第6話 15
「エミリオ君? ハルカのマンションには日本に着いたら前より強力な結界を張るから、とりあえず私の家で待っててくれ給え」
そこでハルカを見たハイコは、
「ハルカ。日本はもう夜だし、私達が着く頃には早朝になってるから、眠たくなったら無理しないでベッドを使っていいからね? あっ、それと、冷蔵庫のものも自由にしてくれて構わないよ?」
ハルカはこくっと頷いて、「うん」と言ったが、眠るつもりはなかった。食事はもっとどうでもいい。勉強するつもりなのだ。明日から中間試験が始まるから。勉強道具を学校と家から集めないといけない。エミリオに言って寄ってもらおう。
「では、信じるからね? エミリオ君。ハルカを頼むよ。それと、もう髪を引っ張ったりしてはいけないよ?」
言われた傍からエミリオがハルカの黒髪を引っ張ってきた。
「痛っ!」
「こらエミリオ君っ」
ハルカが痛がるのとハイコが助けようとするのはほぼ同時だったが、ハイコがエミリオの腕を掴む前に、エミリオはシフトした。
ハルカの黒髪を引っ張るエミリオの腕を掴もうとしたハイコだが、ぎりぎりのところでシフトされてしまい、結局空を掴んだ。
「──ったくしょうがない奴だなぁ」
眉をひそめたチヒロが隣で悪態をつく。
「とりあえず今は、エミリオ君を信じるしかないね」
ハイコは独り言のように呟いた。オレンジ屋根がびっしり並ぶ、ローマの街を見渡して。
「そうだな」と了承したチヒロがハイコを見て、
「知ってるか? 物事に執着せず、素直で従順で正直者で、いつも笑顔で善良の鏡みたいな人間は、極限の苦しみを知らない人──もしくは心的外傷が癒えた状態にある人がほとんどだ。本気で死にたくなるような不安や恐怖を持ってる人は、過去や今の何かにこだわってるし、フラッシュバックに敏感だし、他人を簡単に信じないし、慎重だし、捻くれてる。ヴァンパイアも同じだよ。エミリオの性格を歪ませたのは、たぶん周りの環境だ。……まぁ、あいつもあいつなりに闘ってるってことだよ。だからきっと大丈夫。エミリオにとっては、妹とやらとした約束を守ることが、自分の健全さを保つ為の重要なキーなんだよ。妹の為に何かをしてる時が一番“善”を感じてるはずだ。よっぽど妹に対して後ろめたいことがあるか──あるいはただのシスコンか。両方ってこともあるかな」
ハイコはチヒロの話しを真面目に聞いた。
エミリオに妹がいるのを知ったのは、ついさっき、エミリオの台詞の中でだ。エミリオが大事にしている妹──。ハルカが声を治してあげたらしい妹──。いつか会ってみたいと思った。きっと、エミリオのことがもっとよく分かると思うから。
相手のことを理解するには、まず自分から知るということが必要不可欠だ。でないと相手の情報がいつまでも更新されず、悪い印象ばかりが勝手に増殖するから。
「そんでもって、どうやらエミリオはハルカちゃんに特別な感情を抱いてるとみた。これはもうトリプルSだからって訳じゃなさそうだ。ライバルが増えたな、ハイコ?」
チヒロが肩を組んできた。チヒロの言っていることをにわかには信じられなかったが、ハイコは動揺を隠し切れなかった。
「ま、まさか。だって普通好きな人に意地悪はしないよ。エミリオ君はハルカの髪を引っ張っていたではないか」
「わぁかってないなぁ~。好きだから構いたくなるんだよ。不器用な奴はそういうアプローチの仕方をすんのっ。つーかハルカちゃんをハグした時エミリオに蹴られただろ? あの蹴りに何か感じなかったのか? 俺は、お気に入りのおもちゃを盗られた子供みたいに見えたけど?」
微妙にじぃんと疼く膝を見下ろしたハイコは、チヒロの言う通り、そこにエミリオの焦燥らしき感情を感じた気がした。
エミリオがハルカを好いている──。
それが本当だとしたら、とんだライバル出現だ。
「ハルカは……どうなのかな?」
「は?」
「ハルカは……エミリオ君の気持ちに、気付いているのかな?」
不安げに訊くハイコ。
「それはないよ」
チヒロはやけに自信ありげに即答だ。
「どっ、どうして?」
「だってハルカちゃんて──なんていうか天然? リアクションが薄いのはトラウマ関係──または性格としても、あれだけ熱烈なハイコのハグを受けても淡々としてたし。きっとものすごくそっち系に鈍いんだよ。今どきの女子高生にしてはかなりの希少種だな。ある程度のことをしても気持ちに気付かれないと思うけど、逆に気付いて欲しい場合、直球ストレートど真ん中で伝えないと気付いてもらえないデメリットもある。まぁ、とにかく大事にしろよ?」
