第6話 1
「はぁ~ら減ったぁっ!」
空腹のわりには威勢の良い掛け声と共に、巨大な三毛猫──社長がハルカの腹部にダイブした。
「けほっ! こほっ、こほっ!」
突然の衝撃に、ハルカは激しく咳き込みながら目覚める。
(なっ、なに?)
訳が分からないながらも自分のお腹の上にいる社長を発見したハルカは、とりあえず起き上がる。
まだ6時だ。お風呂に入るとしてもちょっと早い。
「オレはマグロが食べたいぞっ」
社長がいきなり自分の食べたいものを言ってきた。まだ半分眠っている頭でハルカがぽかんとしていると、社長が肉球でぺたぺたと頬を叩いてきた。
「マッ、グッ、ロッ!」
(まぐろ……)
ハルカは心中でぼんやり反芻し、マグロという物体を思い出す。
「マグロないよ」
目を擦りながら事実をもごもご言った。
「じゃあ買って来いよ」
当たり前のように言う社長。
(…………え!?)
微妙に間をあけてびっくりするハルカ。頭がまだ上手く回っていなかったが、朝一でパシられそうになっているこの状況がプチショックだった。しかも猫に。
買って来ないとダメなのかな……。こんな時間にスーパーってやってるのかな……。
ハルカが悩んでいると、
「ハルカを困らせるなぁ!」
空色の小鳥──エリザベスが社長の耳をくちばしで突いた。
「いてっ! 何すんだよ!」
「迷惑かけちゃダメって言われただろっ?」
「オレ様より小さいくせに命令すんなよ!」
「小さくないよ!」
「ちっせーじゃん。ちびちびちびちびちーび!」
……まるで小学生同士のように低レベルな喧嘩が始まった。ハルカのベッドの上で。小動物が2匹(……社長の方は“小”とは言えないけれど)。
たぶんヴァンパイアの使い魔というのは、せいぜい小学校低学年くらいの精神年齢なのだろう。声質も幼いし。……すべてがそうとは限らないけれど。
「ち……、ちっさくないもん!」
エリザベスは今にもくじけそうだ。
「ちっせーよ。絶対ひと口で食えるね!」
「うわぁっ!」
社長が前足で挟むようにエリザベスを捕らえた。
「ダ、ダメだってばっ」
ハルカは慌ててエリザベスを助け出した。
「じゃあマグロ買って来いよぉ。それかチヒロに持って来いって電話してくれよ。じゃないとこいつ食うぞ!」
社長がエリザベスを前足でビシッと示した。どうしてもマグロが食べたいらしい……。
ハルカは仕方なく、臨床心理士でもありヴァンパイアでもあり社長のマスターでもある、牧野チヒロに電話をかけた。
かくかくしかじか、社長がどうしてもマグロを食べたいらしい──と伝えると、チヒロは大きなため息をついた後、なにやってんだよ社長は──などとぼやき、すぐにシフトして社長を引き取りに来てくれた。夕方また“届けに”来ると言って。
(チヒロ先生も大変だなぁ……)
チヒロの毎日の苦労をしみじみ感じつつ、ハルカはお風呂に入ってエリザベスと共に学園へ向かった。朝食は今日も食べない。
私立セント・エーデルワイス学園に着くと、ハルカはまず女子寮に向かった。持って来たエーデル祭の衣裳を返すのと、制服とバッグを受け取る為だ。
やはりといったところか、寮は外観も内装もヨーロッパの宮殿並だった。シャンデリアに壁紙、絨毯に大理石の大階段。すべてに高級感が漂っている。
モモとユカリは昨日いなくなったハルカを本当に心配していたようで、部屋では熱烈な歓迎を受けた。
その後ハルカはモモ達の部屋で制服に着替え、教室まで3人で登校した。
その日は放課後まで、昨日のハルカの行方をいろいろと訊いてくる生徒達を除けば、きわめて何事もなく平和な1日だった。
ハイコは相変わらずバカみたいに笑っていたし、リュウトは元気だし、モモとユカリは彼氏といい感じだし。
エーデル祭の片付けは問題なくスムーズに終わった。生徒会からの謝罪とやらもハルカの望み通りこじんまりとしたものになったし、ネガも携帯電話もすんなり返してもらえた(当たり前だが)。
なんだかハルカはむしろ申し訳なく思って(だって自分が寝てる間に必死に探してくれていたのだから)、半ば無理矢理、雑用か何かを手伝わせて欲しいと生徒会に頼んだのだが、姫にそんなことさせられない──とかなんとか言われてしまい、結局何もやらせてもらえなかった。
微妙に積極的になった自分に驚きつつも、ハルカは仕方なく生徒会室を出た。
積極的になったのは──きっと最近いろんなことがあったからだ。大都市東京に越してきて、派手な学園に通うことになって、先生はヴァンパイアで、少年ヴァンパイアに血を吸われて……、初めて大人を信じられそうになって……──。
物思いに耽りながら生徒会室がある森を抜け、ハルカはバッグを取りに教室へ戻った。今日はもうこれで帰るつもりだった。部活が長引くらしく、最近一緒に帰っているリュウトには先に帰っていいと言われていたし。
何事もなく平和な1日だったのはそこまでだった。
綺麗に磨かれた大理石の廊下にぽつぽつと続く赤い跡。それは血痕だった。壁に沿い、ハルカの教室へと延びている。
ハルカは恐る恐る、木製の両開き扉を静かに開けた。暗い教室には誰もいない──と思ったが、よく見ると机に突っ伏している人物を発見した。そこはハルカの席だ。
その人物は肩で息をしている。時々咳をして──かなり苦しそう。血痕はその人物へと続いていた。
ダッフルコートを着ていたしフードを被っていたし、靴も男女関係なく履きそうなものだったので、その人物の性別は分からなかった。しかしこの高等部の教室にいてもまったく違和感のない体格だった。大人ではない。
警戒しながら近付き、ハルカはそっと声をかけてみた。
「……あの、大丈夫?」
謎の人物が顔を上げた──と思ったら突然立ち上がり、首筋に抱き着いてきた。また顔が見えなくなったが、ハルカは一瞬確かに見た。雪のように白い髪。ピジョンブラッドのような赤眼。
(エミリオ……!)
