第6話 9
休憩所のような場所でしばらくエミリオと女性店員は話し込んだ。一息ついたようになると、女性店員が携帯電話を取り出し、どこかにかけ始めた。2~3分話した後、女性店員は携帯電話をしまい、エミリオに何か言った。その顔は不安げで、怯えているようにも見える。
エミリオは余裕そうに微笑みながら、女性店員の肩に手を置いて何か言った。
女性店員が小走りに奥へ消えると、エミリオが白うさぎ──シュネーを差し出してきた。ハルカはとりあえず受け取る。
「シュネーは通訳として使ってください。ただし、日本語には訳せません。英語に訳してくれるのでなんとか理解してください」
そんなこと言われても自信がなかったが、ハルカは、「分かった」と返事だけした。
「さっきの店員──カテリナ・トネットにホテルをとってもらいました。ツインです。ハルカ一人で泊まるのは無理があるから、トネットも一緒に泊まるということにしておきます。怪しまれないように、ベッドはいちおう使ったように見せ掛けておいてください。トネットは今私服に着替えてます。ハルカはこれからトネットと一緒にそのホテルへ行ってチェックインしてください」
「トネット──さんは、ヴァンパイアじゃないの?」
「ヴァンパイアなのはトネットの恋人です。だから“仕事上の敵の弱点”と言ったんです。トネットに、この先も恋人と平和な毎日を過ごしたいなら僕のいうことをきけ──と、よくある脅し文句を言ったんです。トネットにはハルカの面倒を見るようにとも言っておきましたから、1日1回は様子を見にホテルに行くと思います。いや、もっとかな。たぶんトネットはハルカのことを、僕に捕まったかわいそうな女の子──とか思ってると思いますから。だからといって逃げようとか言われてもついて行かないでくださいね? それからヴァンパイアの弱点がバチカンにあることも秘密です。トネットの恋人は下級ヴァンパイアなので弱点がなんなのか知りませんから。いちいち教えないでくださいね?」
手の中で相変わらず震えるシュネーを撫でながら、ハルカは真面目に訊いてみた。
「ヴァンパイアの弱点て……なに?」
エミリオがにやっと嘲笑った。そして顎を掴んできた。
「知りたい?」
知りたい。しかし知ってどうするのか。ヴァンパイアをやっつけるつもりなのか。
目の前から消えて欲しい程嫌いなヴァンパイアはいない──。どんな疑惑があろうとも、それが今のハルカの真実だった。
「ハルカにならもう教えてもいいよ。1週間後、ハルカは日本に帰って元の生活に戻ります。これはアナとの約束でもありますから僕は守る気満々です。これを聞いたハルカが“アレ”を持ってくるとは思えませんから、話してもいいですよ?」
上目遣いのまま、ハルカは何かに導かれるように、ゆっくり頷いた。
「キリストの血です」
「……え?」
ハルカはエミリオの赤眼を真摯に見つめた。
ハルカの顎から手を離したエミリオは、
「記録ではその時代に最初のヴァンパイアが生まれたとされています。そしてメシアの血はヴァンパイアにとって、トリプルSと相反する性質を持っているんです。近付くだけで細胞を壊死させ、肌を焼き、肉を溶かし、骨を砕く──。とんだ生物兵器ですよ」
怖くなったが、ハルカは静かな声でなんとか訊いた。
「キリストの血が、バチカンにあるの?」
「一般人はトリノにあると思ってます。“トリノの聖骸布”──聞いたことありませんか? 聖ヨハネ大聖堂に“あることになっている”、キリストの遺体を包んだ布です。その布についてるんですよ。忌ま忌ましい血が。聖骸布の公開は不定期ですし、常にトリノに置いておく必要はありませんからね。普段はローマ教皇がいるバチカンに大切に保管されてるって訳です」
圧倒されて、言葉が出て来なかった。エミリオが嘘を言っている可能性もあったが、嘘とは思えない妙な説得力があった。
ハルカは聖骸布を知っていた。トリノの聖ヨハネ大聖堂にあることも。しかし聖骸布を科学的に検証するテレビ番組を見て、それは偽物だという思いの方が強くなっていた。
それにしても、エミリオの言う通りだった。もしもキリストの血が手に入っても、そんな危ないものとても持ち出す気にはなれなかった。
せっかく帰してくれると言っているのに、そのエミリオがいなくなったら日本に帰れない。その前に、エミリオがいなくなったらアナがどれだけ悲しむことか。アナの涙を想像するだけでハルカの胸は痛んだ。それから、もし日本に帰れたとしても、それを持っていたらあの人に会えなくなってしまう。あの人も消えてしまう。そんなのは……なんだか嫌だった。
奥から女性店員──トネットが出て来た。
