第6話 4
あの酷い胸の傷や左目には縫合や専門の治療が必要だと思うが、ヴァンパイアだからだろうか。見た感じでは平気そうだった。そういえば以前ハイコが、ヴァンパイアは傷の治りが早い──と言っていたのを思い出した。
左目には何重にも重ねられたガーゼがテープで止められていた。それを見ながら、ハルカは気になったことを慎重に訊いた。
「傷はほっといても治るんだよね……? ……目は……?」
「さすがに眼球の再生は無理です。どんな治癒術使いでもね。でも──」
エミリオの、包帯だらけの指が左目のガーゼに軽く触れた。
「これはもういいんです」
どこか、吹っ切れたように微笑った。なんだかそれは儚げで、改めてエミリオが美少年だったことに気付く。
「こんなもの、欲しけりゃくれてやりますよ」
ほんの少しだけ、妖しく微笑った。
「でも……──」
いきなりエミリオがハルカの首筋に抱きついてきた。ゆっくり、締め付けるように。消毒液の匂いが濃くなる。
「ハルカだけは、渡さない……」
それはハイコやチヒロに対して言ったのか、それともハルカの知らない別の誰かに言ったのか──ハルカには分からなかった。
家の中に戻ると、30代後半くらいの男女が二人訪ねて来た。エミリオによると、女性の方がソフィア・カーフォードで、男性の方がクレイン・カーフォードだそうだ。二人は夫婦らしい。ちなみに二人共ヴァンパイアだと補足してくれた。
ソフィアはエミリオの母親の親友らしい。ソフィアの身体に問題があり、カーフォード家に子供はいない。二人はほぼ毎日のように、アナを自分達の子供のように可愛がりに来てくれるそうだ。ソフィアの方は身の回りの世話。クレインの方は勉強を見てくれるらしい。
ソフィアはあまりしゃべらないが、陰鬱な気配はなく、上品で美しかった。時々見せる笑顔が親しみ易い。陰で支えるタイプだ。クレインは道化師のように陽気な人で、声が大きかった。空回りしてしまいそうなタイプだが、ちょっとやそっとじゃくじけなさそうだった。
エミリオは二人に感謝していると言っていた。つまり歓迎している訳だ。
エミリオ達の両親はいったいどこにいるのかとハルカは疑問に思ったが、差し出がましい気がしたので訊くのをやめた。
アナとカーフォード夫妻と──やはりアナの使い魔だったあの小さな白うさぎが、隣街まで買い出しに出掛けると、ハルカはエミリオに真面目な口調で呼ばれた。大事な話しがあると。
リビングのソファーに座ると、紅茶を持って来たエミリオも同じくソファーに座り、話し出した。
「ソフィアとクレインを見て妙だと思いませんでしたか? なぜこの家には本物の両親がいないのか──って」
「思ったけど、訊いちゃまずいのかなって思って」
「別にいいよ。ある程度聞いた方が“助けたい”って思いが強くなって、“成功率”上がるかもしれないから」
エミリオの意図することはまだよく分からなかったが、ハルカは真面目に聞いた。エミリオの片方しかない赤眼は真剣だったから。
「アナの声が出なくなったのは、僕のせいなんです」
「え……?」
「肉体的なことではなく、精神的なことが原因なんです」
アナの笑顔を思い出したハルカは、とても信じられなかった。
「僕はロシアで生まれました。5歳の時に父が首を吊って自殺。母はフィンランドの実家──つまりここですね。両親はすでに他界したらしく、誰もいないこの家に戻って妊娠中だったアナを産んだんです。だから僕等兄妹は生まれた国が違います。しばらくは母とアナと僕の3人で平和に暮らしました。人間の学校に普通に通ってましたね。今じゃありえないけど。でも、アナが5歳になった時──」
エミリオの顔が少し曇った。
「母が病死してしまったんです。今思えば、そこからすべてが狂っていったのかもしれません。母は亡くなる少し前くらいから、自分も、死んだ父も、僕もアナも、家族みんなヴァンパイアだと打ち明けました。初めは信じられなかった。いくら子供の僕だって空想と現実の区別くらい出来てましたし」
「子供の頃、血を飲みたくなったりしなかったの?」
なんとなく気になり、訊いてみた。
「たぶんしてたんでしょうけど、それが“血を飲みたい”という感情だとは気付きませんでしたね。母は上手く隠してくれてました。なにしろヴァンパイアは血を飲まないと死にますから、料理の中に混ぜてくれてたみたいです」
それを聞いてハルカは少し気分が悪くなった。人間の血が混ざった料理をリアルに想像してしまったのだ。
「それから病気なのに病院に行かないのは怪しまれると思ったんでしょう。ソフィアとクレインがドクターの格好をして来ましたよ。まぁ、子供を騙すにはそれくらいで十分だったんでしょうけど。実際騙されましたし」
そこでエミリオが包帯だらけの手で紅茶を一口啜った。
「母は家族がヴァンパイアだという事実と一緒に、自分が死んだらソフィア達と一緒にドイツへ行けと言ってました。ヴァンパイア達の街があるから、そこで暮らして行けと。結局それが遺言ですよ」