ハイコの肩にチヒロの手がぽんと乗る。
「てゆーか早いとこ日本に戻った方がいいんじゃない? でないとハルカちゃんとエミリオが部屋で二人っきりのデンジャラスタイムが増えるぞ?」
「そっ、それは大変だ!」
弾かれたようにチヒロを見るハイコ。そんな時チヒロが不意に半眼で目を逸らし、意地悪っぽく、
「……まぁ、さっきのハイコの方がある意味デンジャラスだったけど」
「そっ! それは……! だって──」
先程ハルカを強く抱きしめてしまったことを思い出したハイコは、頬を染めてうろたえた。しかしすぐに浮かない表情になって、
「久しぶりに会えたから……。その、……学校では気をつけるよ。私が生徒であるハルカを好いていることがばれたら、問題になりそうだからね……。私一人が保護者や偉い人に責められるのは構わないけれど、他の教師までいわれのない批難を受けてしまったら、……申し訳ないし。なによりハルカに迷惑がかかる……。教師や生徒達がハルカのことをどんな目で見るか……。ハルカはきっと授業に集中できなくなる。そしたら、その原因を作り出した私を、嫌ってしまうよ……」
だんだん暗い顔になるハイコ。言ってて悲しくなってきた。胸が軋む。
ヴァンパイアであり教師であり大人である自分。人間であり生徒であり未成年であるハルカ。
立ちはだかる壁が大きいことをあらためて実感した。
しかしそれらを超越するくらいハルカが愛しいのは、やはり事実だった。
◆
アナの使い魔──白うさぎのシュネーは、カナダのログハウスにいるアナに返した。そのログハウスは、エミリオがアナとその親代わりのカーフォード夫妻と共に約1週間過ごした家だ。人里離れた針葉樹生い茂る森の中にひっそりと建っているので、誰かが訪ねて来ることはない。
エミリオはその後特に休んだりはせず、すぐに日本へシフトした。
──明日は中間試験があるの。できるだけたくさん勉強したいから、早く日本に戻らせて。
そんなハルカの願いをきいてあげたのだ。
日本はすっかり夜になっていた。東京の空は明る過ぎて星がほとんど見えない。エミリオは今ハルカと一緒に、私立セント・エーデルワイス学園高等部、1年G組の教室にいた。
ここに自分もそのうち通うことになる──。
そんなことを思いながらエミリオは暗い教室を見回した。
ローマにいた時点で実は決めていた。チヒロの案を受け入れ、この学園に通い、寮に住むことを。即答しなかったのは、ハイコ達に素直に従ったみたいになるのが癪だったからだ。
窓からは街明かりが差し込んでいるが、やはり暗いので、エミリオは青白い小さな炎を出現させ、ロッカーの鍵を開けようと手探りしているハルカの手元を照らしてあげた。
「……あ、ありがとう……」
こっちを見て少し驚いたようにお礼を言ったハルカは、この学園の指定らしい黒のナイロンバッグをロッカーから取り出し、またロッカーを閉めて鍵をかけ、言いにくそうに、
「あと、家にも寄って欲しいんだけど……。この──」
バッグの側面に手の平を乗せるハルカ。
「中のじゃ足りないの。せめて明日の日本史と現代語のノートだけでも……」
若干怯えたようなハルカに上目遣いで見つめられると、エミリオはなぜか、頬をつねったり頭を小突いてみたくなる。ハルカは背が小さいし小柄だし、幼児体型なのでなおさらだ。なにかしらちょっかいを出したくなってしまう。
つねったり小突いたりするのは我慢して、代わりにエミリオは、ハルカのまっすぐな黒髪を自分の指にくるくる巻き付け、
「今家に行くのはまずいです。結界を張った本人が離れすぎです。僕も張れますが、違う誰かが張ったところに重ねるとどうしても脆くなるんです。でも所詮“あいつら”のこと。“あいつら”は抜け駆けを絶対許しません。だからそのうちメンバーを厳選して、公式に認められたヴァンパイアだけを日本に送ってくるようになります。そうなったら、強いだろうけど人数は少ないのでなんとかなります。ドイツの情報はたぶん牧野が仕入れてくると思うので、分かります。案外ドイツはもう、そういう体制をとっているかもしれませんが。……だってさっきから何度か広範囲検索をかけてるのに、一人も引っ掛かりませんし」
「だったら大丈夫だよ。ねぇ行こう?」
ハルカの黒髪をもてあそぶエミリオの手が止まった。




