第6話 8
「この家を知っているのはカーフォード夫妻だけなので──」
エミリオは何事もなかったかのようにしゃべり出した。
「ここにいてもいいんですけど、力の強いヴァンパイアは余裕で10キロ検索とかかけて来ます。それに捕まる訳にはいきません。捕まったらハルカの本当の居場所を吐かせられます。僕がハルカに会ったことがあるということをドイツのヴァンパイアは知っていますから。なので僕はアナとカーフォード夫妻と共にどこか遠くへ避難します。期間はとりあえず1週間にしました。どうしてハルカだけバチカンかというと、ハルカしか入れないし、対ヴァンパイアにおいてバチカンは世界で一番安全な場所ですから」
「どうして?」
きょとんとするハルカ。
「バチカンには“アレ”があるんですよ。前にも言いましたよね? “ヴァンパイアの決定的な弱点”です。だからしばらくはその街に守ってもらっていてください。それからは僕がハルカを守ります。実は──」
エミリオは目を逸らし、足を解いて両足の踵を絨毯につけた。
「アナに言われたんです。これから大勢の強いヴァンパイア達に狙われ続けるハルカのことを、守ってあげて欲しいと。自分は下級ヴァンパイアで力も弱いし、シフトは下手だし魔法もあまり使えないからハルカを守れない。だから代わりに僕が──という訳です。まぁ、ハルカはペットだしアナの声を戻してくれたし?──」
そこでエミリオはまた足を組み頬杖をついた。上から見下す態度だ。
「僕にもいちおう守る義務はありますから。というか──」
ハルカは一瞬、エミリオの赤眼に怒りの炎を見た気がした。
「他の奴らになんて絶対渡したくありません。血を飲まれるのはもちろん、指一本、髪の毛一本触れられるのも嫌です。あんな奴ら……──」
包帯だらけの指が眼帯に触れた。右の赤眼に仄暗い闇が混ざる。ハルカのマンションに初めて現れた時のように、その目は病的だった。
向かいのソファーの、カーフォード夫妻の間で大人しく聞いていたアナが、兄の良からぬ表情を怪訝に思ったのか、眉をひそめた。
「死ねばいい」
低い、囁くような声だった。それはきっと自分を痛め付けた人物に対して言ったのだろう。
「……ねぇ、本当にその傷、ハイコ先生達がやったの?」
慎重に、探るように訊いたのに、
「そうですよ」
あっさりとしていた。しかも即答だ。
「特にヴェインリッヒの鬼畜っぷりときたら、びっくりしましたよ。普通あそこまで変われません。眼球を取る時なんか心底愉しそうで──」
先程の表情とは打って変わって、エミリオは得意げだった。
(嘘だ)
ハイコ先生が誰かを痛め付けるなんて。そんなの嘘だ。そんなの……。でも……大人は……。
迷いがハルカの中に充満した。それはダークマターとなって、ハルカの宇宙を覆う。せっかく見つけかけた小さな光をも、容赦なく隠していく。
「聞いてますか?」
どすのきいたゆっくりとした声に、俯いていたハルカははっとして顔を上げた。
「き、聞いてるよ」
エミリオがため息をついた。そしてハルカをじとっと見て、「……アナが見てなかったら蹴り飛ばしてますよ」なんてことを言う。いちおう「ご、ごめん」と謝ったら、エミリオは立ち上がり、ここに来る時着ていたものとは違う黒のダッフルコートを羽織って、フードを目深に被った。そしてアナから白うさぎのシュネーを受け取って、「立って」とハルカに言う。
とりあえずハルカは素直に従う。
「Take care【テイクケア/気をつけてね】」
ぎこちなくそう言って微笑んだのはアナだ。ハルカが対応に困っていると、エミリオがハルカの頭を掴むように手を置いてきた。右の赤眼が閉じた。シフトする気だ。
緊張したハルカは意識して少しだけ微笑みながら、アナに小さく手を振った。そしてその後自分も目を閉じる。
空気が変わったことに気付くと、ハルカはゆっくり目を開けた。
知らない場所だった。辺りは真っ暗闇で、歯が勝手にがたがた鳴る程寒い。水の流れる音が微かに聞こえた。上を見上げると、ぎざぎざの黒に縁取られた狭い星空が見えた。そのぎざぎざは時々ざわざわと動いている。
「ここどこ?」
上を向いたまま訊くと、「うるさい。気が散る」と端的に言われ、頭の角度をぐいっと戻された。そしてすぐに景色が変わる。
先程とは一変、一気にあらゆる情報が入ってきた。ずっと下の方から車の走行音と人々の喧騒が聞こえる。まだ寒いがさっきよりは全然ましだった。風は無い。街明かりのお蔭でエミリオの顔もよく見える。
周りは、同じ高さくらいの建物が大通りに沿ってぎっしりと並んでいた。高くはない。ほとんどの屋根はオレンジ色だった。
ここは建物の屋上のようで、人は誰もいない。
