第6話 11
「I'm OK【アイムオーケイ/大丈夫です】」
かたことながらハルカも英語で答える。トネットはまたも心配そうな顔をしたが、少し微笑って、
「Then next will go to a St.Peter's Basilica【じゃあ次はサン・ピエトロ大聖堂へ行きましょう?】」
「Sure【シュアー/うん】」
大聖堂の中にも観光客はたくさんいて、他の場所と変わらないはずなのに、なぜか入った途端不思議な空気に包まれた。初めて来た場所なのに、まるで自分の家にでも帰って来たような──。
ここには1500年にミケランジェロが製作したピエタがある。ピエタとは、磔刑に処せられた後のイエス・キリストを抱く、聖母マリアの彫刻や絵画のことだ。中でも“サン・ピエトロのピエタ”は傑作といわれている。
ガラスの向こうの、聖母マリアが座った状態でキリストの亡骸を悲しげに抱きかかえた様子の大理石の彫刻を見つめながら、ハルカは物思いに耽った。
キリストの血はヴァンパイアを滅ぼす生物兵器──。
エミリオが嘘をついていなければ、それは真実だ。このバチカンのどこかにそれがあり、密かにこの街と周辺を守っている。
(……感謝……します……)
経緯や原理は不明だが、そんなものはとりあえず置いておき、ハルカはそっと目を伏せて躊躇いがちに伝えた。ガラスの向こうのピエタに。ハルカが今キリストに守られているのは事実みたいだから。
(え……?)
ハルカは思わず目を疑った。今、マリア像が微笑ったような気がしたのだ。
「ねぇ! ちょっとねぇ!」
その時、後ろの方の若い日本人女性が小声で叫んだ。
「今マリア様微笑わなかった!?」
女性は興奮気味に隣の若い日本人男性に訴えている。周りの、様々な国から来た観光客達もざわめき始めた。どうやら微笑ったように見えたのはハルカの見間違いではなかったようだ。
その時、突然ハルカの胸に抑え切れない程大きな感情が生まれた──というよりは、外部から流れ込んで来た。素手で心を鷲掴みにされたような──酷く苦しく、悲しくて、どうしようもない切なさだった。大切な存在から自分のすべてを否定され、憎まれる時のような、生きる糧である希望が一瞬にして消え去っていく時のような──どこまでも深い絶望感に似ていた。
喉の奥と胸全体が痛み、上手く息ができなくなったハルカは、立っていられなくなり、胸の辺りの服を握りしめながらその場に座り込んだ。
「Are you feeling sick?【アーユーフィーリングシック?/具合悪いの?】」
トネットが少し慌てたように話し掛けて来る。しかし答える余裕がハルカには無い。
その時ハルカの頭上で大きなどよめきが起こった。それとほぼ同時に、ハルカは頬に生温いものを感じた。
気付くとハルカは泣いていた。ぽたぽたと、服を掴む指の間に涙がぬるぬると流れ込んでいった。しかし色がおかしい。真っ赤だ。まるで血のような──いや、匂いや粘り気からそれは正真正銘の血液だった。目に痛みはまったく無いのに。
混乱したハルカが目の前のピエタを見上げると──なんとマリア像も涙を流していた。ハルカと同じ色の涙を。白い大理石に真っ赤な雫が流れていく──。周囲のどよめきはこれが原因だったのだ。
やがて観光客達もハルカの異変に気付き始めた。日本人観光客が、「何あの子? 日本人よねぇ? どうして涙が赤いの?」などとこそこそ話しているのが聞こえる。
ハルカがトネットの差し出すタオルに気付き、受け取ろうとした時、抑え切れない感情が嘘のように引いて行った。
いったい何だったのか。
そんなことをぼんやり思いながら、血の涙を流すマリア像を見つめ、涙を拭いていると、ふと周りの視線が気になった。
様々な国の人間がハルカを見下ろしていた。単純に好奇心で見つめる者、何が起こったか分からないがとりあえず皆が見ているので見つめるただのやじ馬、奇妙な生き物でも見るように眉をひそめる頭の固そうな者、信じられないというように口を半開きにして首を横に振る者──。
何を勘違いしたのか、畏怖の混じった眼差しで見つめる者や、胸の前にクロスを描いて瞳を輝かせる者までいた。ハルカはクリスチャンではないし、血の涙を流すのは聖痕とは違う気がする。ただの目の病気かもしれないのに。
ハルカがトネットに支えられて立ち上がると、人々の向こうから真っ白な法衣に身を包んだ初老の男性が何人かやって来た。恐らく司教か何かだろう。その男性達に、数人の観光客らしき人達がなにやらこちらを指差して必死に話している。
やがて法衣の男性達がピエタのマリア像を見て慌ただしくなった。そして観光客がハルカを示しながら男性達に何か言っている。目の下を指で擦るジェスチャーまでして。
「あの人はなんて言ってるの?」
ハルカは小声で、発音に気をつけながら英語でトネットに訊いてみた。
「あなたとマリア様が同時に血の涙を流したと言ってるわ。あなたのこと奇跡の聖女みたいですって」
トネットはゆっくりしゃべってくれたので、長かったがなんとか意味を理解することが出来た。
(せい……じょ……?)
