第6話 6
ハイコは素直に、チヒロのノートパソコンでフィンランド行きの航空券を二人分予約することにした。途中でパスワードなどを携帯電話でチヒロに訊いて。
ハイコだけじゃなくチヒロもフィンランドに行ったことがないようなので、航空機を使うしかなかった。
ドイツから来日した際は航空機を使ったので、ハイコはエミリオのようにシフトだけでユーラシア大陸を横断することはできない。
たとえ使い魔のエリザベスがいても、ハイコの力では、日本よりは断然フィンランドに近いドイツへ直接シフトすることも、とてもじゃないができなかった。
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傷に沿ってじわじわ溢れ出すハルカの鮮血に、アナが小さな舌をつけた。しかし、細長い傷口を全部舐め終わるどころか、端を軽くひと舐めしただけで口を離してしまった。
(……まずかったのかな?)
訝ったハルカがアナをそっと見ると、アナは驚いたように両手で喉の辺りを触っていた。
エミリオとカーフォード夫妻が心配そうに何か話し掛けた。通じないのは分かっていても、ハルカも、「……どうしたの? 大丈夫?」と話し掛けていた。
「あ……あ、あ……」
紛れも無く、それを発したのはアナだった。みんな一瞬固まったが、最初に動いたのはエミリオだった。
残念なことになんと言っているのか分からなかったが、エミリオはアナを抱きしめ頬にキスをして──なんと泣いていた。片方しかない赤眼からは確かに、透明の雫がまっすぐ零れていた。
心底ほっとしたように、ずっと背負っていたものから解放されたように、何かを赦されたように、微笑んで泣いていた。
カーフォード夫妻も、抱き合う兄妹を見て微笑いながら泣いていた。
まるで人間みたいだった。いや、ヴァンパイアだって人間と同じなのだ。心を持っている。愛する人だっているし、その人の幸せを喜び、不幸を悲しみ、抱き合って一緒に泣くことだってあるのだ。
何も変わらない。人間もヴァンパイアも。
無事使命を果たせたハルカは、なんとなく“家族”の雰囲気に居心地が悪くなって、さりげなく外へ出た。
泣いてないのも微笑ってないのも、ハルカだけだった。理由は分からない。ただ、心が動かなかった。それだけだった。アナの声が戻って嬉しい。みんなが幸せそうで嬉しい。そういう気持ちは確かにあったが、なぜか心が反応しない。
自分だけ一枚隔てた壁の向こうにいるような、疎外感。
前にもあった。友人達と映画を見に行った時。ハルカだけみんなと同じところで笑えないし泣けなかった。
ハルカだけ、ここにいてここにいない。
しかし、その壁を作ったのは自分かもしれなかった。人の感情の起伏について行けないハルカが作った、砦のようなもの。誰も侵入って来れないしハルカ自身も出られない。
これが、過去何人もの臨床心理士に言われた、“強い感情に対する無関心”だろうか。
……やっぱりわたしは病気なの……?
いや、そんなはずはない。さっきだって昨日だって、ちゃんと泣けた。わたしは普通。変なんかじゃない。
しかしどんなに言い聞かせても、ハルカが微笑っていなかったのは事実だった。
「……っ」
制服の袖口が傷を擦り、痛みが走った。ハルカはブラウスで血を拭き、そのまま放置した。別に死ぬ訳でもないし。どうでもいい。
庭にベンチを見つけたので浅く腰掛けたら、
「どうしたんです?」
エミリオが現れた。
「みんな心配してましたよ? いきなりいなくなるから」
そう言いながら隣に座った。
「アナ達はハルカの為に夕食を作ってます」
「わたしの、為……?」
少し驚いてエミリオを見つめる。
「当たり前だよ。だってハルカがいたから声が出るようになったんだから。まぁ、出たといってもずいぶん喉を使ってなかったから、まだ全然上手くしゃべれないけど。発声の練習をしなきゃいけないな」
今のエミリオはかなり機嫌が良いようで、微かに微笑んでいた。
「役に立てて、嬉しい」
「普通さぁ、そう言う時は微笑うものでしょう? 前から思ってたんだけど、どうしてハルカは微笑わないんですか? 過去に何か辛いことでもあったんですか? それが原因で微笑えないとか?」
ぎくりとしたが、ハルカは平静に、
「何もないよ。辛いことなんて」
自分に言い聞かせるように言った。辛いことなんて無い。何もされてない。わたしは幸せだった。愛されていた。
半ば無理矢理なのにも気付かずに、ハルカは続けた。
わたしはかわいそうな子なんかじゃない。みんなと同じ、普通の子。
その時アナとカーフォード夫妻が庭に現れた。アナははにかみ、何か言いたげな様子。カーフォード夫妻はそんなアナを後押しするように背中を押していた。
なんとなく、失礼な気がしてハルカは立ち上がった。
そしてついにアナが口を開く。
「あ、あ、あり……がとう……。ハルカ……お姉ちゃん……」
ハルカは目を丸くした。アナはわざわざハルカに分かる日本語で感謝の気持ちを伝えてくれたのだ。
エミリオが教えたとしか考えられないが、エミリオはアナを見て微笑んでいるだけで何も言わない。
アナが不安げな顔でそわそわし始めた。伝わったかどうか気になるのだろう。
(──!?)
