第6話 5
夕食の下ごしらえが終わると、アナとカーフォード夫妻がリビングにやってきて、アナは小さな白うさぎの使い魔──ドイツ語で“雪”こと“シュネー”を、ハルカに紹介していた。通訳は結局エミリオだが。
シュネーはメスだ。本当に雪のように真っ白い。そしてかなりの臆病で怖がりなので、先程、初めて見る日本人の人間──ハルカが庭までついて来た時は、それはもう本気で死ぬ程怖かったらしい。
ハルカとアナはエミリオの通訳でいろんな話しをした。ハルカはアナの質問攻めにたじたじのようだったが。
そしてエミリオは、ハルカの血は特別だから、それを飲めば声が出るようになるかもしれない──という話しを真面目にアナにした。
アナは大きな目を見開いた後、手話で何か伝え始めた。様子は落ち着いている。
「“もしかしてお兄ちゃんは、私の為にハルカさんを連れて来てくれたの?”」
エミリオはアナの手話を同時通訳する。
「そうだよ。日本からね。見つけたのはほとんど偶然だったよ」
エミリオは先に日本語を言ってから、アナに分かるフィンランド語でしゃべった。
アナがまた手を動かす。
「“きっと簡単じゃなかったでしょ? だからそんな怪我しちゃったんだ……”」
アナが伏し目がちになった──と思ったらフリル付きのピンクのクッションをぶん投げてきた。クッションはエミリオの顔面に命中し、さっきせっかくアナが買ってきてくれた──ガーゼとゴムで出来た医療用の白い眼帯が片耳だけ外れた。
エミリオはぽかんとする。なぜここでクッションを投げられなければならないのか。さっぱり分からない。
カーフォード夫妻は苦笑していた。ハルカだけがぎょっとしている。ハルカはまさかアナがこんな風なおてんばだとは思ってなかったのだろう。アナは昔からこうなのだ。体を動かすのが好きで、よく木に登ったりもする。
エミリオはとりあえず眼帯を直した。するとアナが目に涙を浮かべ、興奮気味に何か伝え出した。
エミリオはそれを日本語に訳していく。
「“バカ。心配したんだから。どうしてそんな無茶するの? お兄ちゃんが死んじゃったら、私の声が出るようになったって、何の意味もない”」
アナはカーフォード夫妻になだめられ、袖で涙をごしごし拭いていた。エミリオを本気で心配していたみたいだ。
「なんだよ……。じゃあ無駄足? せっかくアナの為に……」
かなり嬉しかったのだが、それを悟られないように、エミリオは少しいじけてみせた。そしてそれをフィンランド語でアナに訊く。
アナが手話で返してきた。
「“なに情けない顔してるの? お兄ちゃんが苦労して私の為にやってくれたことだもん。ありがたく受け取るよ。それに早く、声が出ない病気を治したいから。だって、これ以上お兄ちゃんに心配かけたくないし。私、お兄ちゃんのこと大好きだから”」
アナはもう落ち着いているようで、微かに微笑みながら伝えてきた。後にいくにつれ自分の声質が明るくなっていくのを、エミリオは止められなかった。
アナがハルカの方を見て何か伝えた。エミリオは訳そうと思ったが──やめた。それはもうハルカに訊いた内容だったから。
アナは律儀にも血を吸う許可をハルカに求めていたのだ。
エミリオはフィンランド語でアナに、「大丈夫。ちゃんとOK貰ったから」と伝えた。
何を話しているのか気になったのか、ハルカがちらっとこちらを見た。通訳というものがめんどくさくなってきていたエミリオだったが、珍しくハルカが“知りたい”というような顔をしていたので、教えてあげた。
するとアナがまたハルカに向かって手を動かした。
「“本当にいいんですか? 怖くないんですか?”だって。何て言う?」
訊くと、
「えっと……」
ハルカは一旦下を向いて──なにやら考えている様子。そして顔を上げ、エミリオを見て言った。
「わたし、アナの声聞いてみたい。きっとかわいいと思うし……」
ちょっと嬉しかったが、エミリオは、「なんですかそれ」と眉間に皺を寄せて突っ込んだ。
その後ハルカの言ったことをアナに伝えると、アナはうさぎのようにぴょんと立ち上がり、笑顔でハルカに握手を求め出した。ハルカは緊張したように立ち上がり、ぎこちなくそれに応えていた。
するとアナはハルカの両手を握り、嬉しそうにジャンプして喜びを表現し出した。そして最後にぎゅっと抱き着いた。
こういうことには慣れていないのだろうか。ハルカはどうしたらいいか分からないというように、オロオロしていた。
アナは無邪気に微笑っている。
なんだか責任重大になってきた。これで声が戻らなかったらどうしよう……。
ハルカの心配をよそに、エミリオがキッチンからペティナイフを持って来た。
あれで切るんだ……。
ハルカの予想は当たり、いつか聞いた台詞をエミリオが言う。
「どこがいいですか?」
まぁ、女の子に首を噛まれるよりはましかな──と思ったハルカは、素直に左手を差し出した。
甲を向けて差し出したのにあっさり裏返され、制服を捲られ、結局血管浮き出る手首の内側を切られた。
(いっ!)