「では、後はトネットについて行ってください。僕はここまでです」
その言葉になぜかハルカは、自分の身体から大事な何かが抜け落ちていくような、喪失感を覚えた。行かないで。こんな知らない初めての街で一人になんてしないで欲しい。置いて行かないで……。淋しい。怖い。
しかしそんなわがままを言ってはいけない。エミリオはまだ傷も癒えないのに、こうしてハルカを世界で一番安全な場所へと連れて来てくれたのだから。
「ハルカの泊まるホテルはバチカンの中にはありませんが、メシアの血の影響を十分過ぎる程受けています。なのでヴァンパイアは絶対入れません。例え気力で入れても肉体が朽ちていくのでハルカに危害は及ぼせません。来週月曜日の午前10時、この建物の屋上で会いましょう。あっ、それから──」
エミリオがいそいそとポケットから何か取り出した。それは日本のものとは根本的にセンスが違う、カラフルなユーロ紙幣だった。
「お小遣いです。いろいろ種類はありますが──全部で200ユーロです。日本円にすると──3万円くらいですかね。1週間ホテルに缶詰じゃ退屈だろうから、観光くらいは行ってもいいですよ。ただし、あまりバチカンからは離れないでください。分かりました?」
ユーロ紙幣を受け取りながら、ハルカは無愛想にこくりと頷いた。そしてぽつりと、
「……あとで返──っ」
あとで返す──。言い終わる前に左頬をひっぱたかれた。でも全然痛くはなかった。手を怪我しているからだろうか?
もう一発来ると思い、ハルカがシュネーを抱きしめながら目を閉じて縮こまっていると──いきなり抱きしめられた。ハルカは驚いて目を開ける。
「大丈夫だよ。すぐ迎えに来るからね」
耳元で囁かれる。その声はあの人を彷彿とさせる程、甘く穏やかだった。まるでエミリオはハルカの心を読んだみたいだった。今一人になることをハルカがどれだけ心細く思っているか、知っているみたいだった。
ハルカが呆気にとられて固まっていると、やがてエミリオが離れた。そして、「じゃ」と短い言葉を残して消えた。
ハルカはエミリオが消えた空間をしばらく黙って見つめた。
優しい時のエミリオはよく分からない。何を考えているのかどういうつもりなのか。しかし、悪意は無いように感じられた。これからもたまに叩かれたりたまに抱きしめられたりするのだろうか。
──ハルカがAランクに落ちたら、その瞬間僕は一滴残らず吸い尽くします。
あの時言ったことは今でも変わらないのだろうか。ハルカがトリプルSじゃなくなったら、エミリオはあっさりハルカの血を吸い尽くし、殺すのだろうか。結局エミリオにとってハルカは、ただの“食料”に過ぎないのだろうか。
そう思うと、なぜか鉛を飲み込んだみたいに重たい気持ちになった。物悲しい感じだ。憎しみを抱くには余計なことを知り過ぎてしまった。
アナの存在と酷い傷がなければ、ハルカはきっとエミリオのことを、出会った日と同じように今でも嫌悪していた。恐怖を与えてくる最悪な敵でしかないと思っていたはずだ。
その後ハルカはトネットと共にホテルへ向かった。ホテルへ向かう前、なんとトネットが服をプレゼントしてくれた。お店のものだ。シンプルで細長いリボンが付いたハイネックブラウスとグレーのニットワンピース。それからロングブーツまでも。
本当にトネットはハルカのことを“かわいそうな女の子”と思っているのかもしれない……。いや、もしかしたらエミリオが何か言ったのかもしれないが。
複雑な気持ちになったものの、ハルカはとりあえずお礼をたくさん言った。
◆
(ハルカ……。いったいどこにいるんだい……?)
日に日に焦りと不安は募る一方だった。フィンランドに着いてからもう3日が経っている。ハルカを連れ去ったエミリオはエリザベスの検索に引っ掛からなかった。チヒロの使い魔──社長の検索にも。
ハルカとエミリオが一緒にいなければエミリオを見つけても意味は無いのだが、居場所のヒントくらいは聞けるはず。本当は人間の検索ができればいいのだが……。
「ハイコどうだった?──ってその顔じゃ訊くまでもないか」
拠点と決めた、フィンランド中部の安ホテルの部屋に戻ったら、ちょうどチヒロも帰って来た。チヒロは疲れたような顔をしている。チヒロの腕の中の社長もぐったりとしていた。
「うん……。まだ見つからないよ」
疲れ切ったエリザベスを両手で包み、暗い顔でベッド脇に腰掛けると、
「あのさぁ、俺考えたんだけど」
チヒロがなにやら提案してきた。ハイコは顔を上げる。
「エミリオもあれでいてバカじゃないじゃん? やっぱフィンランドにはいないんじゃないかと思うんだ。だから場所変えない?」