頭の感触にびくっとするハルカ。振り仰ぐと、エミリオが手を置いていた。その赤眼は“GO”と言っている……。
そんなこと言われても困る。しかしハルカはぎこちなくもアナの前に進み出て、クリーム色の髪を優しく撫でてあげた。するとアナが、夏に咲く花みたいに力強く眩しく微笑って、安心したように両手を伸ばして抱きついて来た。発声も発音も微妙だったが、しきりに、「ハルカ、ハルカ」と声を上げている。
「出来るじゃないですか」
突然のエミリオの台詞に、
「何が?」
きょとんとすると、エミリオがさらりと、
「今すごくかわいく微笑ってた」
「…………」
驚き過ぎて言葉が出ない。
「え、わ、微笑ってたって、ほ、ほんとに? 微笑えてた? 変じゃなかった?」
かわいいのはどうでもいいが(どうせエミリオがからかっただけだろうし)、これだけは確かめたかった。
「え? 別に。普通──というかかなりかわいい感じに微笑ってましたけど?」
「そ……そう……」
目を逸らし、曖昧な返事をする。
未だに信じられなかった。作ることなく自然に微笑ったのはどれくらい振りだろう……。たぶん、お母さんが幸せそうに微笑った時以来だ。
「もしかして、ハルカが微笑うのってすごく久しぶりなんですか? だとしたら僕の方が早い?」
「何が?」
またもやきょとんとするハルカ。
「ハイコ・ヴェインリッヒより、僕の方が早くハルカの笑顔を見た?」
「え? 何言ってんの?」
思わず呆れて眉をひそめたら、両頬をつねられた。
「なんかその言い方ムカつきま──うぁっ!」
エミリオは最後まで言うことなくハルカの頬を放して、腹部を押さえて芝生に転がった。アナの跳び蹴りをまともにくらったのだ。
アナはエミリオに跨がり、怒ったように何か言いながらしっちゃかめっちゃか叩いている。するとすかさずカーフォード夫妻がそれを止めた。
驚いたハルカがぼーっと突っ立っていると、落ち着いた様子のアナがぎこちなく、「Sorry【ソーリー/ごめんなさい】」と言ってきた。英語なら通じると思ったのだろう。ハルカも英語で、「Never mind【ネバーマインド/気にしないで】」と答えた。
後に聞いた話しによると、フィンランドでは学校でスウェーデン語と英語を習うらしく、国民のほとんどがトリリンガルだそうだ。……エミリオはそれに加え日本語やドイツ語も話せるマルチリンガルだけれど。
ハルカの左手首の傷は、夕食前、アナが手当てしてくれた。
そして夕食は本当にごちそうで、5人+使い魔1匹では到底食べ切れないほどだった。
じゃがいもをすり潰して焼いたコロッケのようなものや、いろんな種類のパン、茹でたソーセージ、マッシュポテト、ピロシキ、オートミール、アップルパイ、グラタン、クリームシチュー、サラダ──。
どれも熱烈に進められたが、ハルカは少食なのであまり食べることが出来ず、心苦しい思いをした。すべてがフィンランド料理という訳ではなかったが、どれも美味しかった。よく知らない国の家庭料理なので少し味を心配していたが、それは杞憂に終わった。
夕食後、片付けを手伝おうかと言ったら、“ハルカお姉ちゃんは休んでて”と言われてしまった。
エミリオの通訳は無愛想だったが、いまさらながら“お姉ちゃん”と呼ばれたことがものすごく恥ずかしくなってしまい、ハルカはつい素直に従った。