「さっきの場所はロンドン郊外の──まぁ、森です。ただのシフト経由地点です。普通だったら方向的にもベルリンやミュンヘンが調度いいんですが、念の為です」
そう言ってエミリオがハルカの頭から手を離した。
「誰かの目の前にシフトしちゃった時ってどうするの?」
不意にそんなことが浮かんだ。
「は?」
エミリオは呆気に取られているようだったが、答えてくれた。
「シフト先に意思を持った生き物がいるかいないかはなんとなく分かるんです。それにもし見られても問題ありません。人間はそんなに簡単に信じませんから。せいぜい都市伝説くらいの噂になるだけです」
「そ、そっか」
納得いかなかったが、ハルカはとりあえず理解した振りをした。
「まずは服屋に行きましょう。あそこには──まぁいわゆる、“仕事上の敵の弱点”がいるんです」
エミリオがハルカの手を取って、外付けの非常階段を降り始めた。
「えっ? そ、その前にここは? バチカンだったらエミリオは入れないんじゃないの?」
混乱しながらも、ハルカは転ばないように気をつけながら階段を降りた。
「アホですか。あの狭いバチカンにこんな大通りがある訳ないじゃないですか」
「……だってバチカンなんて行ったことないもん……」
ハルカが口の中でもごもごと不満を言うと、エミリオはしっかり聞いていたようで、「行ったことなんかなくても普通は分かりますよ」と文句を言ってきた。
「ここはローマです。ここまでだったらぎりぎり来れるんですよ」
「ふーん」
興味のない相槌を打ちながらも、ハルカの胸はローマと聞いて少し躍った。
ローマということは、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂やスペイン広場、コロッセオなどがすぐ近くにあるということだ。行ってみたい──が、観光に来た訳ではない。バチカンにある“何か”に守ってもらう為に来たのだ。
そんなことを考えている間に地上に着いた。上手く歩けない程ではないが、上手く走れない程は人がいた。
ファッションセンスの良い、スタイルもモデル並の若い女性や、日本のサラリーマンも見習って欲しいくらい小洒落た雰囲気の中年男性などが歩道を歩いている。見る限り皆外国人だ。ここは観光客があまり来ない通りなのかもしれない。
立ち並ぶブティックの店内は明るく、まだ余裕で開店中のようだ。
車道を走っているのはほとんど外車だが、たまに日本のメーカーのものもあった。
ゆっくり街を見回している暇はなく、ハルカはエミリオに右手を引っ張られるがまま、人ごみを進んで行った。時々何人かが物珍しそうな顔でこっちを見た。エミリオはフードを目深に被っているし、ハルカはセント・エーデルワイスの制服だし日本人だしなにやら前の人物に引っ張られているし──いろんな意味で怪しく目立っているのだろう。
視線を感じる度にハルカは吐きそうな程のプレッシャーに襲われた。心細くなって、エミリオの左手をぎゅうっと握った。今はこの包帯だらけの手に頼るしかないのだ。たとえ以前叩かれた手でも。冷たい嘘をついているかもしれない手でも。
「……っ……あんまり強く掴まれるとさすがに痛いんですけど」
こっちを振り返らないで、エミリオが少し苦しそうに言った。
「あっ、ごっ、ごめん」
ハルカははっとして、慌ててエミリオから離れた。いつの間にか両手でエミリオの左腕にしがみついていたのだ。怒られる──と思ったら、
「……別に離れなくてもいいのに」
意外なことを、なぜか残念そうにぼそっと言った。
「迷子になったらめんどくさいから。ほら──」
エミリオがちょっとぶっきらぼうに腕を差し出して来た。
「掴んでていいから」
妙に優しいエミリオに警戒しながらも、心細さには勝てず、ハルカはぎこちなく、そっとしがみついた。
しばらく歩くと、エミリオは1軒のブティックに入った。店内は綺麗で清潔だったが、それほど高級な店でもなさそうだった。客は皆10代程度だし、服は同じものが積み重ねて並べられているし、奥行きはあるが幅が狭いし。
エミリオは、奥で服の整理をやっている一人の若い女性店員に話し掛けた。
ハルカはとりあえず一歩後ろで待つ。アナの使い魔の白うさぎ──シュネーは、エミリオのポケットに入っている。今のところエミリオがシュネーを連れて来た理由は不明だ。
女性店員は金髪を後ろで一つにまとめ、おだんごにしていた。すらっとした小柄な女性で、クラシックバレエが似合いそうだった。少し気が弱そうだが、仕事だけは真面目に熟すタイプに見える。
その女性店員の表情は、エミリオがフードを取ると明らかに強張った。そしてエミリオとハルカを店の奥へ促す。