驚愕したハルカは1ミリも動けなくなる。
「やっと……げほっ! ごほっ! ……見つけた……」
エミリオはかなり苦しそうだ。
「……っ、……なんで、牧野チヒロなんかに、首輪を……」
そこでエミリオはハルカの身体を辿るようにして床に崩れた。そして机と机の狭い空間に横向きに倒れ、背中を丸めて激しく咳き込み出した。
(チヒロ……先生……?)
ハルカの中に小さな恐怖が生まれた。ダッフルコートから覗くワイシャツはボロボロだったし、胸には肌が爛れたグロテスクな痕や切り傷、酷い痣などがたくさんあったし、両手の爪は何枚か剥がれていたし、なによりなにもかもが血まみれだった。
一番気になるのは左目だ。雑に包帯か何かで隠されてはいるが、頬や顎、首筋までもが左目から流れたと思われる血液で真っ赤に染まっているところを見ると──恐らく左目は……。
もしかして、これ全部をチヒロ先生がやったの……?
エミリオは首輪──ネックレスを頼りにシフトしたらチヒロ先生がいて、チヒロ先生にこんな酷いことをされたの……?
チヒロには少し軽い印象を受けるが、さすがにここまで残酷なことをする人物には、ハルカにはとても見えなかった。
しかし……。
思えば、まだ牧野チヒロという人物をよく知らないことにハルカは気付く。
そんな事実がハルカをより恐怖と混乱の渦へと巻き込んだ。
何がなんだか分からないハルカだったが、なんとか言葉を紡いだ。
「だっ、大丈夫!? とりあえず、きゅ、救急車──」
エミリオに腕を掴まれる。
「ハルカはアホですか……」
苦しげに、弱々しく掠れた声で話し出すエミリオ。
「ヴァンパイアの身体構造は人間と同じですが、血液が違うんです。どーせ輸血なんてできません」
「じゃ、じゃあ、ハイコ先生の知り合いの──セシリアっていう、怪我を治せるヴァンパイアなら──」
「いいんです」
遮られた。
「それより、早く日本から離れないと」
「え……?」
ハルカは訝ってエミリオの──片方しかない赤眼を見つめた。
「後で……話します……」
エミリオは難儀そうに身体を起こし、椅子に座った。ハルカはそれを手伝う。エミリオはいわゆる“敵”なのに、そんなことをしている自分が分からなかった。
エミリオが不意にハルカの右手を掴んで目を閉じた。シフトをする為かもしれない。「今は短距離しか飛べないから……」とか、「とりあえず札幌……。その次がハバロフスク……」とか、シフトの計画らしきものをぶつぶつ言っている。
ここで手を振りほどけば、簡単に逃げられそうだった。しかし、ハルカにはそれが出来なかった。正確には、“したくなかった”。同情していたのかもしれない。誰かに痛め付けられて、ボロボロになっているエミリオに。いくらエミリオでも、きっとすごく怖かったに違いないから……。
ハイコがいつ来るか分からないので、エミリオは30秒に一度の割合で“ヴァンパイア検索”をかけていた。今は体力がほとんど無いので範囲は100メートルとかなり狭いが、“敵”が来る心構えができるだけでも十分だった。
早くハルカをフィンランドにいる妹──アナの元へ連れて行かなくてはならない。
それなのに。
さっきからシフト先のヴィジョンが定まらない。ドイツから日本に来るときも、チヒロから逃げてこの学園に来るときも、そんなことなかったのに。……やはりもう限界なのか……?
ヴィジョンが明確に定まらないと、その場所にシフトできない。
エミリオは札幌のヴィジョンを頭に浮かべるのに必死になった。しかしふと忘れていた、ヴァンパイア検索をかけた時だった。一人引っ掛かった。ハイコだ。




