第6話 10
「でも、どこに?」
「俺的には逆手を取って、絶対ありえない場所にいると思うんだ」
顎に手を当てているチヒロは少し得意げに微笑んでいる。
「ありえない……場所……?」
口に出しながら、ハイコは思考を巡らせた。
今のエミリオはドイツの追っ手から逃げている。恐らく誰にも見つからない安全な場所を探しているはずだ。しかしその逆手を取ったということは。
「もしかして、あえて危険なドイツに帰った──とか?」
結構真面目に言ったのに、「アホかっ」と突っ込まれた。
「いくらありえないと言ってもそれだけは絶対にありえない」
「ではいったいどこに?」
「バチカンだよ」
ハイコは耳を疑った。なので眉をひそめて、「もう一回言って」と言う。しかし、「バ チ カ ン」というチヒロのはっきりとした発音に、聞き間違いではないと悟る。
「そ、そっちの方がありえないよ。だってあそこには──」
「“アレ”がある」
チヒロはハイコの台詞を請け負うように言った。
「だからこそだよ。ヴァンパイアはあそこに行かない──。そんな固定概念を利用したのかもしれないぞ? そしてこの推理が正しければ、当たり前だけどエミリオとハルカちゃんは今一緒に行動していないことになる。恐らくエミリオはほとぼりが冷めるまでハルカちゃんをバチカン周辺のホテルにでも泊めておいて、しばらくしたら合流するつもりなんだよ」
「でも、どうして一緒に行動しないことにしたのかな?」
「そんなの決まってんだろ?」
チヒロは呆れたように言う。
「エミリオはそれだけハルカちゃんを他のヴァンパイアに取られたくないんだよ。もしも一緒に逃げてたとする。その時大勢のヴァンパイアが襲って来たら、さすがのエミリオでも勝てないって思ったんだろ。怪我もしてるし。自分が殺されてハルカちゃんが奪われることになるくらいなら、初めから一緒に行動しない方がいいって思ったんだよ。なにげに賢明だなあいつ。……エリクシルを盗んでハルカちゃんを一人占めしようとしてることに関してはアホだけど。つーか無謀」
軽い言い方だが、チヒロの黒い双眸は半眼で窓の外を睨んでいた。
「ハルカが逃げてしまうことは考えなかったのかな? そりゃあ、ハルカはパスポートもお金も持ってないから逃げられないことは分かっていると思うけど……」
ハイコの胸に不安が広がった。エミリオは、ハルカは絶対に逃げないという確信を持っているのかもしれない。パスポートやお金なんかではなく、もっとプラトニックな。
その確信とは──。
やはりハルカは、ハイコがエミリオにあんな酷い傷を負わせたと思い込んでいるのだろうか。だからかわいそうなエミリオを信じ、おとなしく待つつもりなのだろうか。
やりきれない思いで額を押さえていると、慰めるようにチヒロが肩に手を置いてきた──と思ったらばしっと背中を叩かれた。
「だぁ~いじょうぶだって。とにかくさ、とりあえずローマまで行ってみようぜ? ハルカちゃんには“アレ”が及ぼす影響わかんない訳だしさ、もしかしたら俺達でも行けるところを普通に歩いてるかもしれないじゃん。そうだよ今頃逃げてるかもしれないよ! だったら俺達が見つけちゃおうよ? 偶然ばったり会っちゃうかもだよ? そしたらそのままお持ち帰りしちゃおうぜ?」
「お持ち帰りって……」
チヒロの高いテンションに苦笑いするも、ハイコは希望が湧いてきていた。しかし、もしもローマでハルカを見つけても、信じてくれなくて、怖がられて逃げられてしまったら……立ち直れない気もしていた。
「愛があればなんでもできるだろ?」
「えっ!? ま、まぁ……それは……その……」
突然の愛という言葉にハイコはどぎまぎしてしまった。
ベッドに社長を寝かせたチヒロは、腰に手を当てて説教するように、
「なんだよその微妙な反応は? 強い気持ちでいかないと本気で取られるぞ? 分かってんのか? ハイコの“敵”はハルカちゃんの同級生でもなければ父親でもない、ヴァンパイアなんだぞ? 取られるイコール失恋とかそんな生温いもんじゃなく、二度と会えなくなるんだぞ? ハルカちゃんはハイコに見つけてもらえなかったばっかりに、これから大勢のヴァンパイア──もしくはエミリオたった一人だけの、家畜になるんだぞ!? まだ15歳なのに人生終わったも同然じゃん。それでいいのかよおまえはっ!?」
チヒロの剣幕に事の重大さを改めて認識したハイコは、首の後ろがぞくりとするのを感じた。おまけに冷や汗まで出る。