ソファーに沈み、エミリオが悲しい目をした。きっとエミリオは母親が好きだったのだろう。ハルカも、もしも母親が死んだら──と考えてみた。しかしいくら考えようとしても脳が拒否してしまい、しっかり考えさせてくれなかった。理解できないのだ。母親が死ぬことについて。
「でも、いくら遺言でも、僕は信じられませんでした。混乱した僕はソフィア達の手を振り切って、アナと二人で逃げたんです。僕が生まれたロシアへ。なんとなく、父がいるような気がしたんです。“死んだけど、死んでない”。10歳の子供の理屈なんてそんなものです。しかし住んでた家には知らない家族がいて、僕はどうしたらいいか分からずに、ただ街をさ迷って、気付いた時にはストリートチルドレンですよ。ゴミ漁りも物乞いも、盗みだってやりました。アナの為に」
ハルカはなんと言葉を掛ければいいのか分からなかった。普通の育ち方をしてはいないと思っていたが、ストリートチルドレンまでやっていたとは。しかし軽蔑はしなかった。エミリオはたくましい──そう思った。
「でも、すべては……ロシアに行ったことが間違いだったんです。おとなしく、ソフィア達とドイツに行っていれば良かったんです」
膝の上で握ったエミリオの拳が震えた。
「アナはロシアでレイプされました」
ハルカは息を飲んだ。全身にぞわっと悪寒が走り抜ける。
「僕が目を離したのが原因で。たったの5歳で。あいつらは5人で、ナイフを持っていました。もちろんアナは何も持っていません」
その時ハルカは、エミリオが学園の時計台で言ったことを思い出した。
敵は5人。ナイフを持っています。ハルカは1人。何も持っていません。
あの時の真剣な例え話しは、そういうことだったのだ。アナに起こった悲劇が二度と起こらないように、ハルカに男の怖さを教えてくれていたのだ。きっと、切実な願いを込めて。
「なっ……!? なんでハルカが泣くんですか」
言われて初めて、ハルカは自分の頬が濡れていることに気付いた。
「……気にしないで。続けて」
指先で涙を拭うハルカ。
エミリオは、らしくない微妙に困った顔をしていたが、また話し始めた。
「目を開けたアナは、声を失っていました……。その時僕の中の何かが吹っ切れていくのを感じました。髪が真っ白になり、目が赤くなったのもその時です。……どういう理由かは分かりませんが」
言いながらエミリオは白髪をつまんで見せた。
「それから、襲った奴らへの復讐を誓い、ソフィア達と一緒にドイツへ行くことをあっさり決めました。自分がヴァンパイアだという事実も簡単に受け入れました。むしろアナを傷付けた汚らわしい人間なんかじゃなくて良かったって、心の底から思いましたよ。その後僕とアナはドイツでヴァンパイアのことをたくさん勉強して、基礎知識を身につけました。しばらくすると、アナだけはソフィア達も住むこの村のこの家に帰しました。アナの生活の面倒はソフィア達に任せて、僕はもっと高度な魔法を必死に覚えていきました。すべてはアナの生活費を稼ぐ為です」
生活費……? 魔法を覚えるとお金が貰えるのだろうか?
ハルカが少しだけ首を傾げると、
「ヴァンパイアは生きてるだけで給料が貰えるんですよ。ほんの少しだけど」
エミリオが答えてくれた。
「でも偉くなると、それはもう人間がびっくりするくらい貰えるんです。もちろん人間社会で使えるお金ですよ? ちなみにユーロです。だから僕は今まで、上司の理不尽な暴力にも耐えて一人で頑張って来たんです。そしてある日ビッグニュースが舞い込んだんです。“トリプルSには浄化効果がある”──。僕は“それ”を見つけました。君だよ、ハルカ」
赤眼に見つめられ、どきりと緊張するハルカ。
「ハルカの血を飲めば、アナは声を取り戻せるかもしれないんです。安心してください。もったいないので殺しはしません。……了承してくれますよね?──いや、してください」
断る理由といえば、怖い、痛そう──ということくらいだった。エミリオは殺しはしないと言っているし、ハルカが我慢すれば良いだけのことだった。何よりハルカは、あの無邪気で明るいアナの声が聞きたいと思っていた。あの天使のような子に足りないものがあるとすれば、それは兄の名を呼ぶ声だけだから。
自分しか持っていないもので誰かを救えるのは、とても幸福なことだと思った。だからハルカは頷いた。
アナ達は午後2時近くになってようやく帰って来た。昼食はレストランで済ませて来たらしい。お昼をすっぽかした罪滅ぼしに夕食はごちそうを作ると張り切っていた。
ちなみにエミリオとハルカの昼食はシリアルにミルクをかけただけという簡単なもの。包帯だらけのエミリオに料理なんてさせられない──とか殊勝なことを言うハルカが作ってくれたものなのだが……エミリオはそんなものを料理とは断じて認めなかった。
しかし、普段料理しないから──と言って謝り、しゅんとなって俯くハルカを見たエミリオは、なんだか急に愛しさを覚え、結局全部たいらげた。