声には出さず、ハルカはぎゅっと目をつむってなんとか痛みに耐えた。血管は切れていないようで、噴き出す程の血は出て来なかった。最初からこのつもりだったのかどうなのか──ハルカには分からない。
リスカしたと思われるから手首は嫌だったのに。
しかし今のハルカの心理カウンセラーは今までのタイプとかなり違う。父親に言って大事にしたり、めんどくさいことはしないだろう。……たぶん。
その前に自分は日本に帰れるのだろうか。そんな心配がハルカの頭を過ぎった。
◆
「チヒロォ~ッ! ハルカが! エミリオ君が! シフトで怪我してて嘘なのに血まみれで分かんないって──!」
チヒロのマンションの部屋にシフトしたハイコは、とにかく1秒でも早く言いたいことを、文法を無視して必死に伝えた。
今日はクライアントと会って話す予定がない日なのか、チヒロは黒系の私服でタバコを吸いながらノートパソコンをいじっていた。テーブルの下では巨大な三毛猫──社長が毛玉ボールで遊んでいる。
「は? なに? 意味分かんないって落ち着いて話せよ。でっ? エミリオはホントに学園に行った? ハルカちゃんは? てゆーかその前に靴脱ごうよ」
言われた通り靴を脱ぎ、玄関ポーチに揃えて置いて、また戻って来てソファーに座った時、ハイコは若干落ち着きを取り戻した。
「エミリオ君は教室にいたのだ。そこにはハルカもいて……」
そこでハイコは言葉に迷い、暗く俯いた。
わかんない……。
困ったようにそう言ったハルカを思い出したのだ。
ハルカは自分を信じてることを明確に伝えてくる──そんなことをどこか当たり前のように期待していたハイコは、ハルカの曖昧な反応にショックを受けた。
ハルカはまだ全然ハイコを信じていない。
その事実がハイコを落胆させた。
出会ってまだ日は浅いしハルカは大人を信じにくい性格だし、無理があるのも分かるが、やっと上りきった階段からよく知る誰かに突き落とされるのと同じくらい、ハイコにとっては悲しみと絶望が纏わり付く出来事だった。
「今のハイコがそんな顔するってことはハルカちゃん関係しかない訳で。つまり俺の推理によると、あの性格捩曲がった生意気少年に“やられた”って訳だ? エミリオの奴、あの酷い拷問の傷を俺──もしくは俺とハイコのせいだとか──ハルカちゃんにそう言ったんだろ? そしてハルカちゃんはそれを完全に──もしくは半々で信じちゃってたり? だからハイコは落ち込んでると?」
チヒロの、少し癖のある黒髪からちらっと覗く黒い瞳は、真面目だった。
「すごい……。さすがチヒロ。そのまんまだよ」
ハイコは素直に感心した。
「ハルカはエミリオ君に連れ去られてしまったのだ。早く誤解を解いて助けてあげないと。でも、いったいどこに行ったのか想像がつかないのだ」
顎に手を当てたチヒロがじっくり思案するように、
「ドイツがエミリオをあそこまで酷く拷問した理由は、エリクシルを盗み出した理由を問い質す為なんかじゃなくて、それを白く輝かせた“原因”がどこにいるのか聞き出す為だ。エミリオがハルカちゃんのことをドイツに話していたとしたら──日本は危ない。それにエミリオの傷はまともな手当てがされてなかった。つまりドイツから“逃げて来た”って訳だ。だからエミリオの目的地はドイツでも日本国内でもない」
チヒロの推理に再び感心しながら、ハイコははやる気持ちを抑えて言った。
「で、ではいったいどこに……?」
「そういえば……」
チヒロが眉を寄せた。
「確かエミリオはドイツに来る前、フィンランドに住んでいたとか──昔誰かに聞いたことあるな……」
「よし! フィンランドに行こう!」
やる気満々に立ち上がったら、
「ちょっと待て」
チヒロに肩を掴まれた。
「正確な場所は分からなくともだいたいの場所を昔の友達に訊いてくるから、ハイコは二人分のチケット取って待ってな」
「あっ……!」
チヒロはハイコの反応を聞く前にシフトしてしまった。
じっとなんてしていられなかったが、今はチヒロが戻って来るのを待つしかない。