「よくない。よくないよ。早く、早くローマに行こう」
ハイコは真剣な顔付きで立ち上がった。必ず見つかると信じて。
◆
ホテルは東京にあるような高層な建物ではないが、かなり高級そうな、歴史を感じる外観だった。部屋は普通のワンルームだが、隅々まで綺麗だし、変な匂いもしなかった。壁紙や調度品もしっかりしていて、ハルカはこの部屋を気に入った。
今日は10月9日金曜日。ホテルに滞在してからもう4度目の朝を迎えていた。毎日ほとんどテレビを見ていたので、いくつかイタリア語を覚えてしまった。……さすがに会話はできないが。
学校が休みで良かった。1週間も休んだなんてことが父親に知れたら、いろいろめんどくさいことになるから。
しかし。今はただの休みではない。テスト勉強の為の休みだ。当たり前だがハルカは勉強道具を持って来ていない。このままでは学年トップは無理かもしれない。今頃みんなは勉強しているのに……。
時刻は午前9時。ハルカはまだベッドの中にいた。すっかり朝寝坊な引きこもりになってしまっていた。
ローマは世界的にも有名な街だが、いざ来てみると、所詮は見知らぬ街なのだ。一人で外に出るのは怖い。方向音痴なので、もしかしたらホテルに帰って来れないかもしれないし。
このホテルをとってくれたブティックの女性店員──トネットは、毎日この部屋に来てくれた。新しい服や食べ物を持って。
トネットは物静かだが細かいことに気が利くし、とても優しい。だから昨日、ホテルに篭ってばかりのハルカを気遣かって、“明日一緒にバチカンへ行こう”と誘ってくれたのだろう。
トネットは10時に部屋へ来ると言っていた。……そろそろ起きなければ。
半分眠ったままベッドを降り、ハルカはふらふらと洗面所へ向かった。エミリオの妹──アナの使い魔である白うさぎのシュネーは、ハルカが出て行った布団にもそもそと潜り込んでいった。マスターであるアナの声が戻ったからだろうか。シュネーはもうハルカに対して異常な程は怯えなくなった。
トネットは、まずバチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂を案内してくれた。システィーナ礼拝堂にはミケランジェロが描いた大天井画──創世記があった。天地創造や楽園追放など、旧約聖書──創世記の場面が描かれてある。
美術史に詳しくないハルカでも、言葉を失うような感銘を受けた。圧倒され、天井を見上げたまましばらく動けなくなった程だ。首の痛みさえ気付けなかった。
祭壇の壁には最後の審判が描かれていた。これもミケランジェロの作品で、彼は5年の歳月をかけ、1541年に完成させたという。
画の中央には再臨したイエス・キリストが描かれており、死者達に裁きを下している。右側には地獄へ堕ちていく人々、左側には天国へ昇天していく人々が描かれていた。
トネットによると、最後の審判は1981年からの13年間、修復が行われたらしい。しかもそれを支援したのは日本のテレビ局だそうだ。ハルカは日本人というだけで修復には何の関係も無いのに、トネットにお礼を言われてしまった。困ったハルカは謙遜して苦笑いをした。
次は外に出てサン・ピエトロ広場を歩いた。サン・ピエトロ広場は前方後円墳を逆さにしたような形で、入り口に当たる円形の方の中央には、てっぺんに十字架の付いた高さ25メートルのオベリスクがあり、四角形の方の奥にはサン・ピエトロ大聖堂の入り口があった。
ヨーロッパ系はもちろん、アジア系やアフリカ系といった様々な顔の観光客がいた。さすが街全体が世界遺産──しかもカトリックの総本山なだけはある。
日本人の団体を見つけたハルカはその時だけ妙な感覚に捕われた。月曜日の放課後からずっと、異世界にでも飛ばされたくらい現実感が希薄だったが、見慣れた日本人を見た途端、直接肌に塗りたくられるくらい近くにリアルを感じた。それなのに、自分だけ違う場所にいるという気持ちは消えなかった。
自分だけ闇色の底無し沼にはまっていて、そちら側に行こうと足を動かせば動かす程、さらに深く沈んでいくようだった。
「Are you OK?【アーユーオーケイ?/大丈夫?】」
トネットが心配そうに話し掛けてきた。トネットは少し英語が話せるし、大聖堂や美術館に動物は入れないので、結局シュネーはホテルに置いてきたのだ。




