでまだまだ時間がある。エミリオはそれまでに治してしまおうと思い、冷蔵庫に入っていたジェルタイプの冷却シートをハルカの額に貼付けた。
気になるのか、ハルカは冷却シートを煩わしそうにしていたが、やがて試験勉強に集中しだした。
そして結局エミリオは、なぜか冷蔵庫に大量に入っていた市販のプリンを食べ、空腹を紛らわせた。外に食べに行ったりデリバリーを頼るのも考えたが、ハルカはテーブルから動きそうにないし、自分は日本円を持ってないしで、諦めた。……ハルカにお金を借りるのは癪だし。
「あの、さ」
ベッドにあぐらをかいて生クリーム入りのプリンを掬った時、手を止めたハルカが振り返って話し掛けてきた。
「何か?」といちおう言葉は発したものの、ハルカのあまりの不安げな顔にエミリオは驚いていた。掬ったプリンがカップの中に落ちていくことに気付かなかった程だ。
「金曜日、トネットさんがバチカンに連れてってくれたんだけど……」
「うん」
エミリオは真面目に相槌を打って聞いた。
「サン・ピエトロ大聖堂にあった、ピエタのマリア像がね……」
「うん」
「血の涙を流したの」
「うん」
確かに誰かに話したくなるネタだが、ハルカが自慢話しやオカルト好き──ましてや敬謙なキリスト教信者だとは思えない。なのでハルカが今この話しをエミリオにしたのにはちゃんとした理由がありそうだ。案の定、ハルカの話しには続きがあった。
「その時わたしも……血の涙が出たの。周りの人は、わたしとマリア像が同時に流したって言ってた。……なんか……誰かの……──」
なんて言ったらいいか分からない──ハルカはそんな感じだ。
「悲しい気持ちみたいなのが突然流れ込んできて……。気付いたら泣いてて……。色が真っ赤で……びっくりして……怖くなって……」
だんだん声が小さくなっていくハルカはそこで一旦黙り込んだ。そしてまた顔を上げて、
「どうしてあんなことが起こったか、エミリオには分かる?」