呆れて言葉も出なかった。こっそり眉をひそめるハルカ。聖女な訳ないじゃないか。作り話しじゃあるまいし、そんなものいる訳ない。
法衣の男性達がハルカに向き直った。今や大聖堂は妙な空気に包まれている。
なんだか大事になって来た。やだな。逃げたい。透明人間になりたい……。
ハルカのテンションは下がる一方だった。吐きたくなってくる。
この注目された状況に耐えられなくなったハルカは、法衣の男性が神妙な面持ちで口を開いた瞬間、踵を返して脱兎の如く逃げ出した。まるで泥棒でもしたみたいに。
失礼なのは分かっていたが、何かが弾けた。ここ数日のストレスかもしれない。気付かない間にたくさん溜まっていたのかもしれない。
見知らぬ土地だし、知り合いもいないし、言葉もすべては分からないし、これからどうなるのかもよく分からないし、テスト勉強はできないし、ハイコ先生への疑惑はまだあるし、時々妙に優しいエミリオがちょっと怖いし──。それから先程の苦しい感情と血の涙。
目に見えない不安が大きな塊になって自分を包み、閉じ込められてるみたいだった。早くここから抜け出したい。
どうすればいいのか分からなかったが、身体を動かしたい衝動に駆られたハルカは、とにかく走った。サン・ピエトロ広場を全力疾走し、バチカンを出てローマの道を行き当たりばったりに走った。
誰かに全部聞いて欲しい。誰にも何も言いたくない。構って欲しい。ほっといて欲しい。
アンビバレンスな感情が心を埋め尽くした。
そして気付いたらまた泣いていた。この涙はちゃんとしたハルカ自身の感情だった。不安と孤独の涙だった。
正しい色の涙を拭いながら、疲れてきたハルカは、テヴェレ川沿いをとぼとぼ歩いた。通行人の視線が痛い。たまに地元のイタリア人らしき大人の男性が軽い感じに話し掛けて来たが、その度ハルカは小走りに逃げた。何を言っているのかまったく分からないし、なんか怖いし。
ハイコ先生はどうしているだろう。
不意にそんなことが過ぎった。もしかして、探したりしてくれているだろうか。しかし、あの夕暮れの教室で曖昧な反応をして、裏切ったみたいになったのは事実だった。あの時ハルカがハイコをほんの少しでも疑ったのは確かだ。
こんな自分に探してもらう権利なんて無い。そう思った。
ハルカは、今度ハイコに会ったら、エミリオの怪我のことをちゃんと本人に訊いてみようと思った。ハイコを信じたいという気持ちがあったから。
おせっかいで、バカみたいで、たまに言うこと意味不明で、美形なくせにへたれだけど、嫌いではなかった。
目を見て、落ち着いて判断しよう。本当のことを言っているのかいないのか。
それでも分からなかったら──? いや、きっと分かる。エミリオよりは、ハイコのことの方がまだ知っているから。ほんの少しだけど、過ごした時間はエミリオより長い。その時間が、ハルカに真実を教えてくれるはず。
◆
「んっ!?」
テヴェレ川の向こう岸に見覚えのあり過ぎる人物を見た気がして、ハイコは声を上げて振り返った。
「何!? 見つけたの!?」
隣を歩くチヒロがびっくりしたように訊いて来る。
「ほら、向こうの歩道。歩いてるあの子! ハルカだよ!」
ハイコは興奮気味に指差した。俯きがちにテヴェレ川沿いを歩く黒髪ストレートの小柄な少女は、確かにハルカだった。ずっとずっと探していた、ハイコの大好きな大好きなハルカだった。
「マジでローマにいた……」
信じられないというように呟くチヒロ。
「でもなんであんなとこ歩いてるんだ? しかも一人で。しかも──なんていうか、泣いてない?」
チヒロの言う通り、ハルカはしきりに目の辺りを擦って──まるで泣いているようだった。
「とにかく向こうに行こう!」
そう言って橋に駆け寄ろうとしたら、「ストップ!」とチヒロに肩を掴まれ止められた。
「向こう側は無理だって! “アレ”の影響が強すぎる」
「……っ」
唇を噛み、断腸の思いで諦めようとしたハイコだが、やはり諦め切れず、チヒロの制止を振り切って橋を渡った。
「くっ……!」
しかしほんの数メートル進んだだけで息が詰まり、試しに前方へ伸ばしてみた中指の先が数ミリ、沸騰したようにぶくぶく泡立ち、腐るようにどろどろと溶け落ちていった。
自分が化け物という事実をまざまざと見せ付けられたハイコは、分かっていたとはいえあまりのショックに動けなくなり、激しい痛みさえ忘れて指先を見つめ続けた。




